<藤原氏>北家 兼通流

F525:本多助秀  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 ― 本多助秀 ― 本多信正 F535:本多信正

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本多富正 本多重次

 元亀3年(1572年)、徳川氏の家臣・本多重富の子として三河国で生まれた。家康の子・秀康が豊臣秀吉の養子という形での人質となり大坂へ送られることになった際、徳川氏は重次の嫡男の仙千代(後の本多成重)らを附属同行させたが、翌年に重次によって仙千代に代わり、甥である源四郎(富正)が交代させられた。のちには秀康の4男を養子に貰い受けたりもしている(早世)。秀康が下総国の結城晴朝の養子になると(結城秀康)、富正はここで俸禄100石を受け、以降結城家が越前国に移動するまでに3千石までに加増された。文禄・慶長の役の際は名護屋城に在陣して朝鮮半島へは渡航することはなかった。関ヶ原の戦いの際は秀康と共に宇都宮に在陣していた。
 慶長10年(1605年)4月、秀康が従三位権中納言を受けると、富正は慶長16年(1611年)3月に従五位下伊豆守となり、志摩守から伊豆守と名乗りを変更した。
 関ヶ原の戦いの後、結城秀康は越前68万石の大名となった。慶長6年(1601年)2月、北ノ庄城(のちの福井城)受け取りのために加藤康寛と共に富正が派遣され、翌3月には早くも富正名義にて開墾、用水整備などの指示が出されている。7月に秀康が北ノ庄城に入城し、松平氏による福井藩が開始された。富正は附家老として府中(武生)3万9千石を領した。
 慶長11年(1606年)に主君の秀康が死去すると、家中では追腹を行う者が出る中、富正は病気の秀康の名代という形式で駿府城改築の指揮を執っていたため追腹が行えずにいた。その間に江戸幕府により追腹禁止の命が出されたため、富正は剃髪するにとどまった。また幕府の直命により富正は引き続き福井藩の執政、秀康の子の松平忠直の補佐を勤めることとなった。忠直と秀忠の娘・勝姫の婚姻では、幼少の勝姫の福井への道中、富正の越前府中城で休憩および化粧(鉄漿の式:女子の成人式)を行ってのち、福井へ向かっている。
 慶長17年(1612年)に藩内で起こった越前騒動(久世騒動)では、家康直々の裁断にて富正方が勝利した。翌年、幕府から福井藩に対して新しい附家老として本多成重が配された。この人事は富正の推薦とも伝わる。また、富正には子がなかったため、成重の子を養子(本多志摩)とした。
 慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると、親豊臣的であった越前家をまとめ上げて、幕府方として参戦させた。軍令違反で家康には直々叱責を受けた>が、大坂城一番乗りの名乗りを挙げた武功を賞されて家康から黄金50枚を拝領している。
 大坂の陣の後の同年9月18日、長男・本多昌長が誕生したが、元和9年(1623年)、養子の志摩が江戸に出奔したと伝わる。
 正保2年(1645年)8月、3代藩主・忠昌の死去に伴い、隠居を願い出て許され、子の昌長が跡を継いだ。隠居後は元覚(元覚斎)と名乗った。慶安2年(1649年)8月12日、78歳で死去。墓所は越前市龍泉寺に土葬。同じ越前市の藤垣神社は、富正を祭神とし、刀剣や甲冑、文書などを保管している。
 富正が与えられた越前府中は、当時は、朝倉氏一族滅亡時における混乱,一向一揆鎮圧,度重なる豊臣政権下での領主交代などにより荒廃していたが、富正は領内の日野川などの河川,用水,町並の整備を行い、新しい産業を奨励し、当時は市街地を避けていた北国街道を町の中心に通すなどして、町の育成に努めた。また、荒地でも栽培し易い蕎麦の栽培を領民に奨励する。更にこの蕎麦に大根の摩りおろしを掛けた蕎麦をお抱えの医者や蕎麦打ちに作らせた。これが一説に言う「越前名物おろし蕎麦(越前そば)」の始まりとされている。
 富正は、自領だけではなく本藩領においても、治水,道路整備,城郭整備,農地整備に辣腕をふるった。九頭竜川に堤防を築き、水路を開き、それは現在も「元覚堤」「芝原用水」として現存している。
 越前府中本多家は越前家の家臣、つまり陪臣であるが、常に大名としての格式を与えられていた。
 明治維新を迎えると、陪臣ということで本多家は華族ではなく士族とされた。これを不服とした旧家臣・旧領民らによって武生騒動が勃発した。武生騒動は多くの処罰者を出したが、それらの運動の結果本多家は改めて華族に列せられ、男爵となった。

