<藤原氏>北家 道隆流

F601:藤原道隆  藤原道隆 ― 藤原良頼 F605:藤原良頼

 

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藤原良頼 藤原良基

 中納言・藤原隆家の長男。三条朝末の長和4年(1015年)従五位下に叙爵し、後一条朝初頭の長和6年(1017年)正月に侍従に任ぜられる。同年4月に右衛門佐に遷ると、寛仁2年(1018年)右近衛少将,寛仁3年(1019年)従五位上,治安2年(1022年)正五位下,万寿元年(1024年)従四位下,万寿3年(1026年)左近衛少将と武官を務めながら昇進する。しかしこの間、4歳下の異母弟・経輔が先に治安2年(1022年)従四位下に叙せられており、後一条朝では昇進面でその後塵を拝すことになる。
 万寿4年(1027年)春宮権亮に任ぜられ、後一条朝の後半は春宮・敦良親王にも仕えるとともに、万寿5年(1028年)従四位上,長元2年(1029年)右近衛中将,長元4年(1031年)正四位下,長元6年(1033年)左近衛中将と引き続き近衛次将を務めながら昇進を重ねた。
 長元9年(1036年)4月に後朱雀天皇践祚と同時に蔵人頭となる。既に後一条朝末に蔵人頭を務めていた弟・経輔に2年遅れての補任であったが、同年12月に良頼は蔵人頭在任8ヶ月足らずで参議に任ぜられ公卿に列し、後任の蔵人頭に経輔が再任されている。参議任官後も左近衛中将を兼ね、後朱雀朝では長元10年(1037年)従三位,長久3年(1042年)正三位と経輔に先んじて昇進し、後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年)、経輔と同時に権中納言に昇任した。
 永承3年(1048年)6月4日薨去。享年47。

 後朱雀朝初頭の長元10年(1037年)従五位下に叙爵し、侍従に任官する。長暦4年(1040年)左兵衛佐次いで右近衛少将に任ぜられると、長久3年(1042年)正五位下,長久5年(1044年)従四位下と、後朱雀朝では少将を務める傍らで昇進を重ねる。
 後冷泉朝に入ると昇進が遅滞し、少将在任が20年近くに亘った末、康平2年(1059年)になってようやく右近衛権中将に昇任される。また、康平7年(1064年)には春宮亮に任ぜられ、春宮・尊仁親王にも仕えている。
 治暦4年(1068年)4月に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると、良基は蔵人頭に任ぜられ、7月には春宮亮の功労によって正四位下に叙せられ、12月には参議に補せられて公卿に列した。その後も治暦5年(1069年)従三位次いで正三位、延久2年(1070年)従二位と後三条朝で急速な昇進を果たす傍ら、春宮権大夫として、春宮・貞仁親王にも仕えた。
 延久3年(1071年)大宰大弐に任ぜられて九州へ下向する。延久4年(1073年)、貞仁親王が即位(白河天皇)するが、良基に春宮権大夫としての特別な昇叙はなされず、逆に白河朝では藤原実季,源経信に権中納言昇進で先を越されている。
 承保2年(1075年)閏4月19日に赴任先の大宰府で薨去。享年53。

藤原隆宗 藤原宗子(池禅尼)

 白河朝初頭の延久6年(1074年)右近衛権少将に任ぜられると、翌承保2年(1075年)左近衛権少将に転じる。少将の傍らで、木工頭・民部大輔などを兼ねる。永保3年(1083年)頃、従四位下に叙せられるが引き続き少将を務め、白河院政期初頭の寛治2年(1088年)正四位下に叙せられて少将を退くまで、15年近くに亘ってこれを務めた。
 その後は木工頭を務めながら、河内守を兼ねる。嘉保元年(1095年)近江守として受領となり、康和4年(1102年)の任期満了まで務めた。同年3月4日に悪瘡により卒去。国司辞任後すぐの急死だったため、まだ公文の確認が終わっていなかったという。享年58。

 保安元年(1120年)頃、平忠盛と結婚し、忠盛との間に家盛,頼盛を産んでいる。待賢門院近臣家の出身だったが、従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいたことから美福門院ともつながりがあった。その幅広い人脈により、忠盛の妻たちの中で最も重んじられていた。また、崇徳上皇皇子・重仁親王の乳母にも任ぜられた。この重仁親王は近衛天皇崩御の後、皇位継承の可能性もあった。
 仁平3年(1153年)、夫が死去すると出家し、六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれた。保元元年(1156年)、鳥羽法皇崩御により保元の乱が勃発すると、忠盛夫妻が重仁親王を後見する立場にあったことから平氏一門は難しい立場に立たされた。池禅尼は上皇方の敗北を予測して、頼盛に清盛と協力することを命じた。この決断により、平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持することに成功した。
 平治元年(1159年)の平治の乱においては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の軍事貴族が駆逐された。翌永暦元年(1160年)2月、義朝の嫡男で13歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。この際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。また頼朝の助命のために池禅尼が断食し始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。池禅尼が助命に奔走したのは、頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘で後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される。その後、池禅尼は死去したと言われているが、正確な没年は不明である。
 頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後もその息子である頼盛を優遇し、平家滅亡後も頼盛の一族(池氏)は朝廷堂上人および幕府御家人として存続する。