<藤原氏>北家 兼通流

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本多正忠 本多忠俊
 代々三河伊奈城主。1529(享禄2)年、当時の伊奈城主の本多正忠は,松平清康軍に参加し, 先陣をきって東門を破り、吉田城の牧野成命を攻め落とした。ついで清康は軍を田原城へ向かわせたが, 城主の戸田氏が降伏したため、正忠は直ちに清康を招き伊奈城に凱旋し祝宴を開いた。この祝宴の際、松平清康は本多家家紋「立葵の紋が気に入り、譲り受けたとされる。このように本多家から松平家の家紋となった「立葵の紋」が、徳川家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと伝えられている。

  弘治2年(1556年)8月、今川義元から離反した奥平貞勝を鎮圧する雨山合戦に、第2陣として参戦した。永禄3年(1560年)5月、義元の尾張侵攻では、自らは参戦せずに嫡男・光忠を代将として派遣した。
 その後、松平元康が独立すると、今川氏を離反し元康方に転じた。三河一向一揆平定戦では、豊川の東岸で三河支配権回復の機を窺う今川氏の吉田城に備え、宝飯郡小坂井に要害を構築した。その間に光忠を岡崎の家康の支援に向かわせた。
 永禄7年(1564年)3月4日、伊奈城において死去。

本多忠次 本多康俊

 永禄7年(1564年)東三河吉田城攻めに父・忠俊と共に参陣、同年3月4日(1565年4月4日)には忠俊が死没するが、兄の本多光忠は所労あるにより、忠次が代わって忠俊の跡を継ぎ徳川家康に仕える。永禄8年3月、本多忠次は家臣・戸田小栗を派遣して今川方の吉田城主小原鎮実を数度にわたり説得、結局小原は吉田城を開き遠州に落ちた。これにより、家康は東三河も含め三河国八郡の殆どを勢力下に収めることに成功したとされ、これに対する忠次の功績は大きいとして忠次と兄・光忠の所領加増ならびに弟の本多光典,家臣・戸田小栗にそれぞれ50貫文の地の恩賞を与えた。
 元亀元年6月(1570年7月)近江国姉川の戦いに酒井忠次に同陣して戦い、天正3年3月(1575年4月)には松平信康の初陣に随い三河国足助・伏地の両城を攻めた。同年5月(1575年6月)には酒井忠次軍に属して武田勝頼軍の鳶の巣山砦を攻略した。天正9年3月(1579年4月)の高天神城攻めでは、落城に際して武田方の首級21を討ち獲った。同10年には酒井忠次の次男・九十郎(のちの康俊)を迎え養嗣子とした。同11年7月(1581年8月)に家康の娘が北条氏直に嫁ぐ際、その御輿添えとして相模国に随従したという。その後、天正17年(1589年)に養嗣子康俊家督を譲る。関ヶ原の戦功で加増を受けた康俊の三河国西尾城(2万石)転封に同行し慶長18年4月6日に西尾で死去した(享年66)。亡骸は同地の郊原に葬られたと伝える。

 徳川四天王の筆頭酒井忠次の次男。生母は松平広忠の妹なので、徳川家康とは従兄弟の関係に当たる。天正3年(1575年)、織田信長の人質として織田氏のもとへ赴いた後、天正8年(1580年)に本多忠次の養子となった。天正18年(1590年)、家康が関東へ移封されると、下総国に5000石の所領を与えられた。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにも参加し、その戦功により三河西尾に2万石の所領を与えられた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では近江膳所城を守備し、翌年の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いに参加して首級を105個も挙げたという。その戦功により、近江膳所に3万石で加増移封された。
 元和7年(1621年)2月7日、53歳で死去した。

本多俊次

 文禄4年(1595年)、徳川氏の重臣(のち膳所藩初代藩主)本多康俊の長男として下総小篠で生まれる。慶長15年(1610年)に従五位下・下総守に叙任される。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では父と共に参加し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では将軍・徳川秀忠に従って武功を挙げた。
 元和7年(1621年)2月、父の死去により家督を継いで膳所藩主となる。しかし7月、5000石加増の3万5000石で三河西尾に加増移封された。寛永9年(1632年)10月23日、遠江掛川城の守備を務めた功績などにより、寛永13年(1636年)6月23日に1万5000石加増の5万石で伊勢亀山に加増移封された。そして慶安4年(1651年)4月4日、2万石加増の7万石で、再び膳所藩主として再任された。
寛文4年(1664年)9月12日、次男の康将に家督を譲って隠居する。寛文8年(1668年)8月11日、膳所で死去した。享年74。