 通称の作左衛門とその勇猛果敢で剛毅な性格に由来する「鬼作左」の通称で知られた。天野康景,高力清長と共に徳川家康の三河時代からの三河三奉行の一人で、行政面に力を発揮した。法に対して厳格な人物で、他人に対しても厳しかった(間違っていると思えば、主君である家康に対してすら激しく指摘した)が、恩賞に対しては公平清廉で、法令についても仮名書きでわかりやすく書いて民衆に触れやすいように記した。奉行としての行政の功績だけではなく、三河一向一揆鎮圧戦などで大いに活躍し戦功を挙げた。また、三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだという逸話も伝わる。小田原征伐においては、自ら勧誘した向井正綱と共に梶原景宗率いる北条水軍を迎撃してこれを打ち破っている。しかし、小田原征伐が終わって、家康が北条氏旧領の関東に移されてから後に豊臣秀吉の命を受けた家康により、上総古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。家康の次男・於義丸(後の結城秀康)と共に人質として秀吉に差し出されていた息子・仙千代(後の本多成重)を「母親の看病をさせたい」と嘘をついて呼び戻したことや、秀吉の生母・大政所が人質として家康に差し出された際、大政所を粗略に扱い、大政所のいる建物の周辺に薪を大量に積みあげ、もし上方で家康の身に変事があればただちに大政所を焼き殺す姿勢を見せたこと、また、小田原征伐からの帰阪の途上、秀吉が岡崎城に立ち寄った際に三度の催促にもかかわらず城将の重次が迎えに出ず、これらが秀吉の不興を買った。その後、蟄居先が下総国相馬郡井野に変更され、文禄5年(1596年)7月16日、68歳で死去。墓所は茨城県取手市にある茨城県指定史跡「本多重次墳墓」。福井県坂井市丸岡町の本光院にも墓がある。
 結城秀康の母・於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重次のもとに預けた。秀康は於万が重次に匿われている中村家住宅で誕生した。
 天正13年(1585年)3月に家康が疔を病み、激痛の余り一時重態となった。この時、徳川領内に明から来たという名医がいたため、重次は家康に受診を勧めたが、家康は異国の医者に受診されるのを嫌った。すると重次は「良医の治療を拒否して死を願うとは、何と勿体ない命か。殿に遅れて死ぬのは悲しく、我が身の果ても惨めなので、一足お先に死ぬ事にしました」と述べて退出した。家康は重次の一徹な性格を知り尽くしていたため、本気で殉死するつもりだと直感した家康は慌てて近習を走らせて強引に戻らせて「若い者を指導して我が家の絶えないように頼む」と懇願した。しかし重次は「最期の暇を願い出たはずです」と拒否した。そして重次は「我は幼きより軍を率い、眼を射られ指を落とされ、足を斬られて負わぬ傷は無く、世に交われぬほど今では身体は不自由になりました。その我が今ここにあるのはひとえに殿のおかげです。殿に代われる人は我が家におりませぬ。殿が亡くなれば秀吉か北条がこの国を狙うでしょう。かつて甲斐の武田家は我が家より大きく武勇抜群の士も数多いながら滅び、我が家に召し抱えられた者達は我等よりずっと下の地位に置かれて耐えております。殿が亡くなれば、我等は武田と同じ運命を辿るだけです」と述べた上で医師の治療を勧め、家康も了承して治療を受けて全快した。この時に家康の命を諫言することで救ったからこそ、後に徳川は天下を取れたのである。
 日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は、重次が天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙である。この「お仙」は当時幼子であった嫡子・仙千代(成重:後の丸岡藩主)のことである。なお、手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」である。また重次は頑固で他人に厳しい人物と見られがちだが、この手紙は唯一の息子である仙千代を心配し、自らが留守中に家中を取り仕切る妻に「火事に気を付けるように、使用人への徹底を改めてするように、そして5人の子の内、男子は仙千代だけだから病気に気を付け、武士にとって戦場で命を預ける馬の世話を怠りなくせよ」と妻子を気遣う優しさが見え隠れしている。

本多恒久 本多敬義(釣月)

 元禄7年(1694年)正月、新知300石を賜り藩主・松平吉品の近習となる。元禄9年(1696年)に兄・富敬が死去したため、その2500石の家督を相続した。宝永2年(1705年)家老となる。
 享保7年(1722年)、藩主・昌平(松平宗昌)の家督相続の御礼言上の際に、将軍・徳川吉宗に拝謁する。享保9年(1724年)300石を加増される。享保17年(1732年)3月、称念寺境内にある南朝の功臣・新田義貞の墓所に碑を建てて勤皇の遺跡を世に知らしめた。元文元年(1736年)、隠居して家督を兄の富敬の子・正賀に譲る。元文3年(1738年)4月23日没。

