<藤原氏>北家 兼通流

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本多忠豊 本多忠高

 松平氏に仕えて、その重臣として活動した。天文14年(1545年)、三河安祥城をめぐる織田信秀との戦い(第3次安祥合戦)で敗北した松平広忠を逃がすため、殿軍を務めて討死した。
 当時の墓所は不明だが、寛政6年(1794年)に岡崎藩主・本多忠顕が建立した墓碑が安城市内に残る。

  父同様、松平清康や松平広忠に仕えた。天文16年(1547年)、松平一族で、家督を狙う松平信孝が反乱を起こした際にも出陣し、また、翌年にも尾張国の織田信秀が三河国に侵攻すると、今川氏の太原雪斎と広忠は小豆坂にて迎撃し、忠高もそれに従い織田軍と戦い、勝利を収めた(小豆坂の戦い)。しかし、天文18年(1549年)3月、主君・広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平氏や三河国人衆は大きく動揺した。今川氏当主・今川義元は三河国人衆が織田氏に寝返ることを恐れ、腹心の太原雪斎を送って織田氏の三河国の拠点であった安祥城を攻めた(第3次安城合戦)。守将の織田信広は城をよく守ったため、忠高は大久保忠俊らとともに夜襲に及び、戦果を収めたが、翌日の戦いにて敵の矢に当たって討死した。
 墓所は妙源寺。戦死地の安城市安城町赤塚にも墓碑が建てられている。

本多忠真

 槍の名手として知られる。天文14年(1545年)の三河国安祥城攻め(第3次安祥合戦)において父・忠豊、天文18年(1549年)の安祥城攻め(第4次安祥合戦)で兄・忠高が討死すると、兄嫁とその子・鍋之助(のちの本多忠勝)を欠城に保護し、読み書きから武士としての心得など、幼年の鍋之助を教育した。
 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの前哨戦である鷲津砦での攻防戦で、初陣の忠勝を補佐。この際、忠勝が織田方の武将・山崎多十郎に討ち獲られそうになったときに、槍を投げつけて窮地を救っている。その後も忠勝の補佐的な役割として、数々の合戦に従軍した。特に永禄4年(1561年)に尾張国石瀬で水野信元との合戦で戦功を立て、永禄6年(1563年)に三河一向一揆の際には家康方として岡崎城に赴いた。
 元亀3年(1572年)12月、三方ヶ原の戦いで退却の際に自ら殿を買って出て、旗指物を左右に突き刺し、「ここから後へは一歩も退かぬ」といって、追走する武田軍に斬り込み討死した。