清和源氏

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土岐頼忠 土岐頼益

 土岐惣領家の美濃,伊勢守護の土岐康行が将軍・足利義満の挑発に乗って挙兵すると、頼忠は幕府軍に味方して次男の頼益とともに甥にあたる康行の討伐に向かった。明徳元年(1390年)に康行は敗れて没落(土岐康行の乱)。
 義満は土岐氏の断絶をも考えたが、雲渓支山の執り成しで思い止まり頼忠を美濃守護職に任じた。義満は頼忠に雲渓支山へ御礼として在所を寄進するよう命じ、頼忠は美濃国玉村保を寄進したという。以後、頼忠の土岐西池田家が土岐氏の主流となった。
 西池田家が惣領にとって代わったことには土岐庶流諸氏から反発が多く、このため頼忠は関ヶ原周辺に勢力を持つ国人の富島氏を守護代として重用している。守護に就任した時点で既に高齢だったようで応永2年(1395年)頃に守護職を頼益に譲り、2年後に死去した。

 康応元年(1389年)の土岐康行の乱後、美濃守護に頼忠が任じられ、以後、土岐西池田家が主流となる。
 応永2年(1495年)頃に頼益は父の後を継いで美濃守護となった。頼益は文武に優れた人物で、各地を転戦して戦功をあげた。応永6年(1399年)の応永の乱では頼益は幕府軍に加わって和泉国堺へ出陣していたが、土岐詮直(康行の従兄弟で乱後没落していた)が大内義弘に呼応して挙兵し、美濃へ乱入した。頼益は直ちに兵を返して詮直を打ち破っている。
 頼益は義満,義持から信任され、応永8年(1401年)に評定衆に列し、応永10年(1403年)の着座で諸将の筆頭として破格の扱いを受け、幕府七頭の一家となり、侍所所司,宿老を歴任して幕閣の要人として重んじられた。
 一方、本国美濃では古くから土着している土岐氏庶流の多くは西池田家が主流となったことに反抗的で頼益は統治に苦労し、このため外様の国人の富島氏を守護代に重用するようになった。頼益のときに目代の斎藤氏が被官となり守護代となっている。斎藤氏は後に土岐氏を凌ぐ存在となる。

土岐持益 土岐成頼

 父・頼益の死により9歳で惣領を継ぐ。正長元年(1428年)に伊勢で南朝の北畠満雅が蜂起すると持益は伊勢に出兵して鎮圧にあたっている。
 土岐康行の乱で土岐氏の主流だった康行の系統が没落し、祖父・頼忠の土岐西池田家が美濃守護となり主流となった。美濃に地盤を置いた土岐氏庶流の多くが康行に付いていたため、土岐西池田家は外様の国人の富島氏や斎藤氏を守護代として重用するようになった。
 文安元年(1444年)富島氏,長江氏(富島氏の支流)と斎藤氏が守護代の座を巡って争いを起こし、美濃錯乱と呼ばれる内乱状態となった。合戦は斎藤利永が勝利して富島氏,長江氏を駆逐したが、この内乱において守護の持益は指導力を発揮することができなかった。その結果、守護代となった斎藤宗円が美濃の実権を掌握することになる。
 康正元年(1455年)嫡男の持兼が早世すると、持益は持兼の庶子の亀寿丸を継嗣とすることを望んだが、幼君では不安があると斎藤利永が反対して一色義遠の子の成頼(土岐氏一族の饗庭氏の出という説もある)を擁立して争いになった。康正2年(1456年)持益は斎藤利永に敗れて隠居させられ、成頼が土岐氏の惣領を継ぐ。この時代は守護代が守護の力を凌ぐ事例が多いが、土岐氏もまた守護代や有力国人の傀儡と化してゆくことになる。

