<藤原氏>北家 九条流

F521:藤原師輔  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原伊尹 F522:藤原伊尹


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藤原伊尹 藤原義懐

 天慶4年(941年)従五位下に叙された後、蔵人,美濃介,伊予守などを兼任した。ところが、天徳4年(960年)に父・師輔が急死すると、九条流は存亡の危機を迎えた。だが、憲平親王を皇太子と定めた村上天皇の強い意向で、同年の除目で参議に進み、康保4年(967年)に従三位に昇り、続いて上臈4名を飛び越して権中納言に転じる。その間に弟の兼通・兼家を相次いで蔵人頭に送り込むことに成功して、村上天皇との関係を維持した。同年、村上天皇が崩じて安子所生の皇子・憲平親王が即位(冷泉天皇)。父の師輔は既になく、伯父の実頼が関白太政大臣となったが、天皇との外戚関係がなく力が弱かった。一方、伊尹は天皇の外伯父として、権大納言に任じられ、翌安和元年(968年)正三位に昇る。伊尹は冷泉天皇に娘の懐子を女御として入内させ、師貞親王が生まれている。
 冷泉天皇は狂気の病があり、長い在位は望まれず、東宮には同母弟で年少の守平親王が東宮に選ばれた。これは為平親王の妃が左大臣・源高明の娘であり、将来、源氏が外戚となることを藤原氏が恐れたためだった。さらに、安和2年(969年)、源満仲による謀反の密告で安和の変が起きる。この陰謀の首謀者は諸説あるが、伊尹が仕組んだという説もある。同年、冷泉天皇は譲位し、守平親王が即位する(円融天皇)。東宮には師貞親王が立てられた。
 天禄元年(970年)、摂政太政大臣だった伯父の実頼が薨去し、天皇の外伯父の伊尹は摂政・氏長者となる。天禄2年(971年)太政大臣に任ぜられ、正二位に進む。伊尹は名実ともに政権を掌握したが、それから程ない翌天禄3年(972年)に病に倒れ、上表して摂政を辞め、まもなく薨去した。享年49。正一位を贈られ、謙徳公と諡された。死因は糖尿病だったとする説が有力である。
 性格は豪奢を好み、大饗の日に寝殿の壁が少し黒かったので、非常に高価な陸奥紙で張り替えさせたことがある。父の師輔は子孫に節倹を遺訓していたが、伊尹はこの点は守らなかった。
 和歌に優れ、天暦5年(951年)梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰和歌集』の編纂に深く関与した。『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に38首が入首。家集『一条摂政御集』がある。書家として名高い藤原行成は孫であり、そこから世尊寺家を輩出した。
 『大鏡』において、伊尹の若死についての以下の逸話がある。伊尹の父・師輔は自らの葬送について、極めて簡略にするように遺言していたにもかかわらず、伊尹は通例通りの儀式を行った。師輔の遺言に背いたために伊尹は早逝したとの噂があったとされる。

