F601:藤原道隆 | 藤原道隆 ― 藤原経輔 | F606:藤原経輔 |
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藤原経輔 | 藤原師家 |
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寛仁2年(1018年)従五位下に初叙され、同年12月に藤原道長邸において大納言・藤原道綱の加冠によって元服する。 |
五位蔵人・少納言を経て、永承3年(1048年)右少弁に任ぜられる。左少弁を経て、天喜3年(1055年)摂津守を兼ね、康平元年(1058年)4月右中弁、7月には従四位下となるが、同年9月3日に没した。享年32。 |
藤原家範 | 藤原基隆 |
権大納言・藤原経輔の孫に生まれ、父・師家も順調に昇進するが、康平元年(1058年)に右中弁のまま32歳で早世してしまう。そのため家範も昇進が遅れ、治暦3年(1067年)に遠江守をはじめ、安芸守,和泉守などの地方官や、右近衛少将,大膳大夫を務めるも位階は正四位下に止まってしまう。
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白河院政期初頭の寛治2年(1088年)従五位下に叙爵、寛治4年(1090年)左兵衛佐に任ぜられ、昇殿を聴される。寛治6年(1092年)従五位上に進み、寛治8年(1094年)美作守を兼ねる。この頃より白河上皇の院近臣として活躍を始めるが、乳母子として堀河天皇にも近侍した。三条大宮に邸を構え、しばしば白河院の行幸が行われている。 |
藤原忠隆 | 藤原基成 |
院庁の年預を務めるなど、鳥羽院政期を代表する院近臣として活躍した。また鷹狩を好み、馬術にも優れるなど、武の道においても一目置かれる存在であり、平忠盛ら武人とも広く交流した。信西も『本朝世紀』の中において「数国の刺史を経て家富財多し。性、鷹、犬を好む。人がため施しを好み、その報いを望まず。世、その態度に伏す」と述べ、その器量の大きさに称賛を送っている。
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父・忠隆は鳥羽院の近臣で、兄弟達も院近臣となっている。また、妹が関白・近衛基実の正妻で、その子である基通も関白になっている。 |
藤原信頼 | 増誉 |
後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。 |
園城寺(三井寺)の乗延に師事し、行円の下で得度、行観から灌頂を受けた。大峰山・葛城山で山岳修行を行い、早い時期から霊験を現したという。また、白河,堀河両天皇の護持僧としても活躍した。 |
藤原長房 | 藤原師基 |
長房の代の頃は、中関白家の一門全体が不遇であり、長房自身も参議止まりであった。大宰大弐在任中の嘉保元年(1094年)、彦山衆徒が訴訟のため蜂起して大宰府政庁に押し掛けたが、これに驚いてなす術もなかった長房は任期途中で辞職して都に逃げ帰ったため、世間から半大弐と呼ばれて笑われた。康和元年(1099年)9月病のため出家し、にわかに薨去した。享年70。後世になっても、長房の子孫は振るわなかった。 |
後冷泉朝にて右馬頭や皇后宮権亮(皇后は藤原寛子)を経て、康平6年(1063年)右中弁に直任される。治暦元年(1065年)左中弁に昇任され、治暦3年(1067年)2月には蔵人頭(頭弁)に補せられる。しかし、同年より病気のために出仕できなくなり、治暦4年(1068年)3月に蔵人頭を辞し、治暦5年(1069年)には左中弁も解かれて若狭守として地方官に転じた。 |