 美濃守護・土岐持益の嫡男・持兼が早世したため、持益は孫の亀寿丸を後継ぎにしようとしたが、守護代の斎藤利永がこれに反対して一色氏の成頼を擁立して抗争となり、康正2年(1467年)に持益は隠居させられ成頼が守護となり、実権は守護代の斎藤氏が掌握していた。
 応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると成頼は西軍に属した。成頼は8000余騎を率いて京都に在陣して戦い、美濃本国は守護代の斎藤妙椿(近年では甥の斎藤利藤が守護代で妙椿はその後見人と考えられている)が守った。仇敵の有力国人の富島氏,長江氏が東軍に加わって斎藤方を攻撃して美濃は内乱状態になる。妙椿は富島氏,長江氏を破った。更に東軍が幕府と朝廷を擁している以上、敵の拠点になる恐れがあるとして幕府奉公衆の所領をはじめ、公家や寺社の荘園と国衙領を押領し国内を固めた。妙椿の勢力は尾張,伊勢,近江,飛騨まで広がり、成頼を意のままに動かし、更には西軍を左右するまでの存在になる。
 文明9年(1477年)、応仁の乱の講和がなると成頼は西軍の名目上の総帥だった足利義視,義材の父子を庇護して美濃へ帰国した。義視父子は11年間、革手城に滞在している。
 文明12年(1480年)に妙椿が死去すると2人の甥、斎藤利国(妙純)と異母兄の守護代・斎藤利藤が後継を巡って争った(美濃文明の乱)。妙純が勝利して斎藤氏の力はさらに強まった。
 長享元年(1487年)に長享・延徳の乱が発生して9代将軍・足利義尚による六角高頼親征が始まると、次の標的は足利義視父子を擁している自分であると考えた成頼は突如挙兵して美濃山中に立て籠もって幕府軍を迎え撃つ準備を始めた。結果的に義尚の病死によって六角攻撃そのものに失敗し、美濃侵攻は起こらなかった。
 明応3年(1494年)、成頼は4男の元頼を溺愛し、嫡男の政房を廃嫡して元頼に家督を継がせようと小守護代・石丸利光に元頼を擁立させ、政房を推す妙純と戦うが、妙純を説き伏せ、西尾直教を追放する形で一時的に和解させる(船田合戦)。翌明応4年(1495年)6月、成頼は再び妙純と戦うが敗れる。同年7月、斎藤方と戦い敗走し、政房に家督を譲り、隠居して宗安と名乗った。元頼と石丸利光はなおも抵抗したが、明応5年(1496年)に妙純に敗れて自殺した。
 実際には斎藤妙椿によって国政を牛耳られていたとはいえ、その在世中は船田合戦を引き起こした晩年期を除けば、美濃の内外における土岐氏の名声が非常に高まった時期でもあった。このため、多くの文化人が戦乱を避けて美濃に逃れてきた。しかし、斎藤妙純・利親父子は船田合戦終結後に近江に遠征して戦死、土岐氏は国人の傀儡に過ぎなくなり、斎藤氏も衰退、美濃は混乱に見舞われることになるのである。

土岐政房 土岐頼武

 舞の名手で、応仁の乱を逃れて美濃の革手城に滞在していた一条兼良は日記で美伊法師(政房の幼名)の舞いを褒めている。
 土岐氏の嫡男となっていたが、父の成頼は弟・元頼を溺愛して政房の廃嫡を図った。成頼の支持を受けて、守護代・斎藤利藤,小守護代・石丸利光らが元頼を擁立し、斎藤妙純(利藤の異母弟)が政房を擁立したため、明応3年(1494年)に内乱が起きた(船田合戦)。
 明応4年(1495年)7月に政房は妙純とともに元頼方を破り、同年9月に成頼は隠居して政房が家督と守護職を継ぐ。元頼方は再挙を図るが、明応5年(1496年)5月30日(7月10日)、妙純は坂田寺城を囲み、元頼と利光は自害し、勝利した。
 美濃では守護代の斎藤氏の力が土岐氏を凌ぐようになっており、船田合戦を通じてさらに強まったが、明応5年(1496年)12月、妙純は近江へ出兵して六角氏と戦うが大敗を喫し、子の利親とともに戦死してしまう。その後は小守護代の長井長弘の力が強まった。
 政房は嫡男・頼武を差し置いて、次男・頼芸を後継にしようと図り、長弘と斎藤彦四郎(利親の弟)がこれを支持した。頼武には守護代・斎藤利良(利親の子)が味方して内乱となる。永正14年(1517年)に頼武・利良方が勝利したことにより、政房は隠居を余儀なくされ、頼武に家督と守護職を譲る。

