<藤原氏>北家 道隆流

F601:藤原道隆  藤原道隆 ― 藤原経輔 F606:藤原経輔


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藤原経輔 藤原師家

 寛仁2年(1018年)従五位下に初叙され、同年12月に藤原道長邸において大納言・藤原道綱の加冠によって元服する。
 左兵衛佐,右近衛少将,左右中弁を経て、長元7年(1034年)には後一条天皇の蔵人頭(頭弁)に任ぜられた。蔵人頭在任中の長元9年(1036年)正月に従姉の子でもう一人の蔵人頭(頭中将)である藤原俊家の従者に殴打され、俊家は除籍されるが、経輔も約半月の間朝参を停止された。同年4月、後一条天皇の崩御により蔵人頭を止められたが、9月には後朱雀天皇の蔵人頭に再任した。
 長暦2年(1038年)右大弁を兼ね、翌長暦3年12月(1040年1月)先任の異母兄・良頼と参議に並んだ。長久元年(1040年)従三位に叙せられる。
 寛徳2年(1045年)良頼とともに権中納言に昇任。永承元年(1046年)中宮・章子内親王の権大夫に就任し、その後、内親王が皇太后・太皇太后に転上するにともない皇太后宮大夫・太皇太后宮大夫となる。永承6年(1051年)正二位、康平元年(1058年)大宰帥を兼ね、治暦元年12月(1066年1月)権大納言に至った。
 治暦4年(1068年)以来病気と称して出仕せず、再三辞表を奉ったため、延久元年(1069年)7月7日に権大納言の辞任を許された。翌延久2年(1070年)正月10日出家。永保元年(1081年)8月7日薨去、享年76。
『後拾遺和歌集』(1首),『千載和歌集』(1首)に入集する勅撰歌人である。

 五位蔵人・少納言を経て、永承3年(1048年)右少弁に任ぜられる。左少弁を経て、天喜3年(1055年)摂津守を兼ね、康平元年(1058年)4月右中弁、7月には従四位下となるが、同年9月3日に没した。享年32。
 右少弁師家が以前通っていて仲が絶えてしまった女の家の前を通ったところ、女の家人に呼び止められたので、車を引き返して女の家に入った。すると、その女の様子がことのほか素晴らしかったので、師家は女を捨ててしまったことを後悔して弁解したものの、女はひたすら読経するばかりで、返事もしない有様であった。女はお経を唱える内に、法華経七巻の「即往安楽世界」というくだりを繰り返し誦んでいたところ、そのまま気を失ってしまい、師家や家の者が女を介抱したが、すぐに女は亡くなってしまった。師家は悲しんでしばらく山里に隠遁したところ、「世捨て人となった」と噂されたが、また出仕するようになったので、「かえる弁」と呼ばれたという。 

藤原家範 藤原基隆

 権大納言・藤原経輔の孫に生まれ、父・師家も順調に昇進するが、康平元年(1058年)に右中弁のまま32歳で早世してしまう。そのため家範も昇進が遅れ、治暦3年(1067年)に遠江守をはじめ、安芸守,和泉守などの地方官や、右近衛少将,大膳大夫を務めるも位階は正四位下に止まってしまう。
 保安4年(1123年)に卒去。享年76。

 

 白河院政期初頭の寛治2年(1088年)従五位下に叙爵、寛治4年(1090年)左兵衛佐に任ぜられ、昇殿を聴される。寛治6年(1092年)従五位上に進み、寛治8年(1094年)美作守を兼ねる。この頃より白河上皇の院近臣として活躍を始めるが、乳母子として堀河天皇にも近侍した。三条大宮に邸を構え、しばしば白河院の行幸が行われている。
 急速に昇進を見せ、院分国の受領を歴任。この間に、多くの仏寺・殿邸を造営し、白河上皇の院別当にも補任され、地方官を務めながら蓄えた財力をもって上皇周辺の経済面を支える典型的な院司受領であった。
 大治4年(1129年)に白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇の院司となった。大治5年(1130年)従三位・修理大夫に叙任されて公卿に列した。天承元年(1131年)12月に修理大夫を辞任し、翌天承2年(1132年)正月に出家。同年3月21日薨去。享年58。 

