<藤原氏>北家 道隆流

F622:菊池能隆  藤原道隆 ― 菊池則隆 ― 菊池経頼 ― 菊池能隆 ― 菊池武時 F623:菊池武時


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菊池武時 菊池武重

 父の隆盛が武房より先に死去した後、菊池氏の家督は兄の時隆が武房の養嗣子となって継いだが、叔父の菊池武本がこれに不満を持って対立し、結果として時隆と武本が共に滅んだため、その後を継いで当主となった。この頃の九州は、元寇の後に鎮西探題が設置され、北条氏による支配が強化されており、御家人達の不満は募っていた。
 元弘3/正慶2年(1333年)3月11日、博多に到着した武時は鎮西探題に出仕したが、侍所から遅参を非難され、口論となった。13日、武時は挙兵し、博多の所々に火をつけて焼き払った。そして少弐貞経,大友貞宗らに使者を使わし、隠岐を脱出した後醍醐天皇の綸旨を受けているので同調するように告げる。しかし、両者の反応は冷たく、少弐貞経は堅粕(福岡市博多区・東区)で菊池の使者を斬り、大友貞宗も使者を斬ろうとして逃走された。武時は鎮西探題に押し寄せ、探題配下と合戦となるが敗れ、子の菊池頼隆以下菊池一族と共に討たれた。享年42。一族200名あまりの首が犬射馬場に懸けられた。
 その性急な挙兵は少弐氏や大友氏の支持を得られず、自滅する結果となるが、武時の探題襲撃計画は九州における討幕運動の契機となり、この2ヶ月後の5月22日に鎌倉幕府が滅亡すると、その3日後に少弐貞経,大友貞宗ら九州の武士達は倒幕側に転じ、鎮西探題を滅ぼすことになる。
 建武の新政で楠木正成は、「武時は帝(後醍醐天皇)に一命を賭した忠臣第一の人」と賞賛し、武時の後を継いだ菊池武重は恩賞として肥後一国を与えられた。福岡県福岡市の菊池神社や熊本県菊池市の菊池神社の主祭神として祀られている。
 また、非常に子沢山で頼隆と武重のほかにも10数人以上の子がいた。江戸幕末の画家・菊池容斎は、武時の子孫であると伝えられる。 

 元弘3/正慶2年(1333年)、父の武時と共に挙兵し、鎌倉幕府の鎮西探題・北条英時を攻めたが、逆に英時や少弐貞経,大友貞宗らの反撃を受けて父は討死し、武重は命からがら本国に逃げ帰った。後醍醐天皇による建武の新政が始まると、亡父の功績を賞されて肥後一国を与えられた。
 建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆して鎌倉より軍を率いて侵攻すると、弟の武吉と共に新田義貞の軍に加わって足利軍と戦ったが、敗れて京都に逃げ帰った。その後、九州に落ちた尊氏が再挙して攻め上ってくると、兵庫など各地で足利軍と戦ったが、敗れて足利軍に捕えられた。しかし一命は助けられて、肥後に送り返されている。
 延元2/建武4年(1337年)2月、九州における南朝勢力を結集して北朝勢力と戦ったが、延元3/暦応元年(1338年)に死去。後を弟の武士が継いだ。ただ、没年には異説が多く、出生年も定かではない。
 一族の結束のため、菊池家憲「寄合衆内談の事」を作り、武重の血判が押されてある。血判文書としては最古のもので、菊池千本槍と共に現在も建武中興十五社のうちの一社である菊池神社に保存され、同神社では武時,武光と共に主祭神として祀られている。

