F607:藤原師信 | 藤原道隆 ― 藤原経輔 ― 藤原師信 ― 坊門信隆 | F608:坊門信隆 |
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坊門信隆 | 坊門信清 |
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坊門家の祖。後白河上皇の近臣である一方、平清盛の娘を妻とした関係で、親平家派の廷臣としても活動する。応保元年(1162年)には、平教盛,平時忠らとともに二条天皇を廃して憲仁親王(後の高倉天皇)を擁立する陰謀に加わった廉で、因幡守,右馬頭を解官される憂き目に逢っている。 |
同母姉に高倉天皇妃の殖子(七条院)がおり、後鳥羽天皇の外叔父にあたる。四条壬生と三条坊門にそれぞれ邸宅を所有していた。また、京都の太秦にも山荘があったことから、太秦内府と称した。 |
坊門忠信 | 坊門忠清 |
建永2年(1207年)参議、建保6年(1218年)権大納言。後鳥羽天皇,順徳天皇の寵臣として仕える。承久元年(1219年)正月、義弟である源実朝の右大臣拝賀式のため鎌倉へ下向し、実朝暗殺の現場を目の当たりにしている。 |
治承2年(1178年)に正六位上・豊前権介に叙任し、翌治承3年(1179年)従五位下に叙せられる。のち、左兵衛佐,近衛少将・中将といった武官や、阿波守,尾張守,播磨守と上国・大国の地方官を歴任し、承元元年(1207年)従四位上に至った。
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西八条禅尼 | 坊門清忠 |
鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝の御台所。「西八条禅尼」は出家後の通称で、法名は本覚尼。実名を信子とする説が流布しているが、実際には「信子」という名は伝わっておらず、『尊卑分脈』において信清の妹として掲載されている「信子」と混同したものと考えられている。 |
前半生の官歴は明らかでないものの、嘉元3年(1305年)9月、亀山法皇の崩御に際して尊治親王(後の後醍醐天皇)らとともに哀傷歌を詠進していることから、この頃には既に後醍醐の近臣として仕えていたと思われる。後醍醐親政下の正中3年(1326年)2月右大弁に達し、翌嘉暦2年(1327年)7月従三位に叙せられて公卿に列した。次いで同3年(1328年)参議に任じられて左京大夫を兼ねる。元徳3年(1331年)1月には参議を辞しているが、後醍醐に供奉して笠置へ赴いた形跡はない。 |
坊門親忠 | 坊門殖子 |
父とともに吉野入りして早くから南朝に仕えたが、具体的な官歴は不明である。初めは綸旨の奉者として史料に散見され、延元2年/建武4年(1337年)には侍従、延元4年/暦応2年(1339年)には少納言、興国元年/暦応3年(1340年)には蔵人・右少弁、興国2年/暦応4年(1341年)から翌年にかけては左少弁、興国3年/康永元年(1342年)には右中弁、興国5年/康永3年(1344年)から翌々年にかけては大蔵卿の署判を残した。 |
『増鏡』には、はじめ兵衛督君といって中宮・平徳子に仕えたとある。高倉天皇に召され、典侍に任じられ、第二皇子・守貞親王、第四皇子・尊成親王(後鳥羽天皇)を産む。守貞親王が平家の都落ちと共に西国に連行されたことから、後鳥羽天皇が即位する。建久元年(1190年)従三位・准三后、その後、立后を経ず女院となり、七条院と呼ばれる。元久2年(1205年)出家。承久の乱で後鳥羽院と4人の孫(土御門院,順徳院,雅成親王,頼仁親王)が配流となった後も、後堀河天皇(守貞親王の皇子)の祖母として京都に留まる。晩年は後高倉院に先立たれ、また後鳥羽院との再会も叶わぬまま、安貞2年(1228年)72歳で崩御。その所領(七条院領)の大半は修明門院に譲られた。 |