| F623:菊池武時 | 藤原道隆 ― 菊池則隆 ― 菊池経頼 ― 菊池能隆 ― 菊池武時 ― 米良重房/重次 | F624:米良重房/重次 | ● |

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| 米良重次 | 米良重治 |
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宇土為光の乱によって、菊池能運の幼子を守って肥後から米良山中に逃れた重房は、すでに米良に住していた叔父・武照を頼り、さらに西郷・赤星ら菊池一族とともに銀鏡の地に落ち着いた。菊池氏の幼君の入山に対して、鈴木・銀鏡・奥松ら米良の豪族らは山民を引き連れて出迎えた。米良に拠点をおいた幼主は成長ののち菊池姓を隠し、天姓米良と改め、米良石見守重次と称した。これが米良氏の始まりである。 |
重治は米良城を本城として、北の大友氏,南の伊東・島津氏,西の相良氏らに備えた。弘治元年(1555年)、相良晴広が没し義陽が家督を継いだ。義陽は12歳の少年であったため、老臣東氏・丸目氏らが補佐した。ところが、永禄2年(1559年)に至って東氏と丸目氏が対立し、ついには合戦沙汰となった。東氏は義陽を擁したため、劣勢となった丸目氏は那須氏に応援を求めた。那須氏は米良氏に支援を求め、重治はこれを承諾した。 |
| 米良重鑑 | 米良重隆 |
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嫡男の重鑑が家督を継承したが、家臣の策謀により、弟たちとの間に不穏な空気が流れるようになった。すなわち、叛臣らが重鑑の弟・重良と重秀をそそのかし、米良を三分するように重鑑へ要求させた。重鑑は狭い領地を三分するのは衰退のもとだとして、弟たちの要求を退けたが、弟たちは力にかけてもと迫る有様であった。 |
大友宗麟からの支援依頼を受けた秀吉は九州征伐の軍を起こし、天正15年(1587年)、羽柴秀長を総大将とする大軍を九州に送った。このとき、米良重良の弟・重秀が千騎を率いて秀長軍に加わって活躍した。 |
| 菊池則忠 | 菊池武夫 |
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肥後国球磨郡米良小川に生まれる。嘉永元年(1848年)12月父が没し、翌年3月20歳の時に家督を継ぎ17代米良領主となった。米良宗家の代々の号である主膳を称す。菊池氏の末裔の意識を持っており、家臣の甲斐大膳・大蔵父子らと尊王攘夷派として活動した。 |
陸軍士官学校・陸軍大学校を経て日露戦争に従軍。歩兵第11旅団長・奉天特務機関長を務めた後、陸軍中将で予備役に編入となった。 |