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本来は第8代当主と成るはずだった父の菊池隆継が、4歳の時に死去したため、菊池氏第7代当主で祖父の菊池隆定の跡を継ぐ立場となったことで、隆定が死去した後に家督相続をして、菊池氏の第8代当主となる。 承久3年(1221年)に起きた承久の乱で、まだ21歳の菊池能隆は、後鳥羽上皇に味方する。そんな中で、叔父の菊池家隆や菊池隆元らは宇治で戦うも、後鳥羽上皇が敗北してしまったことにより、所領を大幅に削られてしまった。 菊池能隆に、妻が2人いる理由については、承久の乱でのペナルティーとして、幕府から妻を押し付けられたことが原因だと言われる。また、素直ではない菊池能隆を幕府が気に入ったために、承久の乱後に、従五位下や正五位上に補任したとする説もある。
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蒙古襲来に際して一族を挙げて戦い、その活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。文永11年(1274年)の文永の役では弟の赤星有隆と共に、上陸して赤坂まで進出してきた元軍を破り、元軍主力を麁原へ、一部は別府の塚原まで撃退する武功を挙げた。元軍を破った菊池勢100余騎は元兵の首を多数つけて帰陣した(赤坂の戦い)。 八幡神が元軍を破ったと主張する寺社縁起『八幡愚童訓』では、この戦いで武房のみが戦場の死体の中から起きあがり、元兵の首を多数取って帰陣したことになっているが、菊池武房の弟らは戦死しておらず、竹崎季長も元兵の首を多数つけて帰陣する菊池勢約100余騎と遭遇しており、『八幡愚童訓』の戦況は必ずしも史実を反映したものとは言い難い。 弘安4年(1281年)の弘安の役でも活躍して武功を挙げた。しかし朝廷から甲冑を賜っただけで幕府からの行賞がなく、武房は反幕府へ傾いていたという。弘安の役から17年後の永仁6年(1298年)8月27日に54歳で死去した。長男の菊池隆盛が早世していることにより、孫で隆盛の長男の菊池時隆が跡を継いだ。大正4年(1915年)11月10日、従三位を贈られている。
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