<藤原氏>北家 閑院流

F521:藤原師輔  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原公季 F551:藤原公季

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藤原公季 藤原実成

 閑院大臣と号す。漢風諡号は仁義公、国公は甲斐公。朱雀・村上両天皇の同母姉・康子内親王を母として生まれた。幼名は宮雄君。生後まもなく母が亡くなったことから、幼少時は姉の中宮・安子に引き取られ宮中で育てられた(時の帝は叔父にあたる村上天皇)。公季が皇子顔に振舞ったことを当時皇子であった円融天皇が嘆いたという。
 公季は道長執政下において、伊周失脚後に、その後任として内大臣に就任すると、一条・三条の両朝を通して内大臣の任にあり道長政権を支えた。一方、娘・義子を一条天皇の弘徽殿女御として入内させ後宮対策を進めたが、皇子女が得られず失敗に終わった。後一条朝には老臣として治安元年(1021)太政大臣に昇進し、死後、正一位の極位を贈られた。
 晩年の彼が特別に目をかけた嫡孫・公成は、生前の官位こそ中納言どまりであったが、死後、その娘・茂子(藤原能信養女)が生んだ皇子が即位(白河天皇)し、祖父が成し遂げなかった事業を完成した。以後、白河天皇を始めとして、院政期には閑院家の女子所生の皇子から多数の天皇(鳥羽・崇徳・後白河)が出たことから、公季の子孫は栄え、摂関流に継ぐ地位を占めた。藤原冬嗣の邸宅だった閑院殿を伝領し住んだことから、公季には閑院大臣の別称があり、その子孫は閑院(家)流と呼ばれるが、公成の孫(公季の5代孫)にあたる権大納言・公実の三子によって分立した三条,西園寺,徳大寺の三清華家を筆頭に、この系統の公家は堂上家で25家を数える。 

 寛弘5年(1008年)参議、長和4年(1015年)権中納言、寛仁元年(1017年)右衛門督、治安3年(1023年)中納言、長元6年(1033年)大宰権帥を兼任。
 長元9年(1036年)には大宰府天満宮を支配していた安楽寺と衝突を起こし、長暦2年(1038年)中納言・大宰権帥を解任され、除名された。長暦4年(1040年)元の正二位に復した。
 人相を見るに見識があり、藤原道長の3男・顕信が自身の娘との結婚を望んでいることを知ると、顕信に出家の相が出ているとしてこれを断った(娘は顕信の弟・能信と結婚)。果たして顕信は後に出家したので、その人を見る目の確かさを『大鏡』の中で賞賛されている。 

藤原公成 藤原実季

 幼名は犬君。幼くして祖父である太政大臣・藤原公季の養子となり、その溺愛を受ける。公季は公の行事にあたっても常に公成を同道し、また皇太子敦良親王(後の後朱雀天皇)に対しても痛切に公成の引き立てを懇願したという。その様子は親王から些か滑稽に思われる程だったと伝えられる。
 寛弘8年(1011年)侍従、長和2年(1013年)右少将、寛仁元年(1017年)右中将、同4年(1021年)蔵人頭、治安元年(1021年)備前守、治安3年(1023年)左中将、万寿3年(1026年)に参議を歴任。公成自身の最高位は従二位権中納言であったが、娘の茂子が大納言・藤原能信の養女として後三条天皇の妃となり白河天皇を産んだことを契機に多くの国母を輩出し、後世において閑院流は大いに繁栄した。

 

 後閑院贈太政大臣と呼ばれた。曾祖父は閑院流の祖である太政大臣・藤原公季だが、実季の代になると閑院流は藤原氏の嫡流からは大きく外れており、28歳で参議となった父・公成に対し、30歳にして官位は正五位下と実季の昇進は遅々として進まなかった。しかしながら、妹の茂子が藤原能信の養女として皇太子・尊仁親王の妃になり、第一皇子の貞仁親王を始めとして一男四女を産んでいたことで、実季は尊仁親王の信任を得ていた。そして、治暦4年(1068年)に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると、実季は翌延久元年(1069年)に蔵人頭に、延久4年(1072年)には参議と、天皇の近臣として急速に昇進し、一躍公卿の仲間入りをした。
 後三条天皇の死後、貞仁親王が即位(白河天皇)した後も、実季は実の外伯父として天皇の信任を得て、正二位・大納言にまで昇った。死後、娘の藤原苡子が堀河天皇に入内し鳥羽天皇の生母となったことにより、天皇の外祖父として正一位・太政大臣を追贈された。

