<藤原氏>北家 道隆流

F521:藤原師輔  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道隆 F601:藤原道隆

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藤原道隆 藤原伊周

 永観2年(984年)8月、円融天皇が花山天皇に譲位すると、道隆は従三位に叙せられ、東宮となった懐仁親王の春宮権大夫に任じられる。花山天皇の外祖父は兼家の亡兄の伊尹で、伊尹の子の権中納言義懐が外叔父となり天皇を補佐していた。花山天皇と外戚関係を持つ義懐は脅威であり、そのため、兼家は孫の懐仁親王の早期の即位を強く望んだ。
 寛和2年(986年)、兼家は策を講じ、寵妃を失って落胆していた花山天皇を3男の道兼がそそのかして内裏から寺へ連れ出し、騙すようにして出家させてしまった。天皇が消えて宮中が大騒ぎになっている間に、道隆は弟の道綱とともに神璽宝剣を東宮御所へ運び込む役割を果たした。そして、速やかに懐仁親王が即位した(一条天皇)。
 一条天皇の外祖父の兼家が摂政となり、嫡男の道隆は正三位権中納言から従二位権大納言へ一気に引き上げられた。永延3年(989年)2月内大臣を拝す。道隆はこれ以上官位が進むのを望まなかったようで、この間、永延元年(987年)10月、従一位に昇叙されるべきところを、嫡男・伊周の正五位下叙爵のために譲っている。
 永祚2年(990年)正月、道隆は長女の定子を一条天皇の女御として入内させた。同年5月に病のため兼家が関白を辞すると、代わって関白、次いで摂政となった。7月、父・兼家が薨去する。 『古事談』などによると、兼家は自分の後継をどの息子にするかを腹心の藤原在国(後の有国),平惟仲,平国平と諮った。在国は胆力のある3男の道兼をふさわしいとした。一方、惟仲,国平は嫡庶の序によって長男の道隆を推した。結局、後継は道隆となり、この話を知った道隆は在国をはなはだ憎み、関白職に就くと直ちに在国父子の官を奪った。
 10月に定子を中宮とし、帝の外舅となった。正暦2年(991年)内大臣の官を辞して道兼に譲った。正暦4年(993年)4月22日に再び関白となる。正暦6年(995年)正月、次女・原子を皇太子の居貞親王妃とし、後宮政策の強化を図った。 だが、それから程無く、道隆は病に伏し、長徳元年(995年)3月9日、一条天皇に請うて嫡子の内大臣・伊周を内覧とし政務を委任し後継者にしようとしたが、病中の内覧のみ許され、伊周に関白の位を譲ることは許されなかった。4月3日、関白を辞し、伊周の関白就任を再度奏上したがかなわなかった。同6日出家し、10日薨去。享年43。死因については、当時流行して多数の貴族の命を奪った疫病ではなく、酒の飲みすぎなどからきた飲水病(糖尿病)の悪化が偶々この時期に重なったものと見られている。道隆没後、その遺志に反して弟・道兼が関白となり、以後、中関白家の急速な衰退が始まった。
 『大鏡』『枕草子』などによれば、道隆は大酒飲みで、軽口を好んだ朗らかな人であったらしく、不羈(自由気まま)な一面もあった。『大鏡』は、藤原済時,朝光を飲み仲間とし、道隆たちが酔っ払って人前で烏帽子を外した頭を晒した話や、亡くなる際に念仏を薦められたが、極楽で飲み仲間の済時や朝光と再会することを喜んだ話を伝えている。その一方で、容貌が端正だった上に、人への気配りが行き届く気の広さを持ち、薨去直前に宣命を伝えに来た蔵人頭・源俊賢は、彼の優れた立ち居振る舞いを後々まで忘れずに口にかけたという。『大鏡』の福足君と道隆の項では兼家の六十歳の賀で舞台に上がってから舞うのを嫌がった福足君(道兼の長男)を見て、道隆が甥をとらえて共に舞い誰もが感嘆したという。

