<藤原氏>北家 道兼流

F644:宇都宮宗円  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 横田頼業 F656:横田頼業

リンク F657
横田頼業 落合業親

 宇都宮頼綱の次男として誕生。母は稲毛重成の娘であり上条時綱は同母兄にあたる。1219年(建保7年)、鎌倉幕府の新将軍・藤原頼経が京都から鎌倉に入る際に、その行列の先陣に加わる。1221年(承久3年)の承久の変の際には、京都で勇猛果敢に戦った。特に、弓矢の腕前は相当なものだった。和歌にも通じた文武両道の名将であった。
 寛喜元年(1229年)9月になると兄であり当主・宇都宮泰綱の活動が活発化し、それに伴い頼業や兄弟である時綱,多功宗朝,従兄弟にあたる塩谷親朝,笠間時朝兄弟らと共に幕府に出仕し活躍した。
 1237年(嘉禎3年)、頼業は横田郷兵庫塚に居宅を作り、分家して横田氏を名乗る。仁治元年(1240年)には伊予国の守護職に就いていた。宝治元年6月5日(1247年7月8日)に起きた宝治合戦では、同母兄・時綱と対立し、三浦氏に加担しなかったので粛清から逃れた。時綱は三浦一族と共に鎌倉法華堂で自害し、その子・時村も宇都宮小田橋で殺害された。
 1249年(宝治3年)、宇都宮の南の守りとして、上三川に城を築き、兵庫塚から移って城主となった。その後も宇都宮家の一員として、鎌倉幕府内で活躍するが、1263年(弘長3年)、体調を崩して幕府に帰国願いを提出し、許されて上三川城で余生を過ごし、1277年(建治3年)、死去。享年83。

 父・宇都宮成綱による宇都宮家中の支配体制再編のため、断絶していた宇都宮氏の庶流で、下野国河内郡落合郷を所領し、落合親綱を祖とする落合氏の養子となり入嗣する。これによって落合氏を再興させたとともに、再び宇都宮氏に取り込むことに成功している。
 父・宇都宮成綱同様、文武両道の名将だったといわれている。


横田綱久 今泉元朝

 横田綱邑の6男。兄に横田五兄弟がいる。天文18年(1549年)、喜連川五月女坂の戦いで兄・綱維らが宇都宮尚綱に従い那須高資と戦って兄弟5人が討死したため、横田家の家督を相続した。
 永禄10年(1567年)、那須大崖山の戦いで大山田綱胤,大金重宣,松野篤通,武茂守綱,烏子泰宗,南路義郷,戸村義広,小場義忠,石川昭光らと共に佐竹義重の家臣・長倉義当に従い那須資胤と戦うが、奇襲を受け敗退した。

 下野宇都宮氏の家臣・今泉氏の祖。1390年代に横田師綱(泰朝)の4男として誕生。
 天授6年(1380年)、宇都宮基綱と小山義政が宇都宮茂原で激突した際、宇都宮基綱は討死、一門である多功氏,横田氏,蒲生氏等もかなりの被害を出した茂原合戦で、父も重傷を負っており、横田氏族は勢威を落としていた。
 元朝は応永17年(1410年)頃に元服し、兄・横田綱業が横田氏当主になると上三川継俊,刑部良業らと共に横田氏族の勢威回復に尽力した。宇都宮城の北東にある河内郡今泉郷に入り今泉氏を名乗った。

上三川盛朝 上三川盛高

 応永17年(1410年)頃、今泉元朝の嫡男として誕生したという。永享8年(1436年)に横田氏7代当主・横田綱業が没したが、次期当主・横田綱俊は白河氏朝の下に逃れた幼少の宇都宮等綱に随行したため、盛朝の外祖父・上三川継俊が一時上三川城主となり、横田氏族を統率した。
 その後、盛朝は上三川継俊から上三川氏の家督、但馬守の官途、上三川城主を引き継いだ。今泉氏は今泉高光の代まで公の場では上三川城主として上三川氏を名乗っていくことになる。本来の城主だった本流の横田氏は今泉氏を補佐する役目になる。
 永享10年(1438年)、死去。 