菊池武士 菊池武澄
 延元3/暦応元年(1338年)に当主であった兄・武重の死後、嫡出の子であったためか、兄達を差し置いて当主となった。しかし、武士は父や兄と較べると柔弱で、当主としての才覚に乏しく、兄の武茂や武敏らの補佐を得て、かろうじて菊池氏の勢力を支えているという有様であった。興国4/康永2年(1343年)には大友氏の侵攻を受け、その後も各地の諸勢力から攻撃を受けたため、武士の統治に不満を抱いた十兄の武光によって当主の地位を廃され、追放の憂き目にあうこととなる。その後、30歳の時に出家して仏門に入り、応永8年(1401年)3月25日に死去、約80歳の長寿を全うした。八代市教育委員会によると没年齢は91歳とされている。   建武の新政のとき、父の戦功により後醍醐天皇より肥前守に任じられた。正平3/貞和4年(1348年)、兄弟の武光と共に後醍醐天皇の皇子・懐良親王を肥前に迎え、以後は親王を擁して武光や阿蘇惟澄と共に九州各地の北朝勢力と戦い、これを破った。正平6/観応2年(1351年)には筑後溝口城、正平8/文和2年(1353年)には一色氏、正平10/文和4年(1355年)には大友氏泰と一色範氏相手と南朝勢力拡大のための戦いに明け暮れた。しかし、翌年6月初旬に病に倒れ、平癒を祈って寺院を建立しようとしたが、その甲斐なく6月29日に死去した。死後、武澄の妻によって紫陽山廣福寺が完成した。 
菊池武光 菊池武吉