 寛和2年(986年)7月22日、一条天皇の即位式の日に昇殿。正暦元年(990年)5月8日、祖父・兼家の後をついで父・道隆が摂政に就任し、さらに同年10月中宮に同母妹・定子が立つと、摂関家の嫡男としてその地位は飛躍的に上昇した。正暦2年(991年)正月26日、参議となって公卿に列し、同9月7日には権中納言に昇叙、更に翌3年8月28日、正三位権大納言に進んだ。その翌年の正暦5年(994年)8月28日、21歳の伊周は8歳年上の叔父・道長ら3人の先任者を飛び越えて内大臣に昇進、伊周の後任の権大納言は3歳上の異母兄・道頼に譲るという強引な伊周への官位引き上げは、一条天皇の生母・東三条院詮子(道隆の妹)をはじめとして朝野上下の不満を募らせた。それは、やがて道隆薨去後、道長の政権奪取に絶好の素地を提供することになる。
 長徳元年(995年)4月10日、道隆が薨去すると、4月27日、道隆のすぐ下の同母弟である道兼が関白・氏長者に就いたが、道兼も拝賀の僅か7日後に薨去した。そこで後継の関白を巡って激しい政争が伊周と叔父の道長の間に繰り広げられた。結局5月11日になって道長に文書内覧の宣旨が下り、翌月19日には道長が伊周を越えて右大臣に昇任、氏の長者並びに天下執行の宣旨を獲得した。この辺り、東三条院が渋る一条天皇を泣いて説得したともいわれる。
 道長と伊周の間の争いは夏以降白熱化の一途を辿った。7月24日、伊周と道長は仗座で氏長者の所領帳の所有をめぐって激しく口論、罵声が外まで聞こえて一座は恐れをなしたという。3日後、伊周の同母弟・隆家の従者が道長の従者と都の大路で乱闘し、翌月2日には道長の随身・秦久忠が隆家方に殺害される事態に発展。同じ頃、道隆の舅であった従二位・高階成忠が道長を呪詛している噂も流れた。しかし焦燥して自滅の道を歩み始めた若い伊周,隆家兄弟に対し、老練な道長の方は気長に構えて緻密な追い落とし策を練り始めていた。
 長徳2年(996年)正月16日、いわゆる長徳の変が起きる。太政大臣恒徳公藤原為光の4女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光3女目当てと誤解した伊周が弟・隆家と謀って待ち伏せ、従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するとされている。退位したとは言え天皇に向けて矢を射掛けたという前代未聞の事件が、政治問題にならない訳がない。当事件に加え、東三条院呪詛,大元帥法を私に行うこと三カ条の罪状により、内大臣・伊周を大宰権帥に、中納言・隆家を出雲権守に貶める宣旨が下され、彼らの異母兄弟,外戚高階家、また中宮の乳母子・源方理らも左遷されたり殿上の御簡を削られたりと、悉く勅勘を蒙った。懐妊中の中宮・定子は先月始めから里第二条北宮に退出していたが、屈辱に耐えられず自ら落飾。母の貴子も10月末に薨去。定子は失意と悲嘆の中、一条天皇第一皇女・脩子内親王を出産している。
 朝廷は長徳3年(997年)4月5日、東三条院御悩による大赦に託けて大宰権帥・伊周と出雲権守・隆家兄弟の罪科を赦し、太政官符を以って召還することに決めた。こうして伊周はその年の12月に帰洛した。
 その後、長保元年(999年)11月7日、定子が第一皇子・敦康親王を出産し、伊周は一家再興の望みをかけて狂喜したが、奇しくも同じ日、入内後6日目の道長長女・彰子に女御の宣旨が下り「一帝二后」が現出した。
 長保3年(1001年)閏12月16日、死をまじかに悟った東三条院詮子は、一条天皇に甥・伊周を本位(正三位)に復すよう促したという。これは、末弟を偏愛するあまり兄一家に過酷な措置を取った女院の最期の望みらしく、これ以上は無力な存在でしかない伊周を見限っての道長の意も汲んでいる。同5年9月22日、伊周は従二位に叙せられ、寛弘2年(1005年)2月25日正式に座次を大臣の下・大納言の上と定められ、翌月26日、改めて昇殿を聴される。
 寛弘6年(1009年)正月7日、正二位となるも、翌月20日には中宮と新生の皇子に対する呪詛事件が起き、伊周の叔母・高階光子が入獄させられ、伊周は直ちに朝参を止められた。その後4ヶ月も経たぬ6月13日には早くも一件落着して、伊周は朝参を聴され、また帯剣の殊遇も得た。このような異常なまでに寛大な処理に照らすと、孫皇子の立太子目前に、道長が敦康親王の外戚家に追い討ちを企んだことが想定される。
 伊周は失意のうちに翌7年正月28日、37歳の壮年で没した。死後、その邸である室町第は群盗が入るほど荒廃し果てた。

