<藤原氏>北家 道隆流

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坊門信隆 坊門信清

 坊門家の祖。後白河上皇の近臣である一方、平清盛の娘を妻とした関係で、親平家派の廷臣としても活動する。応保元年(1162年)には、平教盛,平時忠らとともに二条天皇を廃して憲仁親王(後の高倉天皇)を擁立する陰謀に加わった廉で、因幡守,右馬頭を解官される憂き目に逢っている。
 赦免されて後は平氏政権の興隆とともに栄達し、仁安3年(1168年)に従三位に進んだ。娘の殖子は高倉天皇の寵愛を受け、守貞親王,尊成親王の二皇子の生母となった。治承3年(1179年)、54歳にして薨去。
 寿永2年(1183年)、尊成親王が後鳥羽天皇として践祚した後、その外祖父として従一位・左大臣を追贈されている。

 同母姉に高倉天皇妃の殖子(七条院)がおり、後鳥羽天皇の外叔父にあたる。四条壬生と三条坊門にそれぞれ邸宅を所有していた。また、京都の太秦にも山荘があったことから、太秦内府と称した。
 建久8年(1197年)従三位に叙され公卿に列す。翌年、参議に任ぜられ、のち権大納言にまで昇進する。
 元久元年(1204年)権大納言を辞すが、建暦元年(1211年)還任して内大臣まで昇進した。しかし翌年上表して内大臣を辞した。議政官として右衛門督,播磨権守,鳥羽院別当及び厩別当などを兼帯した。建保3年(1215年)2月、嵯峨別業において出家し、翌年3月に薨去。
 後鳥羽天皇の叔父として権力をふるい、侍従だった寿永2年(1183年)の法住寺合戦に際し後鳥羽天皇を守った。建仁3年(1203年)には播磨国を賜った際、御所五辻殿を造進。翌元久元年には後鳥羽上皇の移御があった。源実朝は婿にあたるため、朝廷における鎌倉幕府との交渉役ともなった。 

坊門忠信 坊門忠清

 建永2年(1207年)参議、建保6年(1218年)権大納言。後鳥羽天皇,順徳天皇の寵臣として仕える。承久元年(1219年)正月、義弟である源実朝の右大臣拝賀式のため鎌倉へ下向し、実朝暗殺の現場を目の当たりにしている。
 承久3年(1221年)6月、実朝亡き後の鎌倉幕府と対立した後鳥羽上皇が幕府打倒の兵を挙げた承久の乱では、上皇方の大将軍として出陣した。しかし、上皇方の敗北により首謀者して捕らえられ、千葉胤綱に身柄を預けられる。処刑のため関東へ連行されたが、妹・信子の嘆願により助命され、遠江国より都へ戻って、同年7月出家した。その後、幕府の処置により越後国へ流罪となる。まもなく赦免されて帰京し太秦の辺りに籠居した。寛喜2年(1230年)春には都へ戻り、一条大宮に居住している。没年は不明だが、暦仁元年(1238年)年までは存命している。
 勅撰歌人として新勅撰和歌集(5首)以下の勅撰和歌集に11首が入首しており、嘉禄2年(1236年)の後鳥羽院の遠流歌合に道珍の法名で参加している。

 治承2年(1178年)に正六位上・豊前権介に叙任し、翌治承3年(1179年)従五位下に叙せられる。のち、左兵衛佐,近衛少将・中将といった武官や、阿波守,尾張守,播磨守と上国・大国の地方官を歴任し、承元元年(1207年)従四位上に至った。
 同母兄・忠信は、後鳥羽天皇,順徳天皇の寵臣であったことに加え、その妹・信子が将軍・源実朝の正室であったこともあり、当時の朝廷の有力者であった。しかしながら、実朝没後の承久3年(1221年)5月に起こった承久の乱では、後鳥羽天皇に与して幕府軍と戦って敗れ、戦後に処罰されている。忠清も兄に連座して失脚したらしく、乱後の消息は不明である。

 

