寛治2年(1088年)、行幸によって勧賞され、正四位下に叙される。その後、丹後守を務める。寛治3年(1089年)内蔵頭として賀茂臨時祭の記事に名がある。寛治6年(1092年)公卿議の間、東方に赤雲が有った際、師信が夢想があったと告げている。寛治7年(1093年)殿上人となっており、播磨守を兼任。同年2月に郁芳門院院別当に任ぜられる。その後、正四位上に昇り、修理権大夫を務める。寛治8年(1094年)正月10日に飲水病により54歳で卒去。媞子内親王の院別当を務めた際、『執行万事』と評されている。 師信自身は正四位上に留まり公卿に昇っていないが、子の経忠や孫の忠能を始め、多くの公卿が出ている。また、坊門家や羽林家の水無瀬家、さらに支流として七条家,町尻家,桜井家,山井家など、多くの堂上家を輩出した。
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応徳3年(1086年)従五位下に叙爵。越前権守,左兵衛佐,周防守を歴任し、嘉保3年(1096年)従四位上に昇り、永長2年(1097年)兵部大輔に任ぜられる。康和5年(1103年)宗仁親王の立太子に伴い、東宮昇殿を許される。なお、この間の康和4年(1102年)9月に、火災により経忠の邸宅が焼亡している。嘉承2年(1107年)堀河天皇が崩御し、宗仁が即位し鳥羽天皇となると、引き続き昇殿を許される。同年、馬1匹を奉献するための使者として派遣される。嘉承3年(1108年)邸宅に落雷があり、侍者一人が死亡した。 保安5年(1124年)従三位・左京大夫に叙任され公卿に列す。大宰大弐を経て、長承2年(1133年)参議に任ぜられる。長承3年(1134年)大蔵卿を兼任。正三位・備前権守に叙任され、保延2年(1136年)権中納言、同年中には中納言に転じるなど急速に昇進。 太皇太后宮権大夫を経て、保延4年(1138年)従二位に至る。同年病のため出家し、同年中に薨去。享年64。
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