 肥後国益城郡豊田庄出身。柔弱な弟の武士の代理として、興国6/貞和元年(1345年)に阿蘇惟澄と共に菊池氏の居城である深川城を北朝勢力から奪還する。これを契機に一族中で頭角を現し、後に隈府城に入って当主の武士を廃し、武光自らが当主となった。
 その後、南朝の後醍醐天皇の皇子で征西大将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。正平6/観応2年(1351年)には筑後国に進出して勢力を拡大し、正平8/文和2年(1353年)2月には北朝の九州探題・一色範氏と少弐頼尚の争いに介入し、筑前針摺原にて一色探題軍を撃破する(針摺原の戦い)。同年7月には筑前飯盛山にて再び一色軍を破り、続いて正平9/文和3年(1354年)からは豊後国・肥前国などに進出して大友氏泰を降伏させ、一色範氏を長門国に追放し、九州における南朝勢力の優勢を確立した。
 一色範氏は正平11/延文元年(1356年)10月に九州へ再度侵攻するが、武光は豊前国でこれを撃破。ここに至って一色範氏は九州制圧を断念し、京へ帰還する。正平13/延文3年(1358年)1月には父・範氏に代わって探題となった一色直氏がなおも挑んできたが、武光はこれも撃退し、同年11月には日向国の畠山直顕をも破って、ついに九州の足利氏勢力をほぼ一掃した。
 だが、外来勢力であった九州探題が没落すると、それまで南軍に服していた少弐氏・大友氏らは再び反南軍勢力に転ずることとなった。これにより正平14/延文4年(1359年)3月には、大友氏時の反攻を受け敗北を喫する。しかし勢力を盛り返して氏時を破り、7月には懐良親王を擁して南軍の総力を挙げて筑後国に進軍し、少弐頼尚に対して決戦を挑んだ。ここに史上名高い筑後川の戦い(大原合戦・大保原合戦)の幕が切って落とされた。
 この合戦は菊池軍4万、少弐軍は6万の兵力を擁したと伝わり、まさに九州の合戦史上最大の戦いとなった。この合戦では、7月19日に菊池勢が筑後川を渡河したのを機として、少弐勢が大保原に退いて以降一進一退の攻防が続いたが、8月7日に両軍の主力が激突する大激戦となった。この日の激戦は、南軍の総帥である懐良親王が3ヶ所の深手を負うほどであったが、武光をはじめとした南軍諸将の奮戦もあってこれに勝利した。しかし、両軍とも多くの武将を失う。。
 筑後川での戦勝後、武光は北軍の掃討を推し進め、正平16/康安元年(1361年)7月には自ら出陣して、ついに大宰府の制圧に成功する。8月には頑強な抵抗を続けていた少弐氏も本拠地の有智山城を放棄して豊後の大友氏の元へ落ち延びると、懐良親王は大宰府に入城し、ここに征西府を移して「懐良親王-菊池武光」による九州支配の体勢を確立した。
 少弐軍惨敗の報告に、終始北軍勢力が圧倒していた京都の政界では激震が走り、将軍・足利義詮は大友氏時に対して少弐頼尚と協力して征西府を攻撃する事を命じ、同時に当時幕府の最高実力者であった斯波高経の子息・氏経を新探題として九州へと派遣した。
 正平17/貞治元年(1362年)8月、武光は未だ征西府に服さぬ大友氏時を討つべく、弟・菊池武義を征西府の守将に就かせ、自らは豊前・豊後方面へ出陣した。この隙を突いて探題・斯波氏経は子息・松王丸を大将として、少弐冬資らに大宰府を襲撃させた。不意を突かれた征西府軍ではあったが、守将の武義は負傷しながらもこれをよく防いだ。この間に武光も豊前より馳せ戻って救援し、一族の城武顕とともに探題軍を打ち破った(長者原の戦い)。斯波氏経はこの敗報に接すると戦意を喪失し、翌年春には京都へ逃げるように帰還した。その後も懐良親王と武光率いる征西府の武威は益々高まり、正平20/貞治4年(1365年)、斯波氏経に代わって探題に就任した渋川義行を一歩も九州の地に踏み入れさせず、空しく京都へ帰還させるなど、大宰府入城より11年間は征西府の絶頂期であった。
 九州をほぼ南朝一色に染め上げた懐良親王と武光は、その勢いをもって東上を決意。折りしも都では将軍・義詮が没し、幼少の足利義満がその跡を継いだため、これを好機と見た征西府は、正平23/応安元年(1368年)2月に東征の軍を起こして長門・周防方面へ進軍を開始した。全国各地で南朝方が劣勢に立たされる中、九州で圧倒的優位を誇る征西府は、まさに南朝最後の希望であり、『北肥戦誌』や『鎮西要略』によると、この時の東征軍は菊池氏・原田氏・伊東氏・秋月氏・島津氏・三原氏・草野氏・松浦氏・星野氏・平戸氏・千葉氏・大村氏・山鹿氏などの九州の有力諸氏を従えた7万騎と号する大軍であったとされる。
 しかし、この南軍の起死回生を狙った一大計画は、征西府軍が瀬戸内地方の制海権を完全に確保し切れていなかったこともあって、北朝方に転じていた大内氏により下関付近で進軍を阻まれ、逆に大損害を被る敗北を喫してしまった。結局、これによって征西府軍による東征計画は敢え無く失敗に終わり、大宰府へ敗走した懐良親王と武光は、なおも九州における征西府の勢威を維持し続けたものの、この東征失敗以降、征西府は徐々に衰退していくこととなった。
 一方、北朝は、名将と名高い今川貞世(了俊)を新探題として派遣することを決定。貞世は建徳2/応安4年(1371年)2月に出京すると、途中、上洛中であった少弐氏らの九州武家を従えつつ、着々と九州攻略の方策を推し進め、11月後半に下関へ到達した。毛利氏・吉川氏など中国地方の豪族の合力を得た今川貞世は下関から門司へ上陸すると、肥前国へ進んでいた今川仲秋も筑前国への進軍を開始。こうして探題軍は早くも征西府の大宰府を窺う勢いを見せ始めていた。
 この報に接した武光は、文中元/応安5年(1372年)2月には嫡男・菊池武政を今川仲秋軍の押さえとして肥前国へ進めさせたが、仲秋軍によって返り討ちに遭い、逆に仲秋軍の筑前侵入を許してしまう。今川貞世は、大宰府に向けて軍を発し、九州・中国の諸氏と合流しながら、大宰府北部にある佐野山に陣を張ると、4月から8月まで大宰府を包囲した。懐良親王や武光らは大宰府に篭城するも、戦況は征西府側に好転せず、ついに探題軍は8月10日から大宰府に対して総攻撃を開始した。この戦いでは両軍入り乱れてかなりの激戦となったが、翌日には武安が守る有智山城が落城し、12日には大宰府の防衛維持が不可能となり、懐良親王と武光をはじめとする征西府軍は大宰府を放棄、筑後国の高良山へと逃れていった。ここに懐良親王の大宰府入城以来、11年に亘って九州に覇を唱えた征西府は事実上崩壊した。
 高良山は要害の地であり、いかに大軍を擁する今川探題とはいえ容易に攻めることはできなかった。また、武光も武政や武安に命じて筑後川北岸に陣を敷いた探題軍を攻撃させたが、筑後川を渡河することが叶わず、両軍は膠着状態に陥った。この高良山攻防戦の最中の文中2/応安6年(1373年)11月16日に武光は死去したと伝わる。没時の年齢は不明であるが、一説に52歳であったと言われている。武光の死後、嫡男・菊池武政が菊池氏の惣領となったが、わずか半年後の文中3/応安7年(1374年)5月26日に死去し、まもなく高良山も陥落するなど、以後の征西府の衰退は決定的な状況となっていった。 

