F521:藤原師輔 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原公季 | F551:藤原公季 |
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藤原公季 | 藤原実成 |
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閑院大臣と号す。漢風諡号は仁義公、国公は甲斐公。朱雀・村上両天皇の同母姉・康子内親王を母として生まれた。幼名は宮雄君。生後まもなく母が亡くなったことから、幼少時は姉の中宮・安子に引き取られ宮中で育てられた(時の帝は叔父にあたる村上天皇)。公季が皇子顔に振舞ったことを当時皇子であった円融天皇が嘆いたという。 |
寛弘5年(1008年)参議、長和4年(1015年)権中納言、寛仁元年(1017年)右衛門督、治安3年(1023年)中納言、長元6年(1033年)大宰権帥を兼任。 |
藤原公成 | 藤原実季 |
幼名は犬君。幼くして祖父である太政大臣・藤原公季の養子となり、その溺愛を受ける。公季は公の行事にあたっても常に公成を同道し、また皇太子敦良親王(後の後朱雀天皇)に対しても痛切に公成の引き立てを懇願したという。その様子は親王から些か滑稽に思われる程だったと伝えられる。
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後閑院贈太政大臣と呼ばれた。曾祖父は閑院流の祖である太政大臣・藤原公季だが、実季の代になると閑院流は藤原氏の嫡流からは大きく外れており、28歳で参議となった父・公成に対し、30歳にして官位は正五位下と実季の昇進は遅々として進まなかった。しかしながら、妹の茂子が藤原能信の養女として皇太子・尊仁親王の妃になり、第一皇子の貞仁親王を始めとして一男四女を産んでいたことで、実季は尊仁親王の信任を得ていた。そして、治暦4年(1068年)に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると、実季は翌延久元年(1069年)に蔵人頭に、延久4年(1072年)には参議と、天皇の近臣として急速に昇進し、一躍公卿の仲間入りをした。 |
藤原茂子 | 藤原保実 |
第71代・後三条天皇の皇太子時代の妃、第72代・白河天皇生母。中納言・藤原公成の娘で、大納言・藤原能信の養女となった。母は藤原知光女。別名は滋野井御息所。 |
後三条朝初頭の延久元年(1069年)従五位下に叙爵し、白河朝初頭の延久5年(1073年)侍従に任官。承保元年(1074年)右近衛少将に任ぜられると、承保2年(1075年)従五位上、承保3年(1076年)正五位下、承保4年(1077年)従四位上・右近衛権中将、承暦3年(1079年)正四位下と、白河朝前期に近衛次将を務めながら昇進を重ねた。
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藤原仲実 | 藤原苡子 |
桟敷または高松を号す。白河朝の承保3年(1076年)侍従に任官。永保元年(1081年)頃に従四位下・左近衛少将に叙任されると、応徳元年(1084年)従四位上、応徳3年(1086年)右近衛中将、応徳4年(1087年)正四位下と近衛次将を務めながら順調に昇進する。寛治5年(1091年)正月に媞子内親王(堀河天皇の准母)が中宮に立てられると中宮権亮を兼ね、まもなく蔵人頭に補せられ、翌寛治6年(1092年)参議に任ぜられて公卿に列した。 |
承徳2年(1098年)堀河天皇に入内、女御の宣旨を受ける。康和2年(1100年)従四位下。 |