藤原忠隆 藤原基成

 院庁の年預を務めるなど、鳥羽院政期を代表する院近臣として活躍した。また鷹狩を好み、馬術にも優れるなど、武の道においても一目置かれる存在であり、平忠盛ら武人とも広く交流した。信西も『本朝世紀』の中において「数国の刺史を経て家富財多し。性、鷹、犬を好む。人がため施しを好み、その報いを望まず。世、その態度に伏す」と述べ、その器量の大きさに称賛を送っている。
 忠隆の武を好む資質を受け継いだ4男の信頼は、後年に平治の乱の首魁となる。

 

 父・忠隆は鳥羽院の近臣で、兄弟達も院近臣となっている。また、妹が関白・近衛基実の正妻で、その子である基通も関白になっている。
 康治2年(1143年)4月に陸奥守に任官、6月に鎮守府将軍を兼任し平泉へ下向する。鎮守府将軍の在任期間は不明だが、陸奥守は重任して仁平3年(1153年)閏12月まで在任している。在任中に奥州の実質的な支配者である奥州藤原氏の頭領・藤原基衡と親交を結ぶ。基衡は基成の前任者であった藤原師綱と激しく対立し、腹心の佐藤季治を打ち首にされた。そのことに懲りて基衡は陸奥守との融和政策を執ったと見られる。また、基成が朝廷に太いパイプを持っていたことから単なる融和策だけでなく、自分の支配体制に組み込み、一体化を図ったとみられる。時期は不明だが、基成は基衡の嫡男・藤原秀衡に娘を嫁がせている。
 任が終わる直前に帰洛し、久寿2年(1155年)12月に民部少輔に補任されたが、平治元年(1159年)の平治の乱で敗れた異母弟・信頼との縁座によって陸奥に流された。以降、秀衡の岳父として衣川館に住み、奥州藤原氏の政治顧問的な立場を確立した。歴代の陸奥守は基成の近親者が歴任し、国衙にも大きな影響力を及ぼしたと見られる。
 また、基成の父の従兄弟である一条長成の妻は源義朝の妾であった常盤御前であり、義朝と常磐の間の子である源義経が兄・源頼朝に追われた際に奥州に逃亡したのも、長成から基成への働きかけによるものとの推測もある。
 秀衡の没後、基成の外孫でもある藤原泰衡が家督を継ぎ、それを補佐するが、文治5年(1189年)7月の頼朝による奥州追討を受け、敗北した泰衡は頼朝によって梟首され、奥州藤原氏は滅亡した。基成は平泉が陥落した後の9月18日、頼朝の御家人である東胤頼によって3人の息子とともに降伏し捕縛された。後に釈放され帰京しているが、以後の消息は不明である。 