 延元元/建武3年(1336年)5月、兄の武重と共に新田義貞の軍勢に加わり、東上してきた足利尊氏の軍勢を兵庫にて迎撃するも敗北(湊川の戦い)。そして、楠木正成・正季兄弟も同じく敗れて自殺しようとしているのを見て、逃れようと思えば逃れることができたにもかかわらず、楠木兄弟と共に自害して果てた。 
菊池武政 菊池武朝

 父と共に九州における北朝勢力と戦い、筑後川の戦いにも従軍、建徳2/応安4年(1371年)7月に九州探題・今川了俊の嫡男・貞臣と田原氏能が籠城した高崎山城を攻撃、翌文中元/応安5年(1372年)2月に肥前に上陸した了俊の弟・仲秋を攻めたが敗れ、大宰府を捨てて父と共に高良山に逃れた。文中2/応安6年(1373年)11月に病死した父の後を受けて家督を継いだが、阿蘇惟武に援軍を要請する必要に迫られるほど菊池氏の勢力は逼迫するようになったといわれている。
 家督継承後から半年後の文中3/応安7年(1374年)5月26日、33歳の若さで病没。遺体は熊本県菊池市正観寺に葬られ、子の武朝が後を継いだ。菊池十八外城の中心である菊池城は正平年間に武政が築城したとされる。 

 文中3/応安7年(1374年)に父が死去したため、跡を継いで当主となった。当時12歳の幼年であったため、一族の菊池武義や武安らの補佐を受ける。しかし、祖父・武光時代からの宿敵である九州探題・今川了俊の攻勢は止まることを知らず、武朝は高良山からも撤退を余儀なくされ、拠点の肥後菊池城に逃亡した。翌永和元/天授元年(1375年)に水島の変で混乱していた今川勢を打ち破り攻勢に転じるも、2年後の永和3/天授3年(1377年)には大内義弘と大友親世の協力を得た了俊の前に再び大敗。南朝方の損害は甚大で、武朝の補佐役だった武義・武安や同盟者であった阿蘇惟武らが軒並み戦死した(肥前蜷打の戦い)。
 これによって九州の南朝勢はいよいよ振るわなくなり、遂に弘和元/永徳元年(1381年)に菊池城までも奪われ、征西大将軍・良成親王を奉じて宇土氏を頼って逃亡、元中3/至徳3年(1386年)に宇土から名和顕興の八代城へ入城、元中8/明徳2年(1391年)に顕興と良成親王が了俊に降伏した後も行方をくらまし、翌元中9/明徳3年(1392年)の南北朝合一で南北朝が室町幕府3代将軍・足利義満によって統一されると、武朝はようやく了俊と和睦して肥後へと戻った。この和睦で肥後守護代に任じられたと推定される。
 しかし、少弐貞頼と結んで以後も幕府に反抗的な態度を取り続けたために、義満の命令を受けた渋川満頼や阿蘇惟村等の諸大名から攻撃を受けたが、結果として菊池氏は肥後守護職を承認されることになる。応永14年(1407年)に45歳で死去し、跡を子の兼朝が継いだ。
 元中元/至徳元年(1384年)に吉野の南朝に『菊池武朝申状』を提出、菊池氏代々の功績を述べて自分の忠誠心を明示した。内容は江戸時代に編纂された『群書類従』に収録されている。 