藤原道雅 藤原遠峰

 祖父の中関白道隆に溺愛されて育つが、長徳元年(995年)に道隆は死去、さらに、翌年内大臣という高位にあった父・伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こし大宰権帥に左遷され(長徳の変)、実家の中関白家が没落する中で成長する。
 長保6年(1004年)に14歳で従五位下に叙せられる。寛弘8年(1011年)には春宮権亮となって敦成親王(後の後一条天皇)に仕える。長和5年(1016年)正月、後一条天皇践祚に際して藤原資平とともに蔵人頭に任じられたが、翌月春宮権亮としての功労という名目で従三位に叙せられて、在任8日目で蔵人頭を更迭されてしまう。更に同年9月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通し、これを知った内親王の父・三条院の怒りに触れて勅勘を被った。また、仲を裂かれた当子内親王は翌寛仁元年(1017年)に病により出家した。
 万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝、死体が野犬に食われた姿で発見された。この事件は朝廷の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)7月25日に容疑者として法師隆範を捕縛、隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白する。結局、この事件はうやむやにされるものの、翌万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将・伊予権守を罷免され、右京権大夫に左遷された。
 その後、昇進できぬまま天喜2年(1054年)7月出家の直後に薨じた。
 『小右記』によると、花山法皇の皇女を殺させたほか、敦明親王の雑色長小野為明を凌辱し重傷を負わせたり、博打場で乱行したなど乱行の噂が絶えなかった。このため、世上「荒三位」「悪三位」などと呼ばれたという。
 その一方で和歌には巧みであり、中古三十六歌仙の1人としても知られている。『小倉百人一首』には道雅が当子内親王に贈った歌が採られている。

 『鎌倉武鑑』の伝えによれば、児玉氏は中関白道隆公の後葉とされる。ただ、これは後世になって後付けされた系譜であると考えられる。鎌倉期まで児玉党の初姓は有道であった。しかし、庄左衛門尉長家が建武の新政の際に、初姓が藤原であったと奏請し、武者所祗候の時には「藤原長家」と称する事を許されたと『武蔵七党系図』には記されている。雑訴決断所結番交名にも「庄左衛門尉藤原長家」とある。『武蔵七党系図』で、児玉党の祖を内大臣・藤原伊周の子・藤原伊行としたのは、庄長家が上洛し藤原姓を称した方が社会的に有利であると考えたためと見られ、鎌倉期以後(14世紀中頃)に初姓を改めて地位を向上させようとしたものと考えられる。
 上記のように児玉氏の初姓が藤原姓だったと言うのは後世の創作と考えられる。有道(在道)氏は始め、大部氏を称していた。大部氏が有道氏を賜ったことは、『続日本後紀』に見える。従って、大部氏 → 有道(在道)氏 → 遠峰(コダマ・コタマ)氏 → 児玉氏 → 庄氏 → 本庄氏と言うのが本来の流れであり、大部氏から本庄氏に至る。

藤原定子 藤原隆家

 永祚元年(989年)父方の祖父である摂政・兼家の腰結いで着裳、その時はじめて歴史の表舞台に登場する。正暦元年(990年)1月25日、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内。同年10月5日、皇后に冊立され「中宮」を号した。なお、道隆は定子を立后させるために、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させて定子に与えた。同じ年の5月には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任しており、道隆一族は輝かしい栄華を謳歌した。
しかし、長徳元年(995年)4月10日、道隆が死去すると、政権は国母・東三条院詮子の介入により定子の叔父・道兼、ついで道兼が急死するとその弟・道長の手に渡り、有力な後盾を失った定子の立場は危ういものとなった。さらに、翌年4月には定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家らが花山院奉射事件を起こして左遷され(長徳の変)、当時懐妊中の定子も内裏を退出し里第二条宮に還御するが、目の前で邸に逃げ込んだ兄弟が検非違使に捕らえられることを見て、あまりの衝撃に自ら鋏を取り落飾した。中宮定子の突然の出家は5月1日のことで、この後、同年夏に二条宮が全焼し、10月には母・貴子も没するなどの不幸が相続く中、定子は長徳2年(996年)12月16日、第一子・脩子内親王を出産した。
 その後、長徳3年(997年)6月、一条天皇は再び定子を宮中に迎え入れた。この再入内で定子は実質的に還俗し、長保元年(999年)11月7日、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産。天皇の喜びは大きかったが、先に長女・彰子を入内させていた道長はこのことで焦慮し、彰子の立后を謀るようになる。東三条院詮子の支持もあって、長保2年(1000年)2月25日、女御彰子が新たに皇后に冊立され「中宮」を号し、皇后・定子は「皇后宮」を号させられ、史上はじめての「一帝二后」となった。同年の暮れ、定子は第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御し、生前の希望から鳥辺野の南のあたりに土葬された。陵墓は京都市東山区今熊野泉山町にある鳥辺野陵とされている。
 定子の崩御後、中関白家(父と弟の間にあって関白になった道隆家の呼称)は没落の一途をたどる。

