<藤原氏>北家 兼通流

F531:本多正忠  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多正忠 ― 本多忠相 F534:本多忠相

リンク
本多忠相 本多忠将

 三河西端領の初代領主。西端藩本多彦八郎家初代。慶長4年(1599年)、下総国下篠郷で本多康俊の次男として生まれる。父の康俊は、徳川四天王の筆頭・酒井忠次の次男であるため、忠相は忠次の孫に当たる。
 大坂の役両陣に父とともに参加した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、父とともに近江膳所城を守備した。翌年の大坂夏の陣では、父,兄とともに戦いに参加して武功を挙げる。その戦功により、元和2年(1616年)に三河国碧海郡に1,000石を賜り、西端村(現・碧南市)に陣屋を構える。以後、上総国,下総国内に2,500石、碧海郡1,500石が加増された。
 寛永元年(1625年)には、下総国香取郡において500石が加増された。寛永5年(1629年)には、上総国、下総国内において2,000石が加増された。寛永7年(1631年)には、三河国碧海郡内1,500石が加増された。
寛永9年(1633年)には、書院番頭に昇進。翌年の寛永10年(1634年)には、安房国,上総国内で3,000石を賜い、合計8,000石の上級旗本となる。寛永15年(1639年)には、徳川幕府下で初めて検地を実施した。
 明暦2年(1656年)には留守居役に就任した。寛文12年(1672年)、長男・忠将に家督を譲って隠居した。天和2年(1682年)に84歳で死去した。

 三河西端領の第2代領主。西端藩本多彦八郎家2代。寛永3年(1626年)、初代領主・本多忠相の長男として生まれる。寛永10年(1634年)、弟の忠良とともに将軍・徳川家光に拝謁する。このとき、忠良は旗本・中西元朝の養子となっていたが、家督相続前に死去した。代わって、中西孝元が元朝の養子となった。後に忠将の娘の1人が、忠良の養女となって孝元に嫁いだ。万治元年(1658年)閏12月27日に従五位下・対馬守に叙位・任官する。寛文12年(1672年)、父の隠居により家督を継いで第2代領主となる。
 延宝2年(1674年)、書院番頭に任じられた。天和2年(1682年)には父の代からの領地に上野国新田郡,下野国安蘇郡において1,000石を加増され、合計9,000石を領する。貞享3年(1682年)に職を辞任している。
 元禄5年(1692年)11月11日に死去。享年67。長男の忠能が家督を継いだ。

本多忠寛 本多忠鵬

 天保3年(1832年)、9000石の大身旗本である本多忠興の次男として江戸で生まれる。兄の万之助が早世したために世子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継いで旗本となった。
 元治元年(1864年)の天狗党の乱に出兵し、さらに江戸警備などで功績を挙げたことから、12月23日に伊豆田方郡,賀茂郡6ヶ村などで1100石の加増を受け、高直しで1万500石の大名として取り立てられ、西端藩主となった。
 しかし旗本時代から財政が苦しく、嘉永6年(1853年)の時点で1万5000両の借金があった。このため、財政再建と称して慶応元年(1865年)から慶応2年(1866年)にかけて御用金を厳しく取り立て、藩札も発行するなど悪政を行っている。
 慶応3年(1867年)5月20日、病気を理由に家督を長男の忠鵬に譲って隠居した。明治14年(1881年)に死去、享年50。

 安政4年(1857年)、大身旗本・本多忠寛の長男として江戸で生まれる。慶応3年(1867年)5月20日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いで第2代藩主となる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に与して尾張藩に属した。また、西端陣屋を改築している。
 明治2年(1869年)6月、農兵を徴兵して洋式訓練を行っている。直後の6月23日、版籍奉還により西端藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県後は西端県知事に任じられるが、11月の新県合併で額田県と合併して愛知県に編入されたため、罷免されて東京へ移った。
 明治17年(1884年)5月、宮中祗候に任じられる。同年7月、華族令に伴い子爵を授爵した。明治24年(1891年)9月、裁判所から家産分散の宣告を受ける。この頃の本多家は経済的に傾いていたと考えられる。明治29年(1896年)3月24日死去、享年40。