| F622:菊池能隆 | 藤原道隆 ― 菊池則隆 ― 菊池経頼 ― 菊池能隆 ― 菊池武時 | F623:菊池武時 |


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| 菊池武時 | 菊池武重 |
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父の隆盛が武房より先に死去した後、菊池氏の家督は兄の時隆が武房の養嗣子となって継いだが、叔父の菊池武本がこれに不満を持って対立し、結果として時隆と武本が共に滅んだため、その後を継いで当主となった。この頃の九州は、元寇の後に鎮西探題が設置され、北条氏による支配が強化されており、御家人達の不満は募っていた。 |
元弘3/正慶2年(1333年)、父の武時と共に挙兵し、鎌倉幕府の鎮西探題・北条英時を攻めたが、逆に英時や少弐貞経,大友貞宗らの反撃を受けて父は討死し、武重は命からがら本国に逃げ帰った。後醍醐天皇による建武の新政が始まると、亡父の功績を賞されて肥後一国を与えられた。 |
| 菊池武士 | 菊池武澄 |
| 延元3/暦応元年(1338年)に当主であった兄・武重の死後、嫡出の子であったためか、兄達を差し置いて当主となった。しかし、武士は父や兄と較べると柔弱で、当主としての才覚に乏しく、兄の武茂や武敏らの補佐を得て、かろうじて菊池氏の勢力を支えているという有様であった。興国4/康永2年(1343年)には大友氏の侵攻を受け、その後も各地の諸勢力から攻撃を受けたため、武士の統治に不満を抱いた十兄の武光によって当主の地位を廃され、追放の憂き目にあうこととなる。その後、30歳の時に出家して仏門に入り、応永8年(1401年)3月25日に死去、約80歳の長寿を全うした。八代市教育委員会によると没年齢は91歳とされている。 | 建武の新政のとき、父の戦功により後醍醐天皇より肥前守に任じられた。正平3/貞和4年(1348年)、兄弟の武光と共に後醍醐天皇の皇子・懐良親王を肥前に迎え、以後は親王を擁して武光や阿蘇惟澄と共に九州各地の北朝勢力と戦い、これを破った。正平6/観応2年(1351年)には筑後溝口城、正平8/文和2年(1353年)には一色氏、正平10/文和4年(1355年)には大友氏泰と一色範氏相手と南朝勢力拡大のための戦いに明け暮れた。しかし、翌年6月初旬に病に倒れ、平癒を祈って寺院を建立しようとしたが、その甲斐なく6月29日に死去した。死後、武澄の妻によって紫陽山廣福寺が完成した。 |
| 菊池武光 | 菊池武吉 |
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肥後国益城郡豊田庄出身。柔弱な弟の武士の代理として、興国6/貞和元年(1345年)に阿蘇惟澄と共に菊池氏の居城である深川城を北朝勢力から奪還する。これを契機に一族中で頭角を現し、後に隈府城に入って当主の武士を廃し、武光自らが当主となった。 |
延元元/建武3年(1336年)5月、兄の武重と共に新田義貞の軍勢に加わり、東上してきた足利尊氏の軍勢を兵庫にて迎撃するも敗北(湊川の戦い)。そして、楠木正成・正季兄弟も同じく敗れて自殺しようとしているのを見て、逃れようと思えば逃れることができたにもかかわらず、楠木兄弟と共に自害して果てた。 |
| 菊池武政 | 菊池武朝 |
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父と共に九州における北朝勢力と戦い、筑後川の戦いにも従軍、建徳2/応安4年(1371年)7月に九州探題・今川了俊の嫡男・貞臣と田原氏能が籠城した高崎山城を攻撃、翌文中元/応安5年(1372年)2月に肥前に上陸した了俊の弟・仲秋を攻めたが敗れ、大宰府を捨てて父と共に高良山に逃れた。文中2/応安6年(1373年)11月に病死した父の後を受けて家督を継いだが、阿蘇惟武に援軍を要請する必要に迫られるほど菊池氏の勢力は逼迫するようになったといわれている。 |
文中3/応安7年(1374年)に父が死去したため、跡を継いで当主となった。当時12歳の幼年であったため、一族の菊池武義や武安らの補佐を受ける。しかし、祖父・武光時代からの宿敵である九州探題・今川了俊の攻勢は止まることを知らず、武朝は高良山からも撤退を余儀なくされ、拠点の肥後菊池城に逃亡した。翌永和元/天授元年(1375年)に水島の変で混乱していた今川勢を打ち破り攻勢に転じるも、2年後の永和3/天授3年(1377年)には大内義弘と大友親世の協力を得た了俊の前に再び大敗。南朝方の損害は甚大で、武朝の補佐役だった武義・武安や同盟者であった阿蘇惟武らが軒並み戦死した(肥前蜷打の戦い)。 |
| 菊池兼朝 | 菊池持朝 |
| 応永14年(1407年)、父の死により家督を継いで当主となる。父と同じく南北朝の合一後も室町幕府に対して反抗的な態度をとり続け、永享3年(1431年)には少弐満貞と連合して大内盛見を討ち取った。しかしその後、幕府への姿勢への意見対立と、次男の忠親への偏愛により、長男の持朝と争って家督を奪われ、蘆北郡佐敷に追放されてしまった。そして失意のうちに文安元年(1444年)3月8日に死去した。 |
肥後菊池氏当主では唯一、足利将軍からの偏諱を賜り、足利義持の一字により持朝と名乗る。 |
| 菊池為邦 | 菊池重朝 |