藤原信頼 増誉

後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。
 鳥羽院の近臣・藤原忠隆の4男(または3男)として生まれる。父の知行国であった国の受領を歴任。後白河天皇に近侍するや、周囲から「あさましき程の寵愛あり」といわれるまでの寵臣となる。保元3年(1158年)2月に26歳の若さで正三位・参議になり公卿に列せられる。同年には権中納言に任ぜられ、検非違使別当,右衛門督を兼ねるに至る。後白河天皇の譲位後は院別当となる。
 また、信頼は武士の力に着目し、異母兄の基成を陸奥守および鎮守府将軍としてに送り込み、軍事貴族の奥州藤原氏の3代目・藤原基衡と姻戚関係を結んだり、自身の後任として武蔵守に弟・信説を任せている。これにより坂東武士支配の生命線である武蔵国の国衙支配の権限と、武士にとっては必要不可欠な馬や武器を調達する陸奥国を押さえることによって、坂東支配を進めていた源義朝への影響力を強めていくこととなる。また、当時の最大軍事貴族であった平清盛の娘と嫡男・信親との婚姻も成立し、信頼は朝廷における実力者となる。
 その頃の信頼の権勢は大変なもので、保元3年(1158年)の賀茂祭の際に、信頼といざこざを起こした関白・藤原忠通は後白河天皇から叱責をうけて閉門の憂き目にあったが、その後、忠通は嫡子・基実の妻に信頼の姉妹を迎えている。信頼の権勢を見て忠通が判断してのことである。
 保元の乱の後、後白河天皇の乳母を妻とする信西が急速に力を伸ばす。保元3年(1158年)に後白河天皇が退位し二条天皇が即位すると、信西は、院近臣,天皇側近の中に子供達を送り込んで権勢を振るうようになり、旧来の院近臣や権勢を得ようとしていた二条天皇側近たちの反感を買うことになる。院近臣と天皇側近の間で信西排斥の動きが生じ、その中で軍事貴族達に強い影響力を有する信頼は反信西派の中心となり、やがてそれは平治の乱へと発展する。
 平治元年12月9日(1160年1月19日)、清盛が熊野詣に出かけた留守に信頼は源義朝,源光保,源頼政を誘引して京で挙兵、信西を捕らえて斬首する。その功により信頼は朝廷最大の実力者に成り上がった。しかし、院近臣と天皇側近との連合政権はすぐに瓦解した。また、天皇派の中にも対立が生じていた。それまで中立的立場を保っていた平清盛が帰京すると、天皇派は清盛と手を結び二条天皇を六波羅(清盛方)へと御幸させることに成功し、このことにより権威の正統性を失った信頼に反乱者の烙印を押した。
 もともと天皇側近であった源光保らの軍事貴族は賊軍となった信頼方から離脱し、信頼に対する依存度が高い義朝のみが信頼の陣営に残ることになる。また、清盛の婿となっていた信親は二条天皇の御幸の直後、信頼の元に戻され平家との婚姻関係も解消された。12月27日(2月6日)、天皇の宣旨を得て攻めかかってきた官軍との戦闘においては、清盛の大軍の前に信頼,義朝はあっけなく敗北する。逃れた信頼は仁和寺にいた後白河院にすがり助命を嘆願するが、朝廷は信頼を謀反の張本人として許さず、公卿でありながら六条河原で斬首された。享年27。 

 園城寺(三井寺)の乗延に師事し、行円の下で得度、行観から灌頂を受けた。大峰山・葛城山で山岳修行を行い、早い時期から霊験を現したという。また、白河,堀河両天皇の護持僧としても活躍した。
 寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野参詣の先達をつとめて最初の熊野三山検校に任じられ、洛東に聖護院を建立した。天王寺別当,園城寺長吏を歴任、長治2年(1105年)に天台座主に任じられるが、延暦寺の反対により翌日辞任に追い込まれた。その後は、尊勝寺など13ヶ寺の別当を兼任した。
 永久4年(1116年)、85歳で没し、園城寺長吏の職は行尊が後継した。 

藤原長房 藤原師基

 長房の代の頃は、中関白家の一門全体が不遇であり、長房自身も参議止まりであった。大宰大弐在任中の嘉保元年(1094年)、彦山衆徒が訴訟のため蜂起して大宰府政庁に押し掛けたが、これに驚いてなす術もなかった長房は任期途中で辞職して都に逃げ帰ったため、世間から半大弐と呼ばれて笑われた。康和元年(1099年)9月病のため出家し、にわかに薨去した。享年70。後世になっても、長房の子孫は振るわなかった。
 和歌を得意とし、『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に6首入集する勅撰歌人でもある。若年の時から後冷泉天皇が催した内裏歌合などに出詠した。『袋草紙』によると、長房は常々「秀歌一首持つは歌読み、二首持つは上手、三首は有り難き事なり」と持論を語り、自身が3首の秀歌を持っていることを自慢していたという。

 後冷泉朝にて右馬頭や皇后宮権亮(皇后は藤原寛子)を経て、康平6年(1063年)右中弁に直任される。治暦元年(1065年)左中弁に昇任され、治暦3年(1067年)2月には蔵人頭(頭弁)に補せられる。しかし、同年より病気のために出仕できなくなり、治暦4年(1068年)3月に蔵人頭を辞し、治暦5年(1069年)には左中弁も解かれて若狭守として地方官に転じた。
 承保4年(1077年) 2月10日卒去。享年47。
 妻(源定良の娘)は白河天皇の乳母を務めているが、彼女が後冷泉朝の頃に早世した影響もあるのか、乳父として目立った恩恵を受けることはなかった。代わりに息子の国明や娘婿の源俊明が院近臣として登用されることになる。