菊池兼朝 菊池持朝
 応永14年(1407年)、父の死により家督を継いで当主となる。父と同じく南北朝の合一後も室町幕府に対して反抗的な態度をとり続け、永享3年(1431年)には少弐満貞と連合して大内盛見を討ち取った。しかしその後、幕府への姿勢への意見対立と、次男の忠親への偏愛により、長男の持朝と争って家督を奪われ、蘆北郡佐敷に追放されてしまった。そして失意のうちに文安元年(1444年)3月8日に死去した。 

 肥後菊池氏当主では唯一、足利将軍からの偏諱を賜り、足利義持の一字により持朝と名乗る。
 永享3年(1431年)、父との対立により、父・兼朝を追放し家督を継ぐ。持朝は時勢を見ることのできない兼朝と異なり、動乱の九州地方で幕府方の立場を示し、大内氏と結んで少弐氏と対立した。また持朝は父・兼朝の後ろ盾を得て反抗をしていた実弟の菊池忠親を自殺に追い込み、一族の統制を強めて、惣領の権威強化に邁進した。肥後国の有力国人である宇土城主・宇土忠豊の後嗣として、子の為光を送り込み、勢力の拡大に腐心。持朝の治世に菊池氏としては初めて筑後守護職に任ぜられる。しかし、文安3年(1446年)に38歳の若さで病死する。跡を嫡男・為朝が継いだ。 

菊池為邦 菊池重朝

 文安3年(1446年)に父の死により16歳で家督を継ぐ。寛正3年(1462年)、室町幕府将軍・足利義政により、大友親繁に筑後半国守護職が与えられると、前の筑後守護職であった菊池氏と大友氏の対立が始まることとなる。寛正6年(1465年)、筑後・肥後の国人衆は親繁に抵抗し、その結果、大友軍の来襲を招くこととなる。菊池為邦は弟の菊池為安を国人衆の救援に筑後に出陣させた。高良山で両軍は激突、菊池・筑後国人衆は敗北を喫し、菊池為安は討死した。この戦いで筑後の有力国人である黒木之実(親実の父),三池親在らも討死している(黒木・三池両氏は後に筑後十五城の一つに数えられる家柄である)。この結果、筑後守護職は大友氏に与えられ、敗戦により弱気になった為邦は、同年に相良為続に対して水俣の領有を許可している(ちなみに為続に「為」の字を与えたのは為邦である)。また一説によれば、為邦の弱体化の隙を突いてか、同じ頃に嫡子ではない次男・武邦に豊福城を奪われたとされている。文正元年(1466年)、家督を長男・重朝に譲り隠居した。
 為邦は朝鮮との貿易を行うなど対外貿易を盛んに行ったが、この為邦の時代より菊池氏の衰退が始まる。 

 菊池氏隆盛期の当主・武重より一字取って重朝を称す。この偏諱は、一族の菊池重安(政隆の父)とその弟・重順、重基父子や宇土重光(為光の子)も賜っている。
 一説によれば、父・為邦は晩年、次男(重朝の実弟)である武邦に豊福城を奪われており、為邦の子である重朝が武邦から奪還したとされている。このように父の代から菊池氏の衰退が始まる中、文正元年(1466年)に家督を継いで当主となる。翌年から始まる応仁の乱では東軍に与したが、それは表面上のことであり、実際は筑後国などへの勢力拡大を目論み、応仁の乱の勢力争いとは別に自領の拡大を図るが、結局は失敗に終わる。その後は寺社勢力の統制に力を注ぐ一方で、桂庵玄樹を招聘して学問の普及などに努めた。連歌の才にも優れ、肥後の豪族を招いては連歌会を開催した。明応2(1493年)10月29日、45歳で死去し、跡を嫡男・武運が継いだ。墓地は玉祥寺。 

菊池能運 菊池武経(阿蘇惟長)