 盛高は1460年代に今泉盛泰の嫡子として誕生した。文明9年(1477年)、父・今泉盛泰が川曲の戦いで討死したため、幼くして今泉氏4代目当主となった。また、主君である下野宇都宮氏の方も16代当主・宇都宮正綱が川曲の戦いで陣没しており、まだ幼い宇都宮成綱が下野宇都宮氏17代当主になった。主君の成綱は歴代の宇都宮氏当主の中でも稀代の切れ者(敏腕家)であったといい、芳賀高益や芳賀景高の補佐により幼い頃からその実力を遺憾なく発揮していた。
 下野宇都宮氏は成綱の代になってからは攻勢に出ており、小山持政によって奪われていた宇都宮旧領を中心に攻め取っていき、小山氏の衰退も相まって強大な勢力へと返り咲いた。永正元年(1504年)、盛高は今泉氏の菩提寺である長泉寺を建立した。
 永正年間に永正の乱が勃発。下野宇都宮氏もそれに伴い永正の内訌が引き起こされ、宇都宮成綱と筆頭重臣の芳賀高勝が対立。高勝により成綱の嫡子・宇都宮忠綱を18代当主に擁立させられ強制的に隠居させられると成綱はすぐに反撃へ出た。塩谷氏に弟・塩谷孝綱を継がせ再興し、忠綱の後見人にさせ高勝の動きを封じ、永正9年(1512年)には宇都宮城内で高勝を殺害し、高勝に従っていた者すべての城館を攻撃した(宇都宮錯乱)。芳賀氏の抵抗も激しく、錯乱の鎮圧に2年はかかっている。鹿沼城主の壬生綱重が活躍しており、壬生氏が頭角を現すきっかけとなった。忠綱が当主になった後も実質的な統治は成綱が行っていた。
 永正11年(1514年)、盛高は宇都宮成綱・忠綱父子の命により小山氏に対する備えとして落合河内守とともに小山城に近い小薬城に配備され、後に3代目古河公方・足利高基(宇都宮成綱の娘婿)に感謝された。
 永正13年(1516年)、下野宇都宮氏の巨星・宇都宮成綱が病没すると、当主・宇都宮忠綱の強硬な支配強化に家臣団は反発。大永の内訌の内訌が勃発した。忠綱に不満を持っていた芳賀高経,芳賀高孝,塩谷孝綱,笠間資綱らは結城政朝と結び、忠綱に敵対していた。大永3年(1523年)8月、結城政朝は宇都宮猿山に兵を進めた。盛高は宇都宮忠綱に従い、猿山で戦ったがその際に討死した。忠綱は宇都宮城を叔父の宇都宮興綱らに占拠され、追放された。忠綱は鹿沼城の壬生綱房のもとへ逃れ再起を狙うが、宇都宮城への帰還を果たぬまま大永7年(1527年)に没した。

上三川高光 秋元景朝
 下野宇都宮氏の家臣。下野国上三川城主。宇都宮国綱の側近で、国綱に継嗣が無かったため、豊臣氏の五奉行であった浅野長政から養子を貰おうとしたが、これに不満を持った国綱の弟・芳賀高武の軍勢に攻められ自害に追い込まれた。この事件は、宇都宮氏改易の遠因になったという。 

 宇都宮頼綱の子・泰業が13世紀前半に上総国秋元荘を領してのちに秋元姓を名乗った。天文10年(1541年)、景朝の時に故あって秋元の地を去り、深谷上杉家の上杉憲賢の家臣となって上野台と瀧瀬の2村を拝領した。北条家に対する戦いでは重臣として戦うが、主家が北条家に降るとそれに従う。
 熊野大神社を造営したと伝わるが、現在のものは江戸時代後期に改修されたものある。子の秋元長朝は江戸時代に譜代大名となった。岡谷加賀守,井草左衛­門,上原出羽守と共に深谷上杉氏四天王と呼ばれた。 

秋元長朝

 はじめ庁鼻上杉氏に仕えた。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐のとき、主君の氏憲が小田原城に籠もったため、長朝もこれに従って北条方に与して深谷城を守備した。長朝は攻め寄せる豊臣軍を相手に奮戦し、よく城を持ちこたえたが、本城小田原城の開城に伴い、敵将の前田利家と浅野長政の猛攻を察知して、杉田因幡と謀って開城し深谷を兵火から守った。その後しばらくは隠棲していたが、文禄元年(1592年)に井伊直政の推挙を受けて徳川家康の家臣となり、直政配下として上野国惣社に所領を与えられた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、戦前に上杉景勝詰問の使者として会津に赴いた。戦後も家康の命で再び会津に赴いて景勝に降伏を勧め、これを受け入れさせた。この功績により、1万石の所領を与えられて大名となった。慶長9年(1604年)、利根川から引水するという治水工事に大きな成功を収め、所領の収穫を倍増させた。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも従軍して功を挙げた。元和8年(1622年)、嫡男の泰朝に家督を譲って隠居し、寛永5年(1628年)に死去した。享年83。