7歳にして父を失い、時の治天・白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われた。長じて摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がったが、璋子の素行に噂があったため忠通の父・忠実は固辞し、白河院の不興を買った。 永久5年(1117年)12月13日、白河院を代父として、父方の従弟・鳥羽天皇に入内、4日後には女御の宣旨を蒙った。1ヶ月ばかり経った翌元永元年(1118年)正月26日、立后され中宮を号す。翌2年(1119年)5月28日、第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を出産。その後、賀茂斎院・禧子内親王や、通仁親王,君仁親王を産むが、この両親王は生来障害児であった。統子内親王(上西門院)の年子として、大治2年(1127年)9月11日、第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)を出産し、2年後には末子・本仁親王(後の覚性法親王)も生まれた。保安4年(1123年)正月28日、白河院は5歳になった顕仁に践祚させ、璋子も翌天治元年(1124年)11月24日に院号を宣下されて待賢門院と称した。 このように璋子は鳥羽帝との間に5男2女を儲け、熊野詣にも同行しているが、それは白河院の在世中であればこそだったという。本仁親王の生まれた年、大治4年(1129年)7月7日、幼主三代の政を執った白河院が77歳で崩御し、これを機にして璋子の人生は暗転する。鳥羽上皇が治天を継承し廷臣を統率、後ろ盾を持たぬ幼帝・崇徳は孤立した。鳥羽院は白河院によって関白を罷免され逼塞していた藤原忠実を起用し、その娘の泰子(高陽院)を皇后に立てたばかりでなく、璋子に代わって側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛したのである。保延5年(1139年)8月17日、鳥羽院は得子が産んだ生後3ヶ月の第八皇子・体仁親王を立太子させ、2年後の永治元年(1141年)12月7日、崇徳帝に譲位を迫り、体仁を即位させた(近衛天皇)。 ところが、近衛天皇即位・得子の皇后冊立と相前後して得子を標的にしたと考えられる呪詛事件(日吉社呪詛事件・広田社巫呪詛事件)が相次いで発覚し、璋子が裏で糸を引いているという風説が流されるようになる。また、この頃から崇徳院は白河院の胤だとする風説が囁かれるようになる(真偽は不明)。こうして権勢を失った璋子は、翌康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾。3年後、久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩御した。鳥羽院は三条高倉第に駆けつけて璋子を看取り、臨終の際は磬(読経の時に打ち鳴らす仏具)を打ちながら大声で泣き叫んだという。 没後10年目の久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が17歳で崩御し、図らずも璋子の生んだ四宮・雅仁親王が天皇に指名された(後白河天皇)。そして、朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し保元の乱が勃発する。
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大治5年(1130年)に権大納言・藤原季成の嫡子として生まれ、幼年にして従五位下に叙爵。 久安4年(1148年)に19歳で侍従に初任。久安5年(1149年)に正五位下に叙せられ、翌年、左近衛権少将に転任。仁平2年(1152年)に従四位下、久寿2年(1155年)に後白河天皇の即位に伴って正四位下と順調に位を進め、保元元年(1156年)右近衛権中将、次いで保元2年(1157年)蔵人頭と要職を歴任する。 保元3年(1158年)に参議に任ぜられて公卿に列する。同年、二条天皇の即位に伴い侍従に任ぜられて天皇の身辺に仕えると共に、姉妹・成子が後白河上皇の寵愛を受けたこともあって、院司として上皇にも接近した。院司として保元4年(1159年)従三位、永暦2年(1161年)正三位、長寛元年(1163年)従二位と昇叙され、権中納言,検非違使別当,左衛門督と顕要の職を占めた。 しかし、長寛3年(1165年)父・季成の死後、永万2年(1166年)には権中納言,左衛門督の職を解かれて失脚する。その理由は不明だが、甥の以仁王が前年出家せずに元服しており、子の憲仁親王(後の高倉天皇)の即位を目論む建春門院・平滋子の恨みを買ったともいわれる。その後は10年以上散位となり、治承元年(1177年)の末から病となった。翌年正月3日に出家して、同月12日に薨去した。享年49。 管絃・歌謡・漢詩などに秀でたほか、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集する歌人でもあった。
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