西八条禅尼 坊門清忠

 鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝の御台所。「西八条禅尼」は出家後の通称で、法名は本覚尼。実名を信子とする説が流布しているが、実際には「信子」という名は伝わっておらず、『尊卑分脈』において信清の妹として掲載されている「信子」と混同したものと考えられている。
 元久元年(1204年)、実朝の正室となって鎌倉へ赴いた。実朝との仲は良かったといわれるが、子はできなかった。建保4年(1216年)、尼御台政子の命により実朝の兄・頼家の娘(後の竹御所)を猶子に迎える。建保7年(1219年)に実朝が暗殺されると翌朝には出家し、その後は京に戻った。
 承久3年(1221年)5月に起こった承久の乱では、兄たちが朝廷軍として幕府と交戦し敗北。忠信は首謀者の一人とみなされ東国へ連行されたが、西八条禅尼の嘆願により死罪を免れている。
 九条大宮の地に夫の菩提寺・遍照心院(現在の大通寺)を建立した。文永11年(1274年)9月18日に死去。享年82。

 前半生の官歴は明らかでないものの、嘉元3年(1305年)9月、亀山法皇の崩御に際して尊治親王(後の後醍醐天皇)らとともに哀傷歌を詠進していることから、この頃には既に後醍醐の近臣として仕えていたと思われる。後醍醐親政下の正中3年(1326年)2月右大弁に達し、翌嘉暦2年(1327年)7月従三位に叙せられて公卿に列した。次いで同3年(1328年)参議に任じられて左京大夫を兼ねる。元徳3年(1331年)1月には参議を辞しているが、後醍醐に供奉して笠置へ赴いた形跡はない。
 元弘3年/正慶2年(1333年)、光厳天皇の廃位に伴って還任し、建武政権下の建武元年(1334年)には信濃権守・大蔵卿を兼ね、従二位に昇叙した他、雑訴決断所の二番衆(東海道担当)を務めている。
 後醍醐が吉野に潜幸して南朝(吉野朝廷)を樹立すると、延元2年/建武4年(1337年)3月頃に清忠はこれを追って吉野入りし、南朝政権の一角を占めたようである。1年を経た延元3年/建武5年(1338年)3月21日に薨去した。享年56という。『新葉和歌集』には、後醍醐が清忠らの死を悼んだ以下の御製がある。

坊門親忠 坊門殖子

 父とともに吉野入りして早くから南朝に仕えたが、具体的な官歴は不明である。初めは綸旨の奉者として史料に散見され、延元2年/建武4年(1337年)には侍従、延元4年/暦応2年(1339年)には少納言、興国元年/暦応3年(1340年)には蔵人・右少弁、興国2年/暦応4年(1341年)から翌年にかけては左少弁、興国3年/康永元年(1342年)には右中弁、興国5年/康永3年(1344年)から翌々年にかけては大蔵卿の署判を残した。
 さらに歌人として、興国5年/康永3年(1344年)と正平11年/延文元年(1356年)3月に催された内裏歌会に詠進している。和歌は、『新葉和歌集』に2首が入集する。
 『南朝公卿補任』によると、正平14年(1359年)8月に従二位前権中納言民部卿で薨じたとされるが、その後も存命したことを示す史料がある。 

 『増鏡』には、はじめ兵衛督君といって中宮・平徳子に仕えたとある。高倉天皇に召され、典侍に任じられ、第二皇子・守貞親王、第四皇子・尊成親王(後鳥羽天皇)を産む。守貞親王が平家の都落ちと共に西国に連行されたことから、後鳥羽天皇が即位する。建久元年(1190年)従三位・准三后、その後、立后を経ず女院となり、七条院と呼ばれる。元久2年(1205年)出家。承久の乱で後鳥羽院と4人の孫(土御門院,順徳院,雅成親王,頼仁親王)が配流となった後も、後堀河天皇(守貞親王の皇子)の祖母として京都に留まる。晩年は後高倉院に先立たれ、また後鳥羽院との再会も叶わぬまま、安貞2年(1228年)72歳で崩御。その所領(七条院領)の大半は修明門院に譲られた。