藤原茂子 藤原保実

 第71代・後三条天皇の皇太子時代の妃、第72代・白河天皇生母。中納言・藤原公成の娘で、大納言・藤原能信の養女となった。母は藤原知光女。別名は滋野井御息所。
 実父・公成の姉妹・祉子が能信の妻であったことから、子のなかった能信夫妻の養女として引き取られる。永承元年(1046年)、皇太子尊仁親王(後三条天皇)の副臥として入内。この時、尊仁親王の異母兄・後冷泉天皇はまだ若く、しかも尊仁親王とその母・禎子内親王は関白・頼通と対立していたこともあって、後見のない皇太子に娘を入内させる公卿はいなかった。そのため能信が妻の姪にあたる養女・茂子を妃に入れたのだが、いくら能信の養女でも実父が中納言では、東宮妃にはふさわしくないと非難されている。また、当時養女を妃に入れたのは最高実力者であった頼通のみであり、能信がそれを行うのは不相応であるという意味合いがあったとも思われる。
 しかしその後、後冷泉天皇に皇子女が恵まれないのとは対照的に、茂子は王子貞仁(白河天皇),篤子(堀河天皇中宮)ら一男四女を次々と産んだ。正妃・馨子内親王にも子女はなかったので、いずれ尊仁親王が即位すれば茂子は次期東宮の生母、やがては国母にもなるはずだったが、康平5年(1062年)、尊仁親王の即位を見ることなく死去。延久3年(1071年)、後三条天皇即位にあたり従二位を、また同5年(1073年)、白河天皇即位により皇太后を追贈された。
 茂子自身は若くして亡くなったが、これ以後、茂子の実家である閑院流からは歴代天皇の后や生母が次々と輩出、院政期の歴史に大きく関わっていく。陵墓は宇治陵。 

 後三条朝初頭の延久元年(1069年)従五位下に叙爵し、白河朝初頭の延久5年(1073年)侍従に任官。承保元年(1074年)右近衛少将に任ぜられると、承保2年(1075年)従五位上、承保3年(1076年)正五位下、承保4年(1077年)従四位上・右近衛権中将、承暦3年(1079年)正四位下と、白河朝前期に近衛次将を務めながら昇進を重ねた。
 永保2年(1082年)蔵人頭に補せられると、早くも翌永保3年(1083年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官の傍らで引き続き中将を兼帯し、この間の応徳3年(1086年)従三位、寛治2年(1088年)正三位と昇叙されている。
 康和2年(1100年)に権中納言に昇進する。しかし、翌康和3年(1101年)より病に伏し、康和4年(1102年)正月に大宰権帥に遷るが、同年3月5日に薨去。享年42。

 

藤原仲実 藤原苡子

 桟敷または高松を号す。白河朝の承保3年(1076年)侍従に任官。永保元年(1081年)頃に従四位下・左近衛少将に叙任されると、応徳元年(1084年)従四位上、応徳3年(1086年)右近衛中将、応徳4年(1087年)正四位下と近衛次将を務めながら順調に昇進する。寛治5年(1091年)正月に媞子内親王(堀河天皇の准母)が中宮に立てられると中宮権亮を兼ね、まもなく蔵人頭に補せられ、翌寛治6年(1092年)参議に任ぜられて公卿に列した。
 議政官の傍らで引き続き近衛中将を兼帯し、嘉保3年(1096年)従三位、永長2年(1097年)正三位と昇叙されている。康和4年(1102年)従二位・権中納言に叙任された。康和5年(1103年)正月に正二位に叙せられるが、まもなく妹で堀河天皇の女御であった藤原苡子が宗仁親王を産む。同年8月に宗仁親王は春宮に立てられ、嘉承2年(1107年)即位(鳥羽天皇)したため、兄の権大納言・藤原公実とともに仲実は天皇の外伯父となるが、特別な昇進に与ることはなかった。永久3年(1115年)権大納言に至る。
 保安2年(1121年)腫瘍を病み、12月4日に辞職すると、7日に出家し、23日に薨去した。享年58。 

 承徳2年(1098年)堀河天皇に入内、女御の宣旨を受ける。康和2年(1100年)従四位下。
 苡子は白河院の従姉妹(院の生母・茂子の姪)で、入内に当たっては院自ら世話をしたという。中宮・篤子内親王は高齢で子女に恵まれず、苡子は一度の流産を経て、康和5年(1103年)第一皇子・宗仁親王(鳥羽天皇)を出産するが、産後の肥立ちが悪く28歳で死去した。同年従二位を追贈。嘉承2年(1107年)、鳥羽天皇の即位で皇太后を追贈。
 苡子の兄・公実は鳥羽天皇の外戚に、また姪の璋子は鳥羽天皇の中宮となるなど、閑院流発展の元となった。