 高知席本多修理家第10代。福井藩士・菅沼左門高次の子として生まれる。天保2年(1831年)福井藩家老・本多方恭の養子となる。
 天保6年(1835年)養父・方恭の隠居により家督知行2800石を相続。方恭の孫・源四郎を養子とする。後に源四郎は1300石で別家した。嘉永2年(1849年)に家老となり藩主・松平慶永に仕えた。慶永の藩政改革のブレーンのひとりとして活動し、主に軍制改革で功績を挙げた。
 安政の大獄で慶永が隠居した後は養子の松平直廉に仕え、第1次長州征伐では幕府軍の副総督となった直廉の軍事総奉行として小倉まで従軍した。明治時代に入ると再び慶永(春嶽)に仕え、側近として活動する。しかし老齢を理由にやがて隠棲した。明治39年(1906年)に死去。享年92。

本多成重 本多重益

 幼名は仙千代で、父・重次が天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻に宛てた手紙として知られる、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙である。徳川氏に仕え、慶長7年(1602年)に近江国蒲生郡内2000石を加増され5000石となる。慶長18年(1613年)に松平忠直の付家老となり、丸岡4万石を領して従兄弟の本多富正と共に若年の忠直を補佐した。大坂の陣では武功を挙げた。慶長20年(1615年)閏6月19日、従五位下飛騨守に任じられる。
 元和9年(1623年)2月に忠直が改易になった際には一旦江戸幕府に召し返され、寛永元年(1624年)には越前丸岡4万6300石の譜代大名に取り立てられた。藩政の基礎を固めるために城下町の建設や治水工事などにも尽力した。正保3年(1646年)5月19日に隠居し、跡を長男の重能が継いだ。なお、次男は長男に分知3000石、3男は別途3000石で旗本となり、4男は松平忠昌の家老となっている。正保4年(1647年)6月23日、76歳で死去した。墓所は福井県坂井市丸岡町の本光院にある。

 延宝4年(1676年)、父の死去により家督を継ぐ。延宝5年(1677年)に従五位下・飛騨守に叙任する。重益は信仰心は厚い人物だったが、藩主としては暗愚で、藩政は家臣に任せて自らは酒色に溺れたという。このため、家臣団内部で藩政の実権をめぐっての争いが起こる。太田又八は暗愚な重益を隠居させて弟の重信を擁立しようとした(重信は早世したため、のちに重修に白羽の矢が立つことになる)。これに対して本多織部は暗愚な重益を傀儡として、自らは実権を掌握して思うがままに藩政を操ろうとした。この両派による争いは激化し、幕府も捨て置けず、元禄8年(1695年)3月23日、幕府は重益の家臣団統率がよろしくないとして改易に処し、重益は池田仲澄に身柄を預けられることになった。
 宝永6年(1709年)、徳川家宣が新将軍に就任すると、恩赦により罪を許され、宝永7年(1710年)に2000石の旗本寄合組として復帰した。享保18年(1733年)2月25日に死去した。享年71。跡を養子の成興が継いだ。

本多重信 本多重方
 嫡子のなかった兄の3代藩主・本多重益の養子となる。これには、暗愚な重益を隠居させ重信を擁立しようとした丸岡藩家臣・太田又八の策略があった。しかし、元禄2年(1689年)に重信は早世した。その後、分家の重修が養子となるが、家臣団は二つに分裂し、藩内抗争は激化していくこととなる。  慶長13年(1608年)、旗本・本多成重の4男として生まれる。慶長18年(1613年)父・成重が越前藩主松平忠直の付家老となる。元和9年(1623年)忠直が改易となり、成重は独立して丸岡藩主となる。忠直に代わって、越前藩主となった忠昌から、成重の子の出仕を望まれる。寛永元年(1624年)成重と共に江戸城に登城して将軍家光と大御所秀忠に拝謁し、越前藩に出仕する許しを賜る。重方は忠昌に仕え、後に3000石を知行し家老,高知席首座となる。高知席は家老を輩出する藩内最高の家格。延宝7年(1679年)隠居して浄入と名乗り、家督を嫡男・道重に譲る。元禄4年(1691年)死去。享年84。
本多道重 本多成広
 寛永21年(1644年)福井藩家老・本多重方の子として越前に生まれる。寛文5年(1665年)藩主・松平光通に召し出され、家老として仕える。延宝4年(1676年)8月、藩主・松平綱昌の家督相続の御礼言上の際に、将軍徳川家綱に拝謁。延宝7年(1679年)父・重方の隠居により家督を相続。貞享3年(1686年)福井藩が所領を半知の25万石に削減されたことにより、道重の知行も1975石となる。元禄元年(1689年)孝顕寺において藩祖・松平秀康廟の造営を行う。元禄6年(1694年)家老を辞職。元禄8年(1695年)、本家の丸岡藩主・本多重益が改易となる。宝永4年(1707年)死去。享年64。家督は嫡男・成広が相続した。  宝永4年(1707年)、父・道重の死去により家督相続。宝永7年(1710年)城代となる。享保9年(1724年)に家老となり、19年にわたって藩政に携わり、藩主・吉邦,宗昌,宗矩に仕えた。寛保2年(1742年)職を辞し、同年8月3日死去。享年76。