 土岐政房は家督を次男である頼芸に継がせようと考え、小守護代・長井長弘が頼芸側に加わった。一方、守護代である斎藤利良は頼武を推したため、美濃国内は頼武派と頼芸派に分かれ、永正14年(1517年)12月27日、遂に両派の合戦となった。この合戦は頼武派が勝利したが、頼芸派は尾張に亡命していた前守護代斎藤彦四郎と連絡を取り、逆襲の機会を狙った。
 永正15年(1518年)8月10日、再び両派の間で合戦が起こり、頼芸派が勝利、頼武は利良と共に利良の伯母の嫁ぎ先である越前朝倉氏のもとへ亡命した。この越前亡命中に朝倉貞景の娘と結婚したとされる。頼芸派は室町幕府に要請し、頼武の上洛を促す御内書を出してもらうことに成功したが、朝倉孝景(宗淳)はこれを無視した。
 頼武の越前在国中も美濃は内乱状態にあり、永正16年(1519年)3月には垂井辺りで激戦が展開されている。同年6月16日に土岐政房が没すると、孝景は弟の景高に美濃出陣を命じる。7月、景高に率いられた3000の朝倉勢に護られて頼武は美濃に入国、9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦に連戦連勝して、遂に美濃守護になることに成功した。長井長弘は没落、彦四郎は失脚した(戦死とも)。
 その後、頼武政権は一応の安定を見ていたが、大永5年(1525年)6月に至り、頼芸を奉じた長井長弘が再挙兵する。6月23日、岐阜茜部で合戦があり、守護代・斎藤利茂ほか頼武政権の主だった人々は守護所福光館を脱出、館は長井勢に占領された。更に8月2日、長井氏支援のため、近江から浅井亮政の軍勢が美濃に侵攻、関ヶ原今須付近で土岐軍と合戦となった。頼武は武芸谷の汾陽寺にあって、救援を朝倉氏に求めた。朝倉氏はこれに応じ、朝倉宗滴が小谷城に出張り六角氏とも協力して浅井勢を牽制、更に朝倉景職の率いる軍勢が10月14日に稲葉山まで出兵した。内乱は大永7年(1527年)末には一段落するが、その後も政情不安は続き、享禄3年(1530年)、頼武は再び越前に逃れ、頼芸は翌年「濃州太守」と呼ばれるまでになる(実際にはまだ守護に就いていない)。
 朝倉軍の援助で美濃入国を果たすと、頼武は山県郡大桑城に本拠を置き再び頼芸と対決する。天文4年(1535年)、頼武は出家、恵胤と号した。6月、頼芸が父・政房の17回忌を行って自らの正当性を主張したため、両者の対立は深まった。8月、修理大夫に任官、更に権威付けのため奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷に申請、許可されている。8月17日、朝倉氏や六角氏の援兵とともに頼武軍は攻勢を開始、11月までの間、多芸郡・池田郡から岐阜・関に及ぶ広範囲で合戦が繰り広げられ、多くの神社仏閣が焼亡した。
 天文5年(1536年)6月20日、頼武(恵胤)は朝廷に対し蘭奢待切り取りの答礼をしている。しかし、これを最後に史料から姿を消している。

土岐頼純 土岐頼芸

 土岐頼武の嫡男で母は朝倉貞景の3女。妻は斎藤道三の娘。父・頼武の没後も大桑城に拠って叔父である守護・土岐頼芸及び斎藤道三と対峙する。しかし、味方であった近江の六角定頼が天文5年(1536年)に頼芸方に転じ、更に守護代・斎藤利茂も定頼の仲介で頼芸方になるなど次第に劣勢に立たされる。
 天文8年(1539年)正月、頼芸との間で和議が成る。しかし、これは一時的なもので、裏では斎藤道三による調略が進められていた。天文12年(1543年)7月以降、祐向城,別府城などの大桑城の支城は相次いで陥落、遂に大桑城も落ち、頼純は母の実家である朝倉氏を頼って越前へ亡命した。
 天文13年(1544年)8月、頼純は朝倉孝景(宗淳)と尾張の織田信秀の支援を得て、美濃再入国を企てる。しかし、斎藤道三は6月にはこの情報をつかんでいたらしい。朝倉軍は朝倉宗滴が総大将となり、徳山谷を南下、9月19日に赤坂で斎藤軍と合戦、これに勝利し六角氏との連絡路を遮断した。一方、織田軍は道三の籠もる稲葉山城を正面攻撃、9月22日に総攻撃を仕掛けたが、城下での斎藤勢の防戦もあり、夕刻になって攻撃を中止し、撤収にかかったところを攻撃され大敗した。この敗戦によって頼純は朝倉軍とともに再び越前に引き揚げた。
 天文15年(1546年)秋、再び頼純と頼芸・道三との間で和議が成った。朝倉孝景,織田信秀の室町幕府への働きかけに加え、頼芸の同盟者である六角定頼の仲介もあったらしい。9月、頼純は菩提山城を経て大桑城へ入城した。和議の条件として、頼芸の隠退と頼純の美濃守護職就任があったという。また、道三の娘との婚姻も実現した。
 しかし、守護となって一年余り後、天文16年(1547年)11月17日、頼純は急死した。享年24。おそらく道三の手にかかって殺害されたものと考えられる。ただし、『土岐家譜』では、享年49となっており、法名も南泉寺殿玉岑珪公大禅となっているが、これは父・頼武のことだと思われる(頼武の別名が頼純とも言われている)。

