<藤原氏>北家 道綱流

F635:藤原道綱  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道綱 ― 目賀田信忠 F639:目賀田信忠

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目賀田信忠 目賀田信職

 目賀田氏は、中世の近江に生きた武家で、近江守護・佐々木六角氏の重臣のひとりとして勢力を誇った。その出自に関しては、一条天皇の御宇(986~1011年)、中将・藤原道忠が京から近江に移り目賀田山を拓いて住した。そして、道信,信忠と続き、信忠がはじめて目賀田を称したことに始まるという。
 一方、湖東地方を流れる宇曽川流域にある藤原氏の庄園である八木郷の庄官として赴任した藤原某の後裔とする説もある。庄官藤原氏は在地支配者として代々勢力をたくわえ次第に武士化、鎌倉時代の中頃に目賀田山を拓いて館を構え目賀田氏を称したと伝えられる。 いずれにしろ、目賀田氏の正確な系図は伝わっていないため、その発祥に関しては不詳ということになる。 

 目賀田氏が史上にあらわれるのは鎌倉時代末期から南北朝時代はじめにかけてのことで、比牟礼八幡の神主に補された目賀田五郎兵衛信職・同五郎兵衛信音父子、二郎左衛門信良らの名が散見する。いずれも鎌倉幕府の御家人であり、目賀田氏が一廉の武士であったことが知られる。五郎兵衛信職(入道玄向)は元弘3年(1333年)、足利尊氏の六波羅攻めに従軍して戦功があった。 
目賀田貞政 目賀田堅政

 貞政は重臣のひとりとして六角氏に忠節を尽くしていた。ところが、永禄6年、義賢の嫡男義弼(義治)が重臣のひとりである後藤父子を謀殺するという愚挙をなした。この事件に反発した重臣たちは観音寺城内の邸を焼き、それぞれ所領に引き揚げていった。とくに、後藤氏の親戚であった貞政は、浅井氏に通じて六角氏に反旗を翻した。事態を恐れた義賢(承禎)・義弼父子は観音寺城を捨て、三雲・蒲生氏を頼り落ちのびた。観音寺騒動と称されるこの事件は、戦国大名六角氏の勢力を大きく後退させる結果となった。
 目賀田貞政は浅井氏に属したが、浅井氏は越前朝倉氏と結び信長と対立して天正元年(1573年)に滅亡、貞政は嫡男の堅綱とともに信長の麾下となり旧領を安堵された。畿内を平定した信長は近江に築城を計画、白羽の矢を立てられたのが目賀田氏が拠る目賀田山であった。天正4年(1576年)、貞政は目賀田山明け渡しの命を受け、所領のひとつである光明寺野に移住すると新たに目賀田城を築き、春日神社を勧進した。これが現在残る目賀田城址で、光明寺野も目加田と呼ばれるようになった。ときに、目賀田氏の所領は二万石であったという。一方、目賀田山に築かれた信長の新城が安土城である。 

 貞政の嫡男・堅綱は六角氏との戦いに戦死しており、嫡孫の堅政が目賀田城主を継いだ。天正10年(1582年)、徳川家康が安土城を訪問したとき、堅政は信長の命によって家康一行を番場宿で饗応し、家康の入京から堺見物にも随従した。そのとき本能寺の変が起こり、家康は伊賀越で近江に出て三河に逃げ帰った。家康は堅政に三河行きを進めたが、堅政は近江に留まる道を選び、明智光秀に従って山崎の合戦に出陣、敗残の身となった。その結果、所領は没収されて一族は離散、堅政は剃髪すると備中に流浪して生涯を閉じたという。
 堅政の子・守成は水野忠重の孫娘を室としていた関係から、備後福山藩の水野氏の庇護を受け、その子・守政は紀州徳川家に仕えた。紀州吉宗が八代将軍に迎えられたとき、守政の子・守咸は吉宗に随行して江戸に移り、目賀田長門守を称して側近に仕えた。かくして、目賀田氏は徳川将軍家の旗本となり、子孫・家名を継いで明治維新に至った。