 明応2年(1493年)、父・重朝の死去により12歳の武運(後に能運と改名)が家督を継ぐ。若年の武運を侮り相良氏と結託した隈部氏や、大叔父である宇土為光が反乱を起したが、武運は各地の国人の支援を得て、奮闘しこれを征圧した。しかし、家中の動揺と離反は続き、宇土為光に内通を図る者まで現れた。身の危険を感じた武運は隈府城を離れ、玉名郡に入った。明応8年(1499年)3月にも相良為続を八代城に攻め、為続を撃破し、八代を奪回している。
 文亀元年(1501年)、大叔父・宇土為光が再度反旗を翻し、武運留守中の隈府城を攻撃し陥落させた。武運は肥後・筑後の兵をもって隈府城に迫り、同年5月、玉祥寺原において宇土勢と激突した。菊池方は奮戦するが戦況は不利で、菊池重安(父・重朝の従弟、為光の甥)や黒木為実(親実の祖父)らの将が討死、数百人が戦死する大敗北を喫してしまう。何とか玉名まで逃れた武運は、有馬氏を頼った。有馬氏に庇護されている頃に、名が「不運」に繋がるという理由で菊池氏の通字「武」の字を捨て、「能運」に改名したと言われている。
 文亀3年(1503年)、有馬氏らの支援と、元は為光方であった相良長毎の協力を取り付けた能運は、兵を率いて玉名に上陸。この報に接した為光も、兵を率いて高瀬に向かい能連と対決した。激戦の末、菊池能運は勝利を収め、元凶である為光を討つべく宇土城に逃れた為光を追撃。宇土為光は籠城戦の後、逃亡し筑後で捕らえられ、殺害されたとも自害したともいわれる(高瀬の戦い)。
 能運は隈部城に凱旋し、為光派の残党を討伐するなどしたが、高瀬の戦いでの傷が悪化。永正元年(1504年)2月15日に23歳の若さで死去した。前の合戦で戦死した菊池重安の遺児である政隆が養子となり跡を継いだ。
 熊本県の菊池神社には能運の肖像画とされる「絹本著色伝菊池能運像(国の重要文化財)」が所蔵されている。
 能運は宇土為光の謀叛で肥後を追われた際に、家族を弟・重房に預け、日向国米良谷に逃亡した。能運の子は米良で成長したが後難を恐れ、菊池姓を隠し、米良重次(米良重為)と称し、米良に土着した。その後、米良の領主として伊東氏や相良氏と結び、島津氏と争うなど、勇猛かつ政略にも長けた地方豪族として勢力を拡大し、江戸時代以後も子孫は代々大名並の扱いを受け幕末に至った。明治維新後、菊池武臣の代に男爵を授けられ華族に列している。大名としては滅亡した名門菊池氏ではあるが、その流れを現代に伝えている。 

初名は阿蘇惟長といい、阿蘇氏の大宮司を継いでいたが、野心逞しい惟長は菊池氏の衰退に付け込み肥後守護職への野心を露わにしていった。惟長は肥後国への勢力拡大を図る豊後国の大友義長と結託し、菊池氏の重臣達に圧力を掛けた。城氏・赤星氏・隈部氏らの菊池氏重臣は、永正2年(1505年)に菊池氏当主で肥後守護職の菊池政隆を排除して阿蘇惟長を新たな守護として迎える起請文を提出した。永正4年(1507年)、阿蘇惟長は大友義長の支援を得ると隈府城へ侵攻し、菊池政隆を隈府城から追放した。
 こうして、惟長は隈府城に入り「菊池武経」と名乗り、肥後守護職の簒奪に成功した。この時、阿蘇大宮司職を弟の阿蘇惟豊に譲っている。肥後守護職となった惟長であるが、名目だけの肥後守護職であり、所詮は大友氏の傀儡であることを思い知らされた武経は、次第に自暴自棄となり、驕慢な振る舞いが目立つようになった。家臣も武経を疎んじ、両者の関係は悪化の一途を辿った。
 永正8年(1511年)、我慢の限界に達した武経は隈府城から出奔し、矢部へと戻った。しかし、大宮司職は弟の惟豊に譲っており、武経は居候扱いであった。それでも野心逞しい武経は島津氏と結託し、大宮司職の奪還を計画。永正10年(1513年)、島津氏の支援を受けた武経は惟豊側を攻撃し、惟豊は日向国に逃亡せざるを得なくなった。武経は嫡男の阿蘇惟前を大宮司職に据えると、「阿蘇惟長」の名に復して実権を掌握した。永正14年(1517年)、甲斐親宣らの支援を得た阿蘇惟豊は逆襲に転じ、敗北を喫した惟長・惟前父子は薩摩国へと逃亡することとなる。天文6年(1537年)、堅志田城で、58歳の野心に満ちた生涯を終えた。

