<藤原氏>北家 道綱流

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藤原季行

 白河院政期末の天治2年(1125年)、従五位下に叙爵。大治5年(1130年)阿波守に任ぜられると、能登国・因幡国・武蔵国などの地方官や右兵衛権佐を務める。久安元年(1145年)従四位下、久安3年(1147年)従四位上、久安5年(1149年)正四位下と鳥羽院政期中期に順調に昇進し、その後も久安6年(1150年)土佐守、久寿2年(1155年)讃岐守と引き続き地方官を務めた。この間の保元元年(1156年)、季行は讃岐守の官職にあったが、保元の乱によって讃岐国への流罪となった崇徳上皇の護送を担当している。
 保元2年(1157年)讃岐守を去り、6ヶ国約30年近くに亘った地方官を離れる。後白河院政初頭の保元4年(1159年)正月に従三位に叙せられて、道綱流としては曾祖父の藤原兼経以来116年ぶりに公卿に列す。同年2月には室が乳母を務めていた姝子内親王が二条天皇の中宮に冊立されると、その中宮亮に任ぜられた。応保2年(1162年)8月2日出家、8月23日薨去。享年49。
 娘・兼子が九条兼実の室となり、良通・良経を生み、摂関家とも良好な関係を築いた。歌舞音曲に通じ、父・敦兼と同様に篳篥をよくしたことが伝えられている。また和歌にも秀で、『千載和歌集』に1首が入集している。
 嫡男・定能の樋口家(二条家)が嫡流であり、季行の息男・重季の系統を楊梅家と称し、非参議公卿の家格である。藤原敦家以来、篳篥に秀でた家系として知られるが、いずれの系統も室町時代に断絶している。