 側室は深芳野(のちに斎藤道三の側室)。土岐氏当主で兄の土岐頼武及び子の土岐頼純の嫡流と対立、美濃とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、天文5年(1536年)、勅許により、美濃守に遷任して正式に守護の座に就いた。
 同じ頃、頼芸は六角定頼の娘を娶り、六角氏と和睦したことによって争乱はほとんど治まり、天文8年(1539年)には頼純との間に和議が成立した。天文10年(1541年)、重臣の斎藤道三が頼芸の弟・頼満を毒殺する事件が起こったため、これ以降、道三との仲が険悪となり、次第に対立する。
 天文11年(1542年)、頼純の籠もる大桑城が落城し鷺山城へ移る。またこの年、頼芸は子の頼次ともども道三により、尾張へ追放された(この時点で追放されたのは子の頼次であり、頼芸は道三の傀儡として守護の座に留まっていた説もある)。
 尾張の織田信秀の支援を得て、越前の朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携し守護の座に復帰するが、まもなく天文15年(1546年)、道三と孝景が和睦し、その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡した。さらに天文17年(1548年)、信秀と道三が和睦したことによって後盾を失い、天文21年(1552年)頃、再び道三に追放され、妹の嫁ぎ先である近江の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸に寄寓し、このとき治頼に系図や家宝を譲り渡したという。次いで上総の土岐為頼を頼り、のち甲斐の武田氏に身を寄せる。この間に病によって失明する。最後は旧臣であった稲葉一鉄のはからいで美濃に戻り、死去したといわれている。墓は岐阜県揖斐川町の法雲寺にある。
 文化人としても知られ、幾つもの書画を書き残している。特に鷹の絵を得意とし、彼の描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されている。また同じく鷹の絵を得意とした一族の画家の土岐冨景,土岐洞文と同一人物とする説がある。
 道三の子で、のちに美濃国稲葉山城主となる斎藤義龍の生母・深芳野は頼芸の愛妾で、享禄元年(1528年)に頼芸から道三に拝領されている。翌享禄2年(1529年)に義龍が生まれている出生時期や、道三と義龍が義絶していることから、義龍を頼芸・実子とする説もあるが、江戸時代の創作であるともいわれている。
 名前の呼称は従来、諸説あり明確ではなかったが、頼忠の菩提寺である禅蔵寺の過去帳に芸(ノリ)のルビがふられていることが2008年に明らかとなっている。

土岐頼次 斉藤頼元

 兄・土岐頼栄が父によって廃嫡されたため、土岐氏の後継者に選ばれた。父とともに斎藤道三によって美濃を追われた後は大和の松永久秀を頼った。その後、豊臣秀吉に馬廻として仕え、1587年に河内古市郡内に500石を与えられた。さらに、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦では東軍に属し、本領を安堵されて旗本になった。慶長19年(1614年)11月10日伏見において死去、70歳。
 長男・頼勝の子孫は、高家旗本として、3男・頼泰の子孫は旗本として幕府に仕えた。

 父・頼芸が追放されたとき、幼少だったために斎藤氏の扶助を受けることを許された。斎藤氏滅亡後は各地を転々とし、武田氏,豊臣氏そして徳川氏に仕えて、土岐氏の家名を存続した。豊臣秀吉から河内古市郡内に500石を与えられた。関ヶ原の合戦後は徳川家康に仕えて、美濃国内に知行を与えられたという。隠居後は道庵と称した。『寛政重修諸家譜』によれば、慶長13年(1608年)10月19日死去、年齢不詳とする。土岐家は息子・持益が相続した。なお、頼元は斉藤姓を称し、持益が土岐姓に戻したという。
土岐元頼 小里光忠