 天禄3年(972年)、16歳の時に従五位下に叙せられるが、同年に父・伊尹が急死し、2年後の天延2年(974年)には二人の兄(惟賢,義孝)が同日に病死するという災難に見舞われ、若年時は不遇の時代を過ごす。ただ、同母姉の冷泉天皇女御・懐子が生んだ皇太子・師貞親王がおり、その数少ない外戚として、天元2年(979年)には春宮亮に任ぜられている。
 永観2年(984年)正月、従四位上に叙せられる。同年8月に師貞親王が即位(花山天皇)すると、蔵人頭に抜擢され、その年のうちに正三位に昇叙される。翌寛和元年(985年)には従二位・権中納言に昇進して、一気に政界の中枢に躍り出た。権中納言の官職自体は公卿の中では低く直ちに摂政関白に至る地位ではないものの、かつては叔父の兼通が天皇の伯父の資格で権中納言から一気に内覧内大臣に昇進してそのまま関白に就任した例もあり、義懐もまた次の大臣・関白の有力候補の一人になったのである。
 ところが、天皇と義懐、そして父の代からの側近で天皇の乳兄弟でもある藤原惟成が中心となって推進した荘園整理令などの新制の発布,貨幣流通の活性化など、革新的な政策は関白の藤原頼忠らとの確執を招いた。さらに皇太子・懐仁親王の外祖父である右大臣・藤原兼家も花山天皇の早期退位を願って、天皇や義懐と対決の姿勢を示した。そのため、宮中は義懐,頼忠,兼家の三つ巴の対立の様相を呈して政治そのものが停滞するようになっていった。
 さらに混乱に拍車を掛けたのが天皇の女性問題である。藤原為光の娘・忯子に心動かされた天皇は、忯子を女御に望んだ。しかも、幸か不幸か義懐の正室は忯子の実の姉であり、天皇は直ちに義懐に義父・為光の説得を命じた。娘婿の必死の懇願に為光も忯子の入内を決める。だが、天皇の寵愛のし過ぎが忯子に無理を強いて結果的には病死させてしまう。これにショックを受けた天皇は出家して忯子の供養をしたいと言い始めた。義懐は天皇の生来の気質から、出家願望が一時的なものであると見抜き、惟成や更に関白・頼忠も加わって天皇に翻意を促した。
 だが、寛和2年(986年)6月23日、花山天皇は深夜に藤原道兼に促されて宮中を後にする。その後、三種の神器が兄の道隆や異母弟の道綱らの手により皇太子のもとに運ばれた。全て道兼兄弟の父親である兼家の策略だったと伝えられている。義懐が花山天皇の「失踪」を知ったのはその後のことである。義懐と惟成は必死に天皇の居所の捜索にあたった。だが、義懐が元慶寺(花山寺)にて天皇を発見した時には天皇は既に出家を済ませていたのである。自分達の政治的敗北を悟った義懐は惟成とともにその場で出家してしまった。
 法名は悟真、受戒後は寂真。僧侶となった義懐は京都の外れにある飯室に籠った。出家後、僅か数年で違う女性に手を出したと言われる花山法皇とは対照的に、藤原道長ら旧知の人達との交流は残しながらも、その残り人生のほとんどを仏門の修行に費やした。その死を聞いた人々は「義懐は極楽往生を遂げたに違いない」と語り合ったと言われている。
 なお、息子の尋円,延円が義懐と共に出家、続いて成房も長保2年(1000年)、伊成も寛弘6年(1009年)に出家と、義懐の息子は若くして多くが出家の道をたどった。

藤原懐子 延円

 応和3年(963年)頃、皇太子・憲平親王(のちの冷泉天皇)に入内。康保4年(967年)冷泉天皇即位で更衣、さらに同年に女御宣下を受け従四位下。安和元年(968年)第一皇子・師貞親王  (花山天皇)を出産、同2年(969年)冷泉天皇退位により師貞親王が立太子。天延2年(974年)従二位に進み、同3年(975年)31歳で薨去。永観2年(985年)、花山天皇即位で皇太后を追贈された。
 冷泉天皇の後宮には皇太子時代から正妃・昌子内親王がいたが、狂気の夫帝を恐れて近づかなかった昌子内親王は子をもうけることもなく、女御ながら懐子は冷泉天皇が在位中に1男2女をもうけた唯一の妃であった。ことに第一皇子・師貞親王は伊尹という有力な外祖父を持つ皇子として立太子されたが、しかしその後、伊尹は摂政太政大臣となりながらも外孫の即位を見ることなく49歳で死去した。

 平安時代中期の僧、絵師。父とともに比叡山飯室の安楽律院に住したことから飯室阿闍梨とも称される。
 仏画を中心とした大和絵に優れ、『大鏡』の中では絵阿闍梨の君と記されている。万寿元年(1024年)、後一条天皇の高陽院行幸の際に御座の絵屏風を制作し、同じ年、法成寺薬師堂の柱絵を描いている。
 造園術にも秀で、治安元年(1021年)高陽院を修造する際には庭園の庭石の配置を担当している。『前栽秘抄』の一節に「植伝を得たる人」と記述される。増円の著書『山水並野形図』巻末の造庭技術家系図に載っている一人で、橘俊綱に継承しているという。『両古抄伝書』の中にも確認されている。
 遺作は残されていないが、醍醐寺所蔵の不動明王図像の中に延円筆二童子の写しが伝わっている。

藤原成房 藤原伊成

 数え年5歳の寛和2年(986年)に寛和の変が発生。成房の従兄弟に当たる花山天皇の後を追って、父の権中納言・藤原義懐が出家している。
 長徳2年(996年)正月に従五位上・筑前権守に叙任されるが、同年に発生した長徳の変で左遷された藤原伊周の名を避けるためか、6月に成周から成房に改名している。のち、右兵衛佐,近衛少将と武官を歴任。
 長保2年(1000年)7月下旬から9月初旬にかけて中宮・藤原彰子が中宮権亮・源則忠の堀川邸に滞在し、則忠に家主の功労として叙位がなされることとなったが、則忠自身からこの邸宅は既に成房の所領となっており成房を加叙すべきとの申し出があり、成房が昇叙される。このことから既に成房は源則忠の娘と結婚していたと想定される。
 この頃、成房は病により白川にある寺に住んでおり、昇叙の連絡の使者もこの寺に遣わされた。さらに同年12月の皇后・藤原定子の崩御をきっかけに出家を志して、既に出家していた父・義懐が住んでいた比叡山の飯室を訪れるが、父の説得や、藤原行成と源成信からの激励により思いとどまり、翌月の長保3年(1001年)正月に藤原行成に連れられて帰京する。同年3月には左大臣・藤原道長から近衛中将の任官打診を受けた藤原行成が同職を譲る形で、成房が右近衛権中将に任ぜられる。
 しかし、翌長保4年(1002年)2月2日に飯室にて出家。今回は前年末の東三条院の崩御に伴う忌中と当時発生していた花山院の懊悩危急が出家の原因とみられるが、前回成房を激励説得したはずの源成信は成房が帰京した翌月である長保3年2月3日夜に電撃的に出家してしまっていたため、行成の説得も奏効しなかった。この時の年齢は21歳。最終官位は右近衛権中将従四位上。法名は素覚。
 没年は不詳であるが、寛弘5年(1008年)の花山院崩御の際に、父や兄弟と共に入棺の奉仕を行ったことや、寛弘8年(1011年)に行成が成房と共に鴨院を参詣し夜通し語り合った旨の記事が『権記』に見られる。

 『権記』によると、長保2年(1000年)に兄・成房の舎弟であった薬壽が加冠し、内蔵頭・藤原陳政が理髪を行ったとの記事があり、これが伊成を指す可能性がある。
 長保4年(1002年)の成房の出家を経て、長保5年(1003年)までに左兵衛権佐に任ぜられ、同年3月には従兄弟にあたる藤原行成の許を訪れた人物として『権記』に登場する。寛弘4年(1007年)右中弁・藤原経通,侍従・藤原能信らと共に昇殿を許される。のち、寛弘5年(1008年)右近衛少将、寛弘6年(1009年)左近衛少将と引き続き武官を歴任する。
 同年11月末に中宮(土御門邸)で行われた敦良親王(のち後朱雀天皇)の誕生五夜の産養に際して、伊成は右兵衛佐・藤原能信から罵倒される内にその責めに耐えられず、笏で能信の肩を殴りつけた。これによって蔵人・藤原定輔は伊成を縁側から突き落とし、能信の家人を召し集め、髪を捕らえて俯せに踏みつけ、松明をもって殴り押さえつけたとされる。この凌辱事件が原因で、伊成は12月1日に出家した。 

成田助隆 成田資員

 出自は藤原氏説と、武蔵七党の一つ・横山党説がある。少なくとも鎌倉時代以前、武蔵国北部に拠っていたとみられる。
 藤原氏説には先祖を藤原道長とする説と藤原基忠とする説の2つがある。道長説は『藩翰譜』に見え、道長の子孫・任隆が武蔵国幡羅郡へ下向し、その曾孫・助隆が成田を名乗ったとする。ただし『藩翰譜』で道長の子孫に任隆はみえないと指摘される。
 基忠説は江戸時代に成田氏の末裔が作成した『成田氏系図』にみえるもので、藤原行成の弟・基忠を祖とする。基忠が武蔵守となり、武蔵国崎西郡に居住したのが始まりとされる。基忠の子・宗直が崎西郡司となり家忠,道宗と続き、助隆の時に成田郷に居住して地名を氏としたとされる。 

 室町時代後期の武蔵国の国人領主と考えられている。成田顕泰の養父で出家後に法号「正等」と名乗り、号を自耕斎とされる。受領名は左衛門尉後に下総守。『文明明応年間関東禅林詩文等抄録』掲載の「自耕斎詩軸并序」にのみ見える人物だが、ここには「岩付左衛門丞顕泰父故金吾、法諱正等」とあるだけで成田氏であるとは書かれていない。「成田系図」にも正等という人物の記載はないが、顕泰の父・資員とみなす見解もある。
 「自耕斎詩軸并序」における「正等」の特徴として、普段から曹洞宗の名僧である月江(正文)老に参じてとあり、月江正文一門と正等との交流があったことが明らかであるが、成田氏と月江一門は没交渉である。
 成田氏は関東管領上杉氏の支配下にあったが、享徳の乱において正等は途中から古河公方足利成氏に寝返って、上杉氏と戦った。その際に拠点として築かれたのが忍城とされている。この忍城の築城年代と築城者には諸説あるが、文明11年(1479年)時点での城主が正等か養子・顕泰であるとされ、また正等が忍城を築城したとする説も示されている。
 後に長尾景春の乱に加担するが敗北、忍城を上杉軍に攻められるが、文明11年(1479年)、太田道灌の仲裁により降伏が許されて景春と対立関係にあった長尾忠景の子・顕泰を養子に迎えた。

成田顕泰 成田長泰

 総社長尾氏5代当主・長尾忠景の3男として誕生。成田正等(自耕斎、岩付正等)の養子となる。文明12年(1480年)、養父・正等が隠居し家督を継いだとされる。
 山内上杉家に従い、明応6年(1497年)頃に関東管領・上杉顕定の偏諱を受け「顕泰」と名乗る。太田氏の勢力再興と共に永正6年(1509年)に支城の忍城に移った。
 永正の乱では甥の長尾顕方と共に古河公方・足利政氏,関東管領・上杉顕実に従い、横瀬景繁や長尾景長と戦ったが敗退、新しく関東管領となった上杉憲房に降伏した。
 大永4年(1524年)、死去。なお、旧来の成田氏の系譜では文明16年(1484年)没とされ、大永4年に没したのは嫡男の親泰とされてきたが、近年の研究において成田氏代々の当主の死没日の記事が1代ずつずれている事が明らかとなった。 

 明応4年(1495年)頃、成田親泰の子として誕生。当初は関東管領・上杉憲政に仕えていた。天文14年(1545年)4月、父・親泰が没し家督を継ぐと、主家が後北条氏との抗争で衰えていたため、5月には後北条氏に服した。その後、永禄3年(1560年)、関東管領に就任した上杉謙信が関東に進出すると、その配下になる。しかし謙信が小田原城を包囲して後に帰国すると(小田原城の戦い)、北条氏康に降伏し家臣となった。
 上杉謙信に反旗を翻したのは、一説には鶴岡八幡宮で行われた関東管領の就任式で長泰が下馬をしなかったことで謙信に扇で烏帽子を打ち落とされるという恥辱を受けたため、兵を率いて居城へ戻ったといわれている。長泰が下馬しなかったのは成田氏が藤原氏の流れをひく名門で、祖先は源義家にも下馬をせず挨拶をしたという名誉の家門であるので、長泰は古例により下馬をしなかったという逸話があるが、小田原城の戦いの後、隣地である羽生領の帰属を巡って、謙信と衝突したためとも言われている。
 永禄6年(1563年)、謙信に忍城を攻められて降伏した。このため、隠居を命じられて嫡男・氏長に家督を譲るが、永禄9年(1566年)に氏長を廃して家督を次男・長忠(泰親)に譲ろうとしたために氏長と対立するも、弟・泰季や宿老・豊嶋美濃守らの反対に遭い結局断念して出家し引退した。天正元年(1574年)、死去。享年79という。 

成田氏長 成田甲斐姫

 永禄6年(1563年)、上杉謙信の侵攻によって隠居を余儀なくされた父・長泰に代わって家督を継ぐ。永禄9年(1566年)に父から寵愛される弟・長忠(泰親)と家督を争うが、宿老・豊嶋美濃守らの味方により長忠が身を引いたため実権を得ることに成功した。こうした経緯から当初の従属先は上杉方だったが、劣勢と見るや父と同様に北条方へ寝返っており、その際、佐竹氏を頼って上杉方として抵抗を続けていた太田資正の娘とは離縁している。永禄12年(1569年)に謙信と北条氏康との間で同盟が成立すると、国分の協定によって謙信も成田一族を氏康の家臣として正式に認めた。天正年間に入ると叔父・小田朝興の騎西城を併合して弟・長忠を入れたとされる。
 天正10年(1582年)、織田氏の家臣・滝川一益が関東に進出してくるとその配下となる。しかし本能寺の変が勃発し、一益が神流川の戦いで北条氏直に大敗すると、再び後北条氏へ帰参した。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐では、自身は小田原城に籠城したため、居城である武蔵国・忍城は家臣であり親族である成田長親に守らせた。その留守には石田三成の水攻めを受けたが、効果の薄い豊臣勢の攻撃にも助けられて持ち堪えている(忍城の戦い)。忍城が包囲に耐えた原因には、三成の指揮が適切でなかったことや、水攻めの堤防工事に徴用した地元の農民には城方に有利となるような手抜き工事をされたために、堤防の決壊が相次いだことなどが挙げられている。
 北条氏滅亡後、弟・長忠と共に蒲生氏郷に仕え、のち娘・甲斐姫が秀吉の寵愛を受けたこともあって下野国烏山2万石に封ぜられた。文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前国名護屋城に参陣した。文禄4年(1596年)12月11日没。嫡男は天正14年(1586年)に早世したため、弟・長忠を養子に迎えて後を継がせたとされている。

 忍城城主・成田氏長と、最初の正妻で上野国金山城城主・由良成繁の娘との間に生まれる。外祖母となる妙印尼(由良成繁の妻)は、天正12年(1584年)に金山城が北条氏の軍勢に襲撃された際、71歳という高齢にも拘らず籠城戦を指揮した人物であり、甲斐姫の母も武芸に秀でていたとされる。
 天正元年(1573年)、成田氏と由良氏の関係悪化に伴い、母とは2歳の時に離別した。その後は氏長継室となった太田資正の娘の下で育てられたが、継母や巻姫や敦姫といった腹違いの妹たちとの仲は良好だったという。19歳となった甲斐姫はその容姿から「東国無双の美人」と評されたが、武芸や軍事に明るかったことから、「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」とも評された。
 甲斐姫,巻姫,敦姫のほかに、氏長には天正14年(1586年)に亡くなった嫡子と、下野国の小山秀綱または小山政種に嫁いだ女子が存在したと考えられている。
 天正18年6月4日(1590年7月5日)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、500余の兵と城下の民たち合わせて3,000人程度が籠もる忍城に石田三成率いる約2万3千人の豊臣秀吉軍が侵攻した。忍城は湿地を活かして築城されている上に、城代・成田泰季が率いる籠城軍の士気は高く、城攻めは難航した。この籠城戦の最中に城代の泰季は発熱を起こし、そのまま病死したが、死の間近の遺言で、泰季の嫡男・長親を総大将とすることとなる。
 成田勢の抵抗に対して三成は備中高松城と同様に水攻めの戦法を採用。城の周囲に石田堤と呼ばれる長大な堤防を築き、水を引き入れて成田勢を無力化する作戦に出た。しかし、6月18日(7月19日)頃から梅雨時の風雨により、同日夜半に2箇所で堤が決壊、濁流が石田勢を押し流し、270人近くにおよぶ溺死者を出した。成田勢が夜陰に乗じて堤を破壊したためだとも言われる。
 6月25日(7月26日)、岩槻城や鉢形城を攻略した浅野長政の軍勢が援軍として差し向けられると、6月27日(7月28日)、甲斐姫は自ら出陣しようとする長親を押し留め、姫自らが鎧兜を身に付け、成田家に伝わる名刀「浪切」を携え、200余騎を率いて出陣。甲斐姫の到着より先に佐間口を守備していた正木利英が手兵を引き連れて応援に駆けつけていたこともあって浅野勢の侵入を阻止することに成功し、甲斐姫も多くの敵将を討ち取ったとされる。
 7月5日(8月4日)、豊臣側は石田・佐竹勢が下忍口から、浅野・長束勢は持田口から、大谷・宇都宮勢が佐間口から三方面同時に侵攻を開始し、激戦となる。甲斐姫は本丸から200余騎を率いて持田口に加勢し、佐野勢の三宅高繁という武将と対峙すると相手を弓矢で討ち取ったと伝えられている。
 7月6日(8月5日)、北条側の総大将の北条氏直が豊臣側に降伏。小田原城の受け渡しが行われた後も忍城の成田勢は籠城を続けていたため、秀吉の命により城主の氏長が使者を派遣し小田原開城の報と忍城開城を指示。使者の説得を受けて城代の長親は開城を決断し、7月14日(8月13日)の開城の際には甲斐姫をはじめ奥方,巻姫,敦姫らが甲冑を身につけて馬に乗り、籠城した諸士に囲まれながら城を後にしたと伝えられている。姫らの退出後、豊臣側の総大将の三成が忍城に入り、城代の長親の立会いの下で城の明け渡しが行われた。
 忍城退出後の動静には、さまざまな記述,伝承があり、定かではない。母を殺害した浜田将監・十左衛門兄弟を討ったこと、甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は、側室として召抱えて父・氏長は姫の口添えもあって、天正19年(1591年)に下野国烏山城主として2万石の領主に取り立てられた(後の烏山藩)こと、慶長3年(1598年9月18日)の秀吉没後は豊臣秀頼の養育係を務め、大坂の陣の後には秀頼の娘(後の天秀尼)と共に相模国鎌倉にある東慶寺に入ったとも言われる。天秀尼は正保2年2月7日(1645年3月4日)に37歳で亡くなったが、東慶寺にある天秀尼の墓の横には従者のものと見られる宝篋印塔があり、甲斐姫の墓とも考えられている。

成田泰親 成田泰之

 成田長泰の次男として生まれる。生年は定かでないが、兄・氏長と大差ない年代と考えられる。
 泰親の詳細な動向は定かでないが、『成田系図』によれば「始住騎西城」と記されている。騎西城主を務める叔父の小田朝興(小田大炊頭)は天正8年(1580年)に古河公方に対して年頭の挨拶を行ったことを最後に消息が途絶えるが、泰親は同年以降に朝興の跡を継ぎ騎西領を管轄したものと考えられる。
 天正18年(1590年)の小田原征伐の際には氏長と共に小田原城に籠城した。後北条氏の滅亡後、領地を没収され兄と共に蒲生氏郷に預けられたが、同年8月に氏郷が陸奥国会津に封じられると、三千石の知行を与えられた。天正19年(1591年)、九戸政実の乱が勃発すると同年7月に氏長と共に鎮圧のため参陣。鎮圧後、氏長は下野国烏山城2万石を与えられ、ふたたび大名となったが、泰親は主に京都で生活する氏長に代わって領国支配を任された。
 文禄4年(1595年)、氏長が死去したためその跡を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して在国し、会津の上杉景勝に備えた。戦後その功績により本領を安堵された。元和2年12月18日(1617年1月25日)に死去。なお、長男の重長は慶長8年(1603年)死去しており、重長の嫡子・房長は幼年のため、家督は次男の泰之が継いだ。 

 慶長20年(1615年)、弟の泰直と共に大坂夏の陣に従軍し戦功を挙げた。『成田系図』によれば、泰之は冬の陣に続いての出陣であり、同年5月7日の天王寺の戦いにおいて相手の首を数個討ち取ったと記している。一方、泰之の父・泰親からは家臣の青木与兵衛に宛て、泰之・泰直兄弟の働きについて青木に感謝を述べる内容の書状が送られている。
 年次未詳だが、泰親からは家臣の青木与兵衛に宛て、泰之・泰直兄弟の小姓の振る舞いについて諌める内容の書状が送られており、後の内紛の一因となったと推測されている。
 元和2年12月18日(1617年1月25日)、父・泰親が死去。長男の重長は慶長8年(1603年)死去しており、重長の嫡子・房長は幼年のため、房長の成人するまでという条件で次男の泰之が家督を継いだ。一方、『徳川除封加封録』によれば泰親の死後、一旦は改易されたが領地を完全に召し上げられた訳ではなく烏山1万石の領主として存続したと記されている。また、『断家譜』によれば房長が成人するまでとの条件で烏山1万石を賜ったと記されている。
 元和8年11月7日(1622年12月9日)、死去した。『烏山城主書上』によれば、泰之の死後、弟の泰直と甥の房長との間で家督争いが起き、騒動の結果、家が滅んだと記されているが、『断家譜』によれば泰之に実子がないという理由から領地が召し上げられたと記されている。成田氏の断絶後、烏山には常陸国小張から松下重綱が入封した。
 『寛政重修諸家譜』によると、成田氏の嫡流は房長の子の正安が元禄4年(1691年)に御家人に列し、子の正末の代に旗本に昇格し、その婿養子の正之は勘定衆となったと記されている。 

成田泰季 成田長親

 成田親泰の3男として生まれる。『成田系図』によれば、兄の長泰や甥の氏長に仕えた宿老であり、軍功で世に名を知られ、成田一門の「脇惣領」と称された。
 永禄3年(1560年)8月、越後国春日山城主・長尾景虎(後の上杉謙信)による関東出兵の際、長泰は景虎の下に参陣すると、同年11月に岩付城主・太田資正と共に先鋒隊として相模国方面に侵攻した。この時期に作成された『関東幕注文』には武州之衆として長泰と配下の16人の諸将の名が記されているが、その中に見られる「親類 同 大蔵丞」については泰季と比定される。
 『成田系図』によれば、兄の長泰から団扇を授かり、時には兄に代わって軍将を務めることもあり、深谷城主・上杉憲盛との合戦の際には田山豊後守と共に出陣し、勇戦したと記している。
 『成田記』によれば、永禄8年(1565年)8月、長泰が嫡男の氏長ではなく、末子の泰蔵に家督を譲ろうとしたため、忍城内において氏長,宿老の手島美作守,泰季らによるクーデターが起こり、長泰は菩提寺の龍淵寺に蟄居せざるを得なくなったと記されている。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、当主の氏長は後北条方に加勢し小田原城へ詰めた。『成田系図』や『成田記』によれば、泰季は当時すでに隠居し、所領を嫡男・長親に譲っていたが、氏長の命により忍城の城代を務めた。豊臣方の石田三成の率いる軍勢に籠城戦をもって対抗したが、6月7日(7月8日)に死去した。75歳没。『成田記』によれば、仏事は戦いの最中のため隠密に行われ、遺体は忍城下の清善寺に埋葬された。