菊池政隆 阿蘇惟前
 永正元年(1504年)、先代の当主・菊池能運が嗣子無くして死去した。能運の遺言により、はとこにあたる政朝(政隆)が養子となり、菊池氏の後継者となった。ところが、永正2年(1505年)、かねてから政隆に反抗的であった肥後の国人衆が阿蘇氏や大友氏と共謀し、阿蘇惟長(後の菊池武経)を擁立して政隆を廃立しようとした。永正4年(1507年)、政隆は懸命に戦うも居城を追われ、島原に逃亡した。そして、永正6年(1509年)、大友氏の攻撃を受けて捕らえられ、自害させられた。当主となり、わずか3年のことであった。   永正4年(1507年)、一旦は父・阿蘇惟長とともに隈府城へ侵攻し、肥後守護職の簒奪に成功するが、永正8年(1511年)には父とともに隈府城から出奔し矢部へと戻った。永正10年(1513年)、叔父の阿蘇惟豊との争いに勝利した父の後見を得て阿蘇神社大宮司となるが、永正14年(1517年)に惟豊の反撃を受けて八代に逃れる。大永3年(1523年)に益城・堅志田城を落とし、甲佐・砥用・中山を支配下におさめる。天文12年(1543年)、堅志田城を惟豊に落とされふたたび八代に逃れた。永禄3年(1560年)に阿蘇領小国に侵攻するが撃退された。 
菊池武包 菊池義武

 先代の菊池武経(阿蘇惟長)は配下の国人衆や菊池家中の重臣と対立し、永正10年(1513年)に阿蘇へ戻って弟・阿蘇惟豊に譲っていた阿蘇大宮司職を奪還する。空白になりかけた菊池氏当主の後継者として、大友義長の子である菊法師丸(後の大友重治)が迎えられることが重臣らによって決定され、その成長までの間、詫摩氏の出身である武包が菊池氏の家督を継ぐこととなった。菊法師丸の元服後である永正17年(1520年)に家督を譲っている。
 武包の多くの事跡は不詳であるが、天草の志岐氏に対し、益城・宇土・詫磨郡の地に計百町歩を給した書状が残っている。天文元年(1532年)に討死したとも、大野城で病没したとも言われている。 

