<藤原氏>北家 道隆流

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西郷信貞 西郷正員

 三河守護職となった仁木義長に従って九州より三河国へ移った西郷氏は仁木氏失脚後も三河に留まり、やがて松平氏と争うようになる。明大寺城主であった西郷稠頼,頼嗣父子は1455(康正元)年頃に松平信光の侵攻に備えて菅生川と矢作川の合流地点にある竜頭山に砦(龍燈山城)を築いた(岡崎城の前身)。
 文明年間(1469~87年)、西郷頼嗣は松平信光に敗れ、信光の5男・光重を養子に迎えて家督を継がせた。しかし、光重の子・親貞は跡継ぎがないまま没したため、西郷頼嗣の実子である松平昌安が家督を継ぎ、西郷信貞と名乗った。1524(大永4)年、信貞は松平清康と争ったが敗れ岡崎城を清康に引き渡して明大寺城へと退いた。

 1509(永正6)年、嵩山西郷氏を背負って立つことになる弾正左衛門正員が誕生する。通常は正員をもって東三河(嵩山)西郷氏の初代としている。
 西郷氏は今川氏に属し、1523(大永3)年、西郷信員(正員の父の可能性大)が嵩山の一族右京進を逐って嵩山の地を押領して月ヶ谷城を築いたとされ、西郷氏一族は正員のもとに統一されたものと思われる。
 1529(享禄2)年には東三河に兵を進めた松平清康に属するが、1535(天文4)年には再び今川氏に属した。1552(天文21)年、正員が没し、次の当主として正勝の名が登場する。 

西郷正勝 西郷義勝

 三河国の支配力を強める今川氏に従っていたが、主家からの期待は少なくなかったと考えられる。娘を遠江国の戸塚忠春に嫁がせているのは、今川氏の下命があったものと考えられる。一方で嫡子・孫六郎には、今川義元の一字・元を許されている。
 永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川氏が大敗すると松平元康(徳川家康)の調略に応じ、設楽貞通,菅沼定盈らの他の東三河国人衆とともに松平氏に転属し、今川氏を見限った。だが、今川氏の勘気は、吉田城に捕らわれていた人質・甥の孫四郎正好らに向けられる。そして、東三河諸豪族が差し出していた人質たち13人は、城下の龍拈寺で串刺し刑に処せられた。
 永禄4年(1561年)、月ヶ谷城を嫡男・元正に譲り、五本松城を築城して三河西郷氏の本城とする。
 永禄5年(1562年)、三河国の東端を領有していたため、今川方の宇津山城主・朝比奈泰長の奇襲を受け、防戦するものの多勢に無勢で、長男・孫六郎元正は討死。自身も居館の五本松城館に火を放って自害した。 

 永禄5年(1562年)、祖父と父の戦死により西郷家は家運衰退の危機に陥った。主君である徳川家康は、義勝の叔父である西郷清員に西郷の家督を継がせようとしたが、これを清員は頑なに拒み、兄の子である幼い義勝への相続を懇請。家康が折れて、義勝が家督相続することとなった。義勝は、清員の後見を得ながら成長し、西郷氏は家康への忠節を尽くした。
 元亀2年(1571年)、武田氏配下の秋山虎繁(信友)が三河へ侵攻すると、縁戚である菅沼定盈の要請を受け、設楽郡竹広において合戦に及んだ(竹広合戦)。懸命の迎撃戦により、武田軍を一時的に退けることに成功したが、義勝はこの戦いで命を落とした。
 義勝には男子が2人いたと伝わる。叔父・清員は今度もその男子への相続を働きかけたが、家康は今度は認めず、清員の子である家員を西郷氏の跡目と指定している。男子が幼弱であることが理由であるなら、義勝には歳の近い正友という弟がいて、こちらへの家督相続も考えられただろうが、家康はそれですら認めなかった。正友はのちに井伊直政に付けられている。
 また、義勝は正室に先立たれた後、寡婦となっていた従姉妹(戸塚忠春娘)であるお愛を継室に迎え、この継室との間にも一男一女をもうけていた。この継室はのちに家康の側室に望まれた。一旦清員の養女となる形で家康の元へ入ったこの継室は後に徳川幕府の第2代将軍となる徳川秀忠や松平忠吉の生母となる西郷局である。
 遺児である繁勝(先妻の子か)、将軍の異父兄でもある勝忠(西郷局の子)は、成人後には徳川御三家である紀州家(徳川頼宣)に仕えることとなった。

西郷正友 西郷於愛(西郷局)

 元亀2年(1571年)春、武田氏配下・秋山虎繁(信友)による三河侵攻に対抗。懸命の迎撃戦により武田軍を一時的に退けることに成功したものの総領の兄・義勝は、この戦いで命を落とした。
 徳川家康からは西郷氏の後継に、従兄弟・家員(清員の子)が指名されている。兄の遺児が幼弱であることが理由なら、家員よりも西郷嫡流に生まれた正友への家督相続も考えられただろうが、家康はそれですら認めなかった。
 天正15年(1587年)には、井伊直政に付けられたという。最盛時で2000石を食んでいたともいわれる。その後、隠居時には300石だったという。
 現在、彦根東高校の付近に残る西郷屋敷跡とは、彦根藩で重きを成していた子の重員に宛がわれた屋敷だと思われる。 

 徳川家康の側室として知られ、最愛の側室だったとも言われている。院号は竜泉院,宝台院。母は今川氏の命であろうか、遠江国の戸塚忠春に嫁している。
 成長して最初の夫に嫁したものの、先立たれて寡婦となっていた。同じく正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれたという。義勝との間に一男一女をもうけている。一説には義勝が最初の夫であるとも言われる。
 元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山虎繁の南進を阻むため、縁戚・野田菅沼氏に協力した竹広合戦で、義勝が落命する。またしても未亡人となったが、彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督が継げなかった。
 やがて、母の弟・西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠,松平忠吉の生母となった。しかし、天正17年(1589年)に38歳の若さで死去した。死後の寛永5年(1628年)になって、正一位が贈られた。
 西郷局は美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていた。また強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護していた。そのため西郷局が死去すると、大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女のために後生を祈ったという。なお、不確定ではあるが西郷局の死因は、罪が不確定のまま殺害された家康の正室・築山殿に仕えていた侍女の殺害、毒殺という説もある。