<藤原氏>北家 道兼流

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宇都宮宗円 八田宗綱

 下野国を地盤に活動した宇都宮氏の初代当主と目される。『尊卑分脈』や宇都宮系図等の各種系図上では、藤原氏北家の関白・藤原道兼の流れを汲み、道兼の孫である兼房の次男とされる。
 前九年の役の際に河内源氏の源頼義・義家父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ、康平6年(1063年)に下野国守護職および下野国一宮別当職,宇都宮座主となるが、もともと石山寺(現在の大谷寺との説もある)の座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている。
 宗円は毛野氏の支配下にあったと推測される下野国一宮において、その神職者より上座に座したことが伝えられており、このことから毛野氏の流れを汲む人物(毛野氏への藤原氏の落胤)と推察されているほか、室が益子正隆の娘であったことや、次代の宗綱が八田姓とされる点などから、その勢力は下野国のみならず常陸国西部付近(現在の茨城県下館市付近)にも達しており、芳賀氏,益子氏,八田氏をその勢力下に置いていたと推定されている。
 天永2年(1111年)10月18日に没する。一説に宇都宮城を築城し、城内に天台宗宝錫寺を建立したといわれる。 

 八田権守を称した。宇都宮宗綱,中原宗綱とも呼ばれる。父である宗円と同様、詳細な血縁関係は不明な部分も多い。一説に、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県下館市八田)を政治基盤としていたといわれる。これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・宗円が益子の豪族である益子正隆の娘を室としていることや、宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹の娘を室としