<藤原氏>北家 九条流

F522:藤原伊尹  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原伊尹 ― 藤原行成 F523:藤原行成


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藤原行成 藤原実経

 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」と称された。書道世尊寺流の祖。
 天禄3年(972年)、右少将・藤原義孝の長男として生まれ、祖父の摂政・藤原伊尹の猶子となるが、祖父は同年中に薨去。さらに天延2年(974年)父・義孝も急死し、一族の没落を受けて一時期は外祖父・源保光の事実上の養子となったとされるなど、青年期は沈淪した。しかし、長徳元年(995年)、親友の源俊賢の推挙によって地下人から一条天皇の蔵人頭に抜擢されてから運が開き、恪勤精励を以って天皇,執政(藤原道長)の両方に信任された。能吏として寛弘四納言の一に列し、正二位・権大納言にまで昇った。
 一条天皇の信頼が篤かったが、晩年に天皇が次期東宮に第一皇子の敦康親王を擁立して行成にその後見を期待したものの、行成は却って道長の意向を受けて道長の外孫である第二皇子の敦成親王(のちの後一条天皇)への皇位継承を天皇に迫ったとされている。もっとも一条天皇の説得の際に敦康親王が(傍流から即位した)光孝天皇のようになる可能性を示して一品叙品を図り、行成自身はその後も敦康親王が亡くなるまで、親王の家司を務め上げたことから、敦康親王を道長の政治的圧力から守るための行成なりの方策であったとも考えられている。
 万寿4年(1028年)12月1日に隠所に向かう途中で突然倒れ、そのまま薨去したという。なお、道長と同日に薨去したために、世間は道長の死で大騒ぎとなっており、彼の死については気に留めるものがほとんどいなかったと言われている。
 殿上で藤原実方と歌について口論になり、怒った実方に冠を奪われ投げ捨てられるも、行成は取り乱さず、主殿司に冠を拾わせ事を荒立てなかった。この様子を蔀から見ていた天皇が行成の冷静な対応に感心し、蔵人頭に抜擢した。
 俊賢の推挙により蔵人頭に任命されたことを承知していて、のちに俊賢を越えて従二位に叙せられた際も、決して俊賢の上席に着席しなかった。俊賢が出仕する日は病気と称して出仕を控え、やむなく両方が出仕する日は向かい合わせにの席に着座したという。
当時の実力者・藤原道長からもその書道を重んじられ、行成が『往生要集』を道長から借用した際に、「原本は差し上げるので、あなたが写本したものを戴けないか」と言われたという。
 正暦2年(991年)から寛弘8年(1011年)までのものが伝存し、これに万寿3年(1026年)までの逸文が残っている。また、庶務に通じていた行成は有職故実書『新撰年中行事』を著した。同書は後世盛んに利用され多くの逸文が知られているが、全体については伝存せず、散逸したものと考えられていた。しかし1998年、京都御所内東山御文庫に所蔵されていた後西天皇の宸筆『年中行事』という2冊の書物が、『新撰年中行事』の写本であることが逸文との照合等により判明し、研究者の注目を集めている。勅撰歌人として、『後拾遺和歌集』(1首)以降の勅撰和歌集に9首が採録されている。

 行成の日記『権記』に誕生記事が記載されており、母親の後産が悪く観修僧都の加持によって無事に出産を終えたことが記されている。寛弘3年3月16日(1006年4月19日)に9歳で昇殿を許され、3年後の寛弘6年12月14日(1010年1月1日)に元服を行う。加冠は藤原斉信が行い、藤原道長も馬1疋を贈ってこれを祝った。長和元年(1012年)には右近衛少将として賀茂祭の近衛府使を務める。3年後には父の書額功によって従四位上に叙せられた。後一条天皇即位時に民部大輔と侍従を兼ねる。
 治安3年(1021年)但馬守在任時に、同国にあった小一条院荘園の荘官と推定される惟朝法師に対して国府の役人を殺害したという虚偽の容疑をかけたとの疑いで、実経は郡司7名とともに告発された。殺人容疑は虚偽であったが法師側にも罪がある(暴行事実の認定か?)とされて最終的に両者ともに宥免され、同年6月2日に実経は釐務(職務)停止1ヶ月の処分を受けた。
 その後、万寿元年(1024年)に行われた藤原千古の着裳に際して父親の藤原実資に絹50疋を贈るなど、有力者への献上を行っている。父の没後、修理大夫を経て近江守に任ぜられたが、長元5年(1032年)に同国の百姓から不法を上訴されている。だが、その後も近江守の任にあり、3年後に藤原頼通の元で開かれた高陽院水閣歌合にも「右方 近江守」として参加している。


藤原行経 藤原伊房

 後一条朝の治安3年(1023年)従五位下に叙爵し、侍従に任官する。治安4年(1024年)右兵衛権佐を経て、万寿2年(1025年)右近衛少将に任ぜられると、長元6年(1033年)左近衛少将と近衛少将を務める傍らで、順調に昇進する。
 後朱雀朝に入ると、長暦2年(1038年)右近衛権中将に昇進して引き続き近衛次将を務める傍ら、長暦3年(1039年)、春宮権亮を兼ねて春宮・親仁親王にも仕える。長久3年(1042年)左近衛中将を経て、長久4年(1043年)蔵人頭に補される。
 寛徳2年(1045年)正月に親仁親王が即位(後冷泉天皇)するが、これまで春宮権亮を務めていたことから蔵人頭に留任し、同年10月には参議に任ぜられて公卿に列した。議政官としてはしばらく備後権守のみを兼帯するが、寛徳3年(1046年)春宮権亮の功労により従三位、永承4年(1049年)春日行幸行事賞により正三位と引き続き順調に昇進する。永承5年(1050年) 2月に兵部卿を兼ね、10月に上東門院行幸の院司賞により従二位に至るが、閏10月14日に薨去。享年39。

 後朱雀朝末の長久4年(1043年)従五位下に叙爵し、後冷泉朝の寛徳2年(1045年)侍従に任ぜられる。のち、左兵衛佐,少納言を経て、天喜4年(1056年)五位蔵人、天喜6年(1058年)右少弁次いで左少弁に任ぜられ、天皇の身近に仕える。治暦元年(1065年)権左中弁に昇格すると、治暦2年(1066年)従四位下、治暦3年(1067年)2月に従四位上、同年4月には正四位下と後冷泉朝末にかけて急速に昇進した。
 後三条朝に入っても、延久元年(1069年)蔵人頭兼左中弁と要職を務め、延久4年(1072年)正四位上・参議兼右大弁に叙任されて公卿に列す。白河朝でも議政官として左右大弁を兼帯する傍ら、昇進を続け、承暦4年(1080年)権中納言に任じられ、永保2年(1082年)には正二位に至った。
 堀河朝の寛治2年(1088年)大宰権帥を兼ねて大宰府に赴任する。寛治8年(1094年)大宰権帥の職権を利用して遼と私貿易を行ったことを咎められ、従二位に降格の上、権中納言兼大宰権帥の官職を解かれた。嘉保3年(1096年)8月に正二位への復位が許されたが、病気のため9月16日に出家し同日に没した。享年67。以後、世尊寺家は四代続けて公卿に昇ることができず、公家としては苦難の時代を迎えることになる。

藤原定実 藤原定信

 世尊寺家第4代当主。治暦4年(1068年)7月19日に叙爵を受け、承保4年(1077年)に侍従に任じられる。その後、近衛少将を経て寛治4年(1090年)8月10日に右京大夫に任じられ、承徳元年(1097年)1月5日に従四位上に叙される。権中納言に昇った父・伊房が私貿易を咎められ寛治8年(1094年)に解官されたこともあり、昇進面では不遇で最終官位は従四位上・土佐権守に止まった。
 元永2年(1119年)1月22日に病のために出家している。この間、承保2年(1075年)に父・伊房が書写した『北山抄』の校合を行ったことが知られ、他にも康和4年(1102年)の右大臣・藤原忠実の上表及び尊勝寺落慶供養の願文の清書役を務め、天仁元年(1108年)の鳥羽天皇大嘗会の悠紀主基屏風の色紙形を執筆したことが知られている。
 今日、定実の真蹟と確実に認めることができる筆蹟は遺されていない。しかし、先の『北山抄』における定実自筆の奥書と同筆の古筆類が多く残り、これらは定実の筆だと考えられる。元永3年(1120年)7月24日に作成されたとされている『元永本古今和歌集』は定実による写本とする有力説があり、これが事実であれば死去は同年よりも後のことと考えられる。 

 平安時代後期の廷臣・書家。藤原定実の長男で、世尊寺家第5世となり能書家として重んじられた。
 元永2年(1119年)32歳の時、父・定実が出家すると、能書として様々な書役を務めた。天治元年(1124年)摂政の上表文を、大治4年(1129年)に法勝寺千僧御読経の願文や、太政大臣の上表を書いた。康治元年(1142年)には大嘗会屏風の筆者となるなど、多くの墨跡を今日に伝えている。
 大治4年から仁平元年(1151年)の23年間をかけて、一切経全5048巻を独力で書写した。書写を終えた後、春日大社でこれを供養し、多武峰で出家、法名を生光とした。この一筆一切経の偉業を成し遂げたのは、日本の歴史上、定信と宗像大社の色定法師の二人だけである。『本朝世紀』によると、院宮諸家がその偉業を讃え、たくさんの贈り物をしたという。翌年、定信が左大臣・藤原頼長の家を訪ねた際、頼長は手を洗い、口をすすぎ、衣装を整え、まず定信に礼拝してから談話したという。しかし、奉納した春日大社で起きた火災で全て焼失してしまい、現存しない。
 鑑識にも長じており、保延6年(1140年)10月22日、小野道風書の『屏風土代』と藤原行成書の『白楽天詩巻(高松宮家本)』を入手し、『屏風土代』は延長6年(928年)11月、道風35歳の書であること、『白楽天詩巻』は寛仁2年8月21日、行成47歳の書であることを鑑定し、それぞれの奥書きに記している。今日、道風や行成の書風が分かるのは、この定信の鑑定によるところが大きい。
 書風は祖父・藤原伊房の影響が強いことが、当時から『今鏡』で指摘されており、代表作の『金沢本万葉集』も伊房筆『藍紙本万葉集』の書風に似ている。しかし、定信の方が一筆一切経の経験からか、運筆が早く軽快で緩急抑揚の変化が大きい。強い右肩上がりの書風で、「定信様」と呼ばれた。定信は西行と和歌の贈答をしたことが『山家集』に見えはするものの、歌人ではなかった。そのため、定信は当時一流の能書家でありながら、古筆の筆者としては尊重されず、多くは藤原公任の書跡とされて伝来している。

藤原伊行 藤原伊経

 1153年(仁平3年)、知足院堂供養の願文を清書しており、1159年(平治元年)と1166年(仁安元年)には大嘗会の悠紀主基屏風の色紙形の筆者に選ばれている。現存する日本最古の書論書『夜鶴庭訓抄』を残した。また最も古い『源氏物語』の注釈書である源氏釈を著した。
 また、歴代大臣の上表文の清書にも携わっており、藤原頼長の内覧辞任の上表の際に1字分脱字を冒して傍らに補ったことを頼長から責められた伊行は「1・2文字の脱字は書き入れ、3字以上はそのままにするのが『父祖所伝之故実』である」と主張して頼長を黙らせたという。また、世尊寺家の記録では安元元年(1175年)に没したとされているが、藤原基房の上表の際に仁安3年(1168年)の2度目の上表文は伊行が清書しておきながら、翌嘉応元年(1169年)の3度目のものは息子の伊経が行っていることから、この間に死去したとする説もある。書跡に「戊辰切」「葦手下絵和漢朗詠集」がある。また、箏にも巧みであったという。

 世尊寺家の第7代目当主。能書家・歌人として知られ、中務少輔,宮内少輔,太皇太后宮亮などを歴任し、元久4年(1204年)に正四位下に叙された。藤原教長からの口伝を筆記して書論書『才葉抄』を著し、『千載和歌集』奏覧本(天皇に献上する勅撰和歌集の完成本)の外題を記すなど、世尊寺流の大家として知られていたが、官位の昇進は振るわず、経済的には苦しかったとみられている。『千載和歌集』『新勅撰和歌集』に1首ずつ和歌作品が採録されている。
 藤原兼実は元暦元年(1184年)に上表文の清書を伊経に依頼したものの、伊経は清書の際に着用する正装を用意することができずに仮病と称してこれを辞退、代役であった藤原頼輔の清書が良くなかったために兼実が失望したという逸話が残されている。なお後に兼実が摂政を辞任した際の上表文の清書は伊経が担当している。

藤原伊子 世尊寺行能

 平安時代末から鎌倉時代初期にかけての女流歌人。父は藤原(世尊寺)伊行。母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。名は伊子という説がある。
 承安3年(1173年)、高倉天皇の中宮・建礼門院平徳子に右京大夫として出仕。藤原隆信,平資盛と恋愛関係にあり、資盛の死後、供養の旅に出たという。建久6年(1195年)頃、後鳥羽天皇に再び出仕した。
 家集に資盛との恋の歌を中心とする『建礼門院右京大夫集』がある。『山路の露』の作者であるとする説がある。

 鎌倉時代前期の公卿・能書家・歌人。世尊寺家の第8代目当主。「世尊寺」の家名は行能の代より用いられたとされている。
 建仁元年(1201年)叙爵。能書家として名高く、また九条道家の信任を受けた。寛喜元年(1229年)、道家は娘・竴子の入内の際に用いる屏風の色紙形作成の功労などを賞して、美作国にあった蓮華王院領の一部を行能に与えた。また、鎌倉幕府とも関係が深く、東国に下った時に詠んだ和歌が『続古今和歌集』に所収されている。
 天福元年(1233年)、四条天皇の大嘗会における悠紀主基屏風色紙形の清書を行能が担当することになったが、行能はそこに記す和歌に自作のものを採用するように願った。和歌は当代を代表する歌人が詠むものとされ、清書役が詠んだ先例がないために問題視されたが、藤原定家が行能の和歌にはそれだけの才能があること、世尊寺家は代々色紙形を書く時に備えて歴代の色紙形を練習に用いているので問題はないと行能を推挙している。文暦元年(1234年)には、自身の和歌も採録された新勅撰和歌集の清書を担当する。
 嘉禎2年(1236年)には従三位に叙せられたが、これは世尊寺家の3代目・藤原伊房が失脚して以来、約150年ぶりの世尊寺家からの三位叙位となった。仁治元年(1240年)に出家、家を養子の経朝(広橋頼資の子)に譲った。
 勅撰歌人として、『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に47首が採録されている。 

世尊寺行房 世尊寺行尹

 世尊寺家第11代当主。従二位・世尊寺経尹または少納言・世尊寺経名の子。官位は四位・左近衛中将。一条とも号した。
 大覚寺統の後醍醐天皇の側近として、蔵人頭,左近衛中将を歴任、元弘2年/正慶元年(1332年)、元弘の変後に天皇が隠岐に流された際にも千種忠顕とともにこれに従った。このため、持明院統・光厳天皇は大嘗会で用いる悠紀主基屏風色紙形を用意できなくなってしまった(色紙形は世尊寺家の当主が記すのが故実とされていた)。朝廷では行房の帰還を命じるが、彼はそれを拒んだ。このため、行房の弟・行尹ら世尊寺家の一族のものを代用せざるを得なくなったという。
 建武政権崩壊後、尊良親王,恒良親王,新田義貞,新田義顕 らと共に南朝軍を率いて北陸地方に向かうが、金ヶ崎城落城時に自らの命を絶った。家督は弟の行尹が継承した。
 世尊寺流を代表する能書家としても知られ、尊円入道親王に書法を伝授したという。また、勅撰歌人として、『玉葉和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に7首が入集している。 

 勘解由小路とも号した。 鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿・能書家。世尊寺家第12代当主となり、官位は従三位・宮内卿に至る。後世、藤原行成,世尊寺行能とともに世尊寺流の三筆と称された。
 行尹は延慶2年(1309年)に正五位下、延慶4年(1311年)に左兵衛権佐、文保2年(1318年)に従四位下に昇進したが、それ以後20年間の動向がはっきりしない。『入木口伝抄』によると、行尹は文保のころ、籠絡されて鎌倉に没落したとある。
 第11代当主である兄の行房が延元2年/建武4年(1337年)3月、金ヶ崎城落城時に自刃し、世尊寺家は年若い当主を失った。そして、行尹が第12代当主となり、世尊寺家は命脈を保つことができたが、行尹がいつ鎌倉から戻ったのか、その詳細は不明である。ただし、『公卿補任』によると兄の死の翌年(1338年)1月に行尹は従四位上に昇進したとあり、20年ぶりに官位が変化している。よって、このころに行尹は京に戻り、世尊寺家の家督を継いだと考えられる。
 行尹は延元4年/暦応2年(1339年)1月に宮内卿、翌年4月に正四位下に昇進し、それ以後、能書活動が記録されるようになった。その記録は『園太暦』に詳しく、興国5年/康永3年(1344年)から正平3年/貞和4年(1348年)までの活動が見え、特に晩年期の活躍が著しい。正平2年/貞和3年(1347年)9月25日、光厳上皇・広義門院が竹林院入道西園寺公衡の三十三回忌仏事を営むにあたり、菅原在成起草の願文を清書す、などとある。
 興国7年/貞和2年(1346年)、従三位に至るが、能書のゆえの栄進である。宮廷で持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)とが対立する中、行尹は北朝に仕え、公式の書役をつとめた。南北両朝の戦塵の中に行尹の能書活動が迎えられたのである。行尹の真跡として、『七首和歌懐紙』、『五首和歌懐紙断簡』、『諸徳三礼』などが伝えられるが、確実なものは遺っていない。しかし、三条西実隆の日記『実隆公記』に、行尹の書いた伝奏番文の筆跡を称賛した記録があり、彼の筆跡が優れていたことは明らかである。
 行尹は兄・有能の子である行忠を養嗣子に迎えた。行忠は第13代当主となり、正二位・参議に至り、家門の面目を十二分に発揮した。 

勾当内侍 世尊寺行康

 本名は不詳。公家の世尊寺家の一族で、一条経尹あるいは一条行尹の娘、一条行房の娘もしくは妹ともされる。『太平記』に新田義貞の妻の一人として登場する。なお、新田義貞との関係については文献が少ないこともあり、年代的な推定などから創作ではないか、さらには「勾当内侍」の実在すら疑わしいとする説もある。
 鎌倉時代後期に後醍醐天皇の討幕運動に加わり、鎌倉陥落に功績のあった上野国の新田義貞の妻になったといわれ、建武の新政を開始した後醍醐天皇が新田義貞への恩賞として与えたとされる。建武3年(1336年)、新田義貞は新政から離反した足利尊氏を楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、足利尊氏らは九州へ逃れる。建武政権が足利尊氏追撃を行わなかった理由は幾つか考えられているが、『太平記』では新田義貞は京都において勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したとし、勾当内侍が結果的に義貞の滅亡の遠因を作った女性であるとする描き方がされている。
 尊氏が上京して後醍醐天皇を追い、新田義貞は恒良親王らを奉じて北陸地方へ逃れ、足利軍の攻勢により1338年に越前国藤島で戦死するが、『太平記』においては、琵琶湖畔の今堅田において別れ、京にて悲しみの日々を送っていた勾当内侍は新田義貞に招かれ北陸へ向かうが、杣山において新田義貞の戦死を知り、獄門にかけられた新田義貞の首級を目にして落飾して比丘尼になったと描かれている。また、勾当内侍の父とされる行房も新田義貞に従い、北陸で戦死していると記されている。
 『太平記』では、義貞の死後、勾当内侍は京都の嵯峨にある往生院で、義貞の菩提を弔って余生を過ごしたとされる。一方で、琵琶湖琴ヶ浜に入水したという伝説が、大津市堅田にある勾当内侍を祭神とする野上神社と菩提寺の泉福寺に伝わっている。このほかに、江戸時代に講釈として『太平記』が流布すると、各地に勾当内侍の墓所が作られた。

 宝徳4年(1452年)従三位に叙せられ公卿に列し、康正元年(1455年)侍従に任ぜられる。康正2年(1456年)正三位・参議に叙任されるが、康正3年(1457年)参議を辞す。長禄2年(1458年)、伊忠から行高に改名する。長禄4年(1460年)侍従も辞するが、寛正6年(1465年)従二位に叙せられ、文明6年(1474年)正二位に至る。また、同年には行高から行康に改名している。
 文明10年(1478年)正月10日薨去。享年67。行康が嗣子なく没したことから、清水谷実久が藤原行成以来の書道の家が絶えてしまうことを惜しんで、奏請して実子の行季に世尊寺家を継がせた。


世尊寺行季

 権大納言・清水谷実久の子。官位は正二位・参議。文明10年(1478年)、世尊寺行康が嗣子なく没したことから、清水谷実久が藤原行成以来の書道の家が絶えてしまうことを惜しんで、奏請して実子の行季に世尊寺家を継がせた。
 永正9年(1512年)、書進年中行事賞により従三位に叙せられ公卿に列す。刑部卿を経て、永正13年(1516年)正三位・参議に叙任される。永正15年(1518年)参議を辞すが、永正18年(1521年)従二位に昇進し、享禄2年(1529年)正二位に至る。
 享禄5年(1532年)2月11日薨去。享年57。跡継ぎはなく、世尊寺家は行季の17代で断絶した。このため、朝廷の書役は世尊寺流の筆頭門人格であった持明院基春の持明院流に受け継がれた。