 肥後菊池氏の最後(第26代)の当主。大友氏の出身で、大友重治ともいう。菊池氏一門の木野親則を曽祖父に持ち、菊池氏の血を引く人物でもある。永正2年(1505年)、豊後国の戦国大名・大友義長の次男として生まれた。
 この頃、隣国では菊池氏が家督を巡って内紛を続けていた。父・義長は表面上は当主・菊池政隆を支持したが、裏で菊池氏の家督を狙う阿蘇氏出身の菊池武経を支援、やがて公然と筑後国・肥後国に侵攻して政隆を滅ぼした。すると今度は武経を追い落として自身の子・菊法師丸(後の義武)を菊池氏当主への擁立を画策。この家中の権力闘争に嫌気が差した武経は永正7年(1511年)に阿蘇領矢部へ逃亡した。これにより義長は、菊法師丸を菊池氏の後継者にするように菊池氏の重臣や傘下の国人に公然と働きかけ、菊法師丸に代わって所領の安堵を約束し始めたが、永正15年(1518年)に父・義長は病死してしまう。
 大友氏の家督を相続した義長の嫡男で菊法師丸の兄・大友義鑑もまた、肥後国に勢力を拡大するために多大な影響力を持つ菊池氏の乗っ取りを目論み、武経の跡を詫摩氏出身の菊池武包に継がせ、弟・重治の成長後に菊池氏の家督を継がせる密約を結んだ。永正17年(1520年)に重治は菊池武包から家督を譲られて菊池氏当主となった。重治は享禄4年(1531年)3月9日に従四位下左兵衛佐に任じられ、義武と名を改めた。この間、義武は兄・義鑑の方針に従って城氏・赤星氏・隈部氏といった菊池氏庶流の重臣を老中(家老)から外して大友氏から連れてきた重臣と鹿子木氏や田島氏などの非菊池氏系の国人から老中を選んでいる。
 だが、義武は天文3年(1534年)に大内義隆や相良氏と同盟を結んで兄・義鑑に反抗し独立する。義鑑はかつて大友氏から義武の老中に派遣されていた山下長就をはじめ、吉岡長増や田北親員らを派遣して筑後国から肥後国に向けて進軍させた。だが、室町幕府の仲裁によって大友義鑑と大内義隆が和平を結ぶことになると、支援を失った義武の敗北は決定的になった。義武は肥前国の高来に亡命し、結局姻戚の相良氏を頼って落ち延びた。天文9年(1540年)に相良氏や宇土氏ら肥後南部衆の支援を得て木辺で大友方の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北した。一方、大友義鑑は肥後の直接統治を決意し、天文12年(1543年)には幕府に働きかけて肥後守護職を獲得した。
 しかし、天文19年(1550年)に義鑑が二階崩れの変で横死すると、義武は鹿子木氏や田島氏の支援を得て再び隈本城を奪還、更にこの変事をきっかけに豊後国内は内乱に陥ると予測して相良氏・名和氏・三池氏・溝口氏ら肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後全土の制圧を目指した。しかし、甥の大友義鎮(後の宗麟)は直ちに国内の混乱を鎮圧すると、義武を一族から義絶する旨を表明して大軍を派遣し、隈本城は落城して義武は島原に落ち延びた。義鎮は義武討伐に協力した阿蘇氏との関係を強化し、これまで排除の対象であった城氏・赤星氏・隈部氏を取り立てることで肥後支配の安定を確立させることになる。
 義武は天文23年(1554年)に剃髪して日向国か薩摩国に亡命しようとするも果たせなかった。同年11月、義鎮の和平を口実にした帰国の誘いに乗り豊後へ向かうが、その途上直入郡木原で義鎮の家臣・立花道雪とその配下の由布惟信,安東家忠,安東連忠,小野信幸の軍勢に包囲され、自害を余儀無くされた。享年50。義武の死により、肥後の名門菊池氏は名実共に滅亡した。
 義武は兄に似ず凡庸な人物であったとされる。政治・軍事は家臣に任せきりで、権勢に驕り横暴な振る舞いが多かったとされる。重臣で自身の曽祖父にあたる木野親則はしばしば諫言をしたが、義武は聞き入れず逆に親則を殺してしまった。 

菊池高鑑 菊池則直
 天文7年(1538年)、八代白木社にて元服、肥後菊池氏祖・則隆と父・重治よりそれぞれ1字を取り則治と名乗る。後に伯父・大友義鑑の偏諱を賜って、高鑑と称した。父・義武に従い行動し、主家筋の大友氏から独立した行動を取ったため、従兄弟である大友義鎮の討伐軍に敗れ、相良氏の下へ落ち延びた。天文23年(1554年)、大友義鎮の甘言によって帰国する途上、父の義武とともに誘殺された。   父・義武と兄・高鑑が大友義鎮に追討を受けて殺害された際、則直は幼少のためか母と辰若(義武の娘)とともに姻戚関係である相良晴広に預けられていたため、難を逃れた。その後、子孫は相良人吉藩の重臣を勤めたとされる。