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文安3年(1446年)に父の死により16歳で家督を継ぐ。寛正3年(1462年)、室町幕府将軍・足利義政により、大友親繁に筑後半国守護職が与えられると、前の筑後守護職であった菊池氏と大友氏の対立が始まることとなる。寛正6年(1465年)、筑後・肥後の国人衆は親繁に抵抗し、その結果、大友軍の来襲を招くこととなる。菊池為邦は弟の菊池為安を国人衆の救援に筑後に出陣させた。高良山で両軍は激突、菊池・筑後国人衆は敗北を喫し、菊池為安は討死した。この戦いで筑後の有力国人である黒木之実(親実の父),三池親在らも討死している(黒木・三池両氏は後に筑後十五城の一つに数えられる家柄である)。この結果、筑後守護職は大友氏に与えられ、敗戦により弱気になった為邦は、同年に相良為続に対して水俣の領有を許可している(ちなみに為続に「為」の字を与えたのは為邦である)。また一説によれば、為邦の弱体化の隙を突いてか、同じ頃に嫡子ではない次男・武邦に豊福城を奪われたとされている。文正元年(1466年)、家督を長男・重朝に譲り隠居した。 |
菊池氏隆盛期の当主・武重より一字取って重朝を称す。この偏諱は、一族の菊池重安(政隆の父)とその弟・重順、重基父子や宇土重光(為光の子)も賜っている。 |
| 菊池能運 | 菊池武経(阿蘇惟長) |
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明応2年(1493年)、父・重朝の死去により12歳の武運(後に能運と改名)が家督を継ぐ。若年の武運を侮り相良氏と結託した隈部氏や、大叔父である宇土為光が反乱を起したが、武運は各地の国人の支援を得て、奮闘しこれを征圧した。しかし、家中の動揺と離反は続き、宇土為光に内通を図る者まで現れた。身の危険を感じた武運は隈府城を離れ、玉名郡に入った。明応8年(1499年)3月にも相良為続を八代城に攻め、為続を撃破し、八代を奪回している。 |
初名は阿蘇惟長といい、阿蘇氏の大宮司を継いでいたが、野心逞しい惟長は菊池氏の衰退に付け込み肥後守護職への野心を露わにしていった。惟長は肥後国への勢力拡大を図る豊後国の大友義長と結託し、菊池氏の重臣達に圧力を掛けた。城氏・赤星氏・隈部氏らの菊池氏重臣は、永正2年(1505年)に菊池氏当主で肥後守護職の菊池政隆を排除して阿蘇惟長を新たな守護として迎える起請文を提出した。永正4年(1507年)、阿蘇惟長は大友義長の支援を得ると隈府城へ侵攻し、菊池政隆を隈府城から追放した。 |
| 菊池政隆 | 阿蘇惟前 |
| 永正元年(1504年)、先代の当主・菊池能運が嗣子無くして死去した。能運の遺言により、はとこにあたる政朝(政隆)が養子となり、菊池氏の後継者となった。ところが、永正2年(1505年)、かねてから政隆に反抗的であった肥後の国人衆が阿蘇氏や大友氏と共謀し、阿蘇惟長(後の菊池武経)を擁立して政隆を廃立しようとした。永正4年(1507年)、政隆は懸命に戦うも居城を追われ、島原に逃亡した。そして、永正6年(1509年)、大友氏の攻撃を受けて捕らえられ、自害させられた。当主となり、わずか3年のことであった。 | 永正4年(1507年)、一旦は父・阿蘇惟長とともに隈府城へ侵攻し、肥後守護職の簒奪に成功するが、永正8年(1511年)には父とともに隈府城から出奔し矢部へと戻った。永正10年(1513年)、叔父の阿蘇惟豊との争いに勝利した父の後見を得て阿蘇神社大宮司となるが、永正14年(1517年)に惟豊の反撃を受けて八代に逃れる。大永3年(1523年)に益城・堅志田城を落とし、甲佐・砥用・中山を支配下におさめる。天文12年(1543年)、堅志田城を惟豊に落とされふたたび八代に逃れた。永禄3年(1560年)に阿蘇領小国に侵攻するが撃退された。 |
| 菊池武包 | 菊池義武 |
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先代の菊池武経(阿蘇惟長)は配下の国人衆や菊池家中の重臣と対立し、永正10年(1513年)に阿蘇へ戻って弟・阿蘇惟豊に譲っていた阿蘇大宮司職を奪還する。空白になりかけた菊池氏当主の後継者として、大友義長の子である菊法師丸(後の大友重治)が迎えられることが重臣らによって決定され、その成長までの間、詫摩氏の出身である武包が菊池氏の家督を継ぐこととなった。菊法師丸の元服後である永正17年(1520年)に家督を譲っている。 |
肥後菊池氏の最後(第26代)の当主。大友氏の出身で、大友重治ともいう。菊池氏一門の木野親則を曽祖父に持ち、菊池氏の血を引く人物でもある。永正2年(1505年)、豊後国の戦国大名・大友義長の次男として生まれた。 |
| 菊池高鑑 | 菊池則直 |
| 天文7年(1538年)、八代白木社にて元服、肥後菊池氏祖・則隆と父・重治よりそれぞれ1字を取り則治と名乗る。後に伯父・大友義鑑の偏諱を賜って、高鑑と称した。父・義武に従い行動し、主家筋の大友氏から独立した行動を取ったため、従兄弟である大友義鎮の討伐軍に敗れ、相良氏の下へ落ち延びた。天文23年(1554年)、大友義鎮の甘言によって帰国する途上、父の義武とともに誘殺された。 | 父・義武と兄・高鑑が大友義鎮に追討を受けて殺害された際、則直は幼少のためか母と辰若(義武の娘)とともに姻戚関係である相良晴広に預けられていたため、難を逃れた。その後、子孫は相良人吉藩の重臣を勤めたとされる。 |