 天文15年(1546年)、成田泰季の嫡男として生まれる。明確な時期は定かでないが、成田長泰の意向により遠山藤九郎の娘と結婚し、長男・長季,次男・泰家をもうけた。
 天正2年(1574年)の羽生城をめぐる上杉勢との戦いの後、羽生領の支配権は成田氏長に戦功として与えられ、氏長は城を修築した後、成田大蔵少輔長親を配置したとされる。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、当主の氏長は北条氏に味方して小田原城に籠城したが、成田氏の本拠・忍城は長親の父・泰季が城代を務め、500余の兵と城下の民たち合わせて3,000人が立て籠もった。秀吉は忍城攻めの大将に石田三成を任じると、佐竹義宣,宇都宮国綱,結城晴朝,多賀谷重経,水谷勝俊,佐野房綱ら北関東の諸将をはじめ2万余人の軍勢を率いて侵攻した。これに対し成田方も防備を固めるが、6月7日に城代の泰季が急死したため、奥方(太田資正の娘)は甲斐姫と相談の上、一門と家臣を集め、長親を総大将とすることを命じた。
 三成は忍城水攻めのため石田堤と呼ばれる全長14kmとも28kmとも言われる堤を築いたが、長親らの計略により、堤は断ち切られ、水は石田陣に逆行して多くが漂溺したという。6月下旬には、秀吉の命により鉢形城攻略を終えた浅野長政の軍勢が援軍として差し向けられると、激戦が続く。
 7月6日(8月5日)、北条側の総大将の北条氏直が豊臣側に降伏した後も忍城の抵抗が続く中、当主の氏長は籠城軍を説得するため家臣の松岡石見守,秀吉の家臣・神谷備後守を派遣した。長親らは、三成や長政ら攻城側からの「退城の際に運び出せる荷物は一人につき馬一頭分」という条件に反発し、籠城を継続する構えを見せたが、秀吉の仲裁により開城を決意したという。
 忍城の開城後、氏長は領地を没収され蒲生氏郷の下に身柄が預けられたが、天正19年(1591年)の九戸政実の乱などで功績を挙げた氏長は下野国烏山城2万石を与えられ、ふたたび大名となった。こうした中、成田氏の家臣団は、氏長に同行し烏山藩士となる者、氏長と袂を分かち忍城の新領主となった松平忠吉の家臣となる者、在地に留まり帰農する者などに別れた。長親の長男・長季は忠吉の家臣となっている。
 『成田系図』によれば、京都に上洛した氏長は浅野長政と石田三成に会い、「忍城の戦いの際、成田氏と同姓の持田口の者と密かに内通したが、故あって謀略は行われなかった」という話を聞く。氏長は成田近江守の逆心を知らず、長親に疑いの目を向けた。これを知った長親は烏山を去り流浪の身となった。氏長は後に近江守の逆心を知ると大いに後悔し、長親に書状を送り陳謝したが、長親はこれに従わなかったと記している。一方、『断家譜』には「小田原落城後浪人」とのみ記されている。氏長からの謝罪を断った後に剃髪して自永斎と号し、尾張国にて隠居した。なお、尾張は長男・長季が仕えていた松平忠吉が慶長6年(1601年)に関ヶ原の戦いの戦功により移封された地であるが、長親は息子に従って尾張に移り住んだものと考えられる。
 慶長17年12月4日(1613年1月24日)、67歳で死去。菩提寺は名古屋市中区大須にある大光院で、墓碑は千種区にある平和公園の大光院墓地にある。なお、氏長の家系は烏山藩時代に家督争いが起こり改易されたが、長親の家系はその後も尾張藩士として受け継がれた。