 父の成頼は、庶子である元頼を溺愛し、政房の廃嫡を考えるようになり、成頼によって元頼は守護代の斎藤利藤,小守護代の石丸利光らに擁立され、兄の政房も斎藤妙純の支持を受けたことにより両者は対立、明応3年(1494年)に家督争いが起こった(船田合戦)。
 明応4年(1495年)6月、利光らと共に政房方と戦うが、敗れたため利光と共に近江へと逃れた。同年9月、父は隠居を余儀なくされ、家督と守護職を政房に譲る。しかし、その後も元頼は抵抗を続け、明応5年(1496年)5月に美濃に下国、隠居していた父の居城・城田寺城に籠城して再起を図るが、妙純の軍勢に包囲され、5月30日、利光は成頼らの助命を条件に切腹した。しかし、父は城田寺城から出たが元頼は許されず、止むなく自刃して果てた。
 小里氏の祖である土岐頼連は元頼の子とされる。また、明智光秀は元頼と武儀郡の豪族の中洞源左衛門の娘との子であり、大永6年(1527年)8月15日に生まれたという伝承が、山県郡美山の白山神社に伝わっている。

 天文3年(1534年)、光忠は小里城を築城した。また、明知城の明知遠山氏と結び、遠山景行の娘を嫡子・光次の嫁に迎えた。
 天文24年(1555年)に甲斐国の武田信玄の圧力に遠山諸氏が屈すると、小里光忠も武田氏に与同したとみられる。しかし、元亀元年(1570年)には光忠は稲葉山城を攻略した織田信長に通じており、武田信玄は「小里については隣邦からの助勢により、すでに逆心露顕のように見える。やむを得ず、残念に思うが、とりあえず許すというのを承った。その上で時期を待って成敗してほしい」と遠山景任(岩村遠山氏)と遠山直廉(苗木遠山氏)に書状を送っている。しかし、同年11月、武田信玄の西上作戦が本格化し、武田重臣の秋山虎繁の軍勢が遠山氏の領地である東美濃を通って、徳川氏の領地三河国へ攻め込もうとした同年12月27日に上村合戦が勃発した。小里光忠は、同じく織田方であった遠山景行(明知遠山氏)、遠山友勝(苗木遠山氏)、遠山友信(飯羽間遠山氏)、奥三河の奥平定能,菅沼氏,織田信広,河尻秀隆らと共に合戦に及んだがこれに敗れ、嫡子・光次、遠山景行,遠山友勝等と共に討死した(上村合戦)。家督は次子の小里光明が継いだ。

和田光明 西郷頼音

 元亀元年(1572年)12月、兄の小里光次は織田信長に従って武田家の秋山虎繁と戦い、舅の明知城主・遠山景行らともども上村合戦で討死したため、光明が家督を継ぐ。
 天正2年(1574年)に美濃国内の武田氏の岩村城を攻める拠点として小里城を改修し、池田恒興が城の御番手となった。なお翌年岩村城が落城するとこの工事は中止された。
 本能寺の変ののち、美濃国主となった織田信孝に仕えた。信孝は羽柴秀吉と不和となり、多くの東美濃の国人達が降るなか、羽柴方の金山城主・森長可と対峙し、翌年に信孝が自害するまで仕えたが、森長可により小里城を落とされ、同地を離れ義兄弟の三河国足助の鈴木信義を頼り、和田姓を名乗って徳川家康に仕え三河国小原に住す。
 天文12年、長久手の戦いで嫡男・光直が負傷しのちにこれがもとで没している。
 天正19年(1591年)に旗本・和田光明として相模国東郡岡田郷に領地を宛がわれている。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの時、光明の子・光親は小里城に入り、遠山利景・方景父子らとともに明知城を攻めてこれを陥落させ、岩村城を開城させた。この功によって光親は同年土岐郡の一部と恵那郡の大川村と水上村の旧領3,580石を再び与えられた。

 南北朝時代、細川清氏と対立し南朝方に帰服したこともあった仁木義長がその後三河国の守護になったため、土岐頼忠の子・頼音が三河守護代に任じられた。これが三河西郷氏の始まりとされている。なお、西郷氏については菊池氏の後裔とする説もある。