 永祚元年(989年)正月29日、11歳で元服し従五位下侍従、正暦4年(993年)3月10日右近衛中将、翌5年8月28日、非参議・従三位に叙され公卿に列す。父・道隆の死に先立ち、長徳元年(995年)4月6日に権中納言に至る。翌2年4月24日、花山法皇奉射,東三条院呪詛,大元帥法を行った罪状三ヶ条を以って出雲権守に左遷された(長徳の変)。
 翌年4月召還され、長徳4年10月23日兵部卿に任じた後、長保4年(1002年)9月24日、権中納言に復した。以降、徐々に宮廷社会で復帰していったが、官職は中納言に止まった。
 三条天皇代に眼病の治療の為、進んで大宰権帥を拝命して大宰府に下り、在任中の寛仁3年(1019年)4月 、当地で刀伊の入寇を撃退し武名を挙げた。なお、権帥の任期が終わり帰京した寛仁4年に、都に疱瘡が大流行した。刀伊(女真族と考えられている)が大陸から持ち込んだもので、隆家の入京とともに流行したと噂された。
 寛仁3年12月、大宰権帥を辞して帰京。治安3年(1023年)12月15日、次男・経輔の右中弁昇任のため、中納言を退く。長暦元年(1037年)8月9日藤原実成に代わって再度大宰権帥に任ぜられたが、長久3年(1042年)正月29日それを辞した。寛徳元年(1044年)正月1日、正二位・前中納言として薨去、享年66。
 天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であり気骨のある人物として知られた。その気概は政敵の道長も一目置く存在であり、「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年、賀茂詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている。

藤原政則 藤原原子

 別名は蔵規とも記述される。寛仁3年( 1019年)の刀伊の入寇で戦功のあった大宰権帥藤原隆家の下で大宰少弐であり、一説にはこの隆家が但馬国に流された時の子息ともしている。
 菊池氏は、隆家の孫とされる則隆が肥後国に下向して土着したとして藤原姓を自称している。だが昭和34年(1959年)、志方正和は公家が残した日記や『源氏物語』を研究した結果、隆家の後裔とするのは仮冒であり、政則について、肥後国住人と記述されていることをもって、政則と則隆の代に菊池周辺に土着したとする説を発表、この説が現在まで有力とされている。
 藤原実資の牧司や太宰大監,長和2年(1013年)に対馬守、長和4年(1015年)に肥前守などを歴任し、藤原定任殺害の嫌疑を受けて追捕をされたことも記述されている。

 正暦4年(993年)2月着裳。同6年(995年)1月、東宮居貞親王(のちの三条天皇)に入侍。淑景舎を局とし、淑景舎女御,内御匣殿などと称されて東宮の寵愛を受けた。当世風の華やかな人柄であったといい、姉・定子を訪れた時の様子が『枕草子』に登場している。
 しかし入内からわずか3ヵ月後に父道隆が薨去、さらに翌年、兄・伊周,隆家も失脚し、中関白家は凋落した。その後は有力な後見もなく、皇子女にも恵まれないまま、姉・定子、妹・御匣殿のあとを追うように長保4年(1002年)8月3日に死去。享年22,3であった。突然血を吐いてそのまま頓死したといわれ、同じく東宮妃の宣耀殿女御(のち皇后)藤原娍子、あるいはその女房であった少納言の乳母が何かを仕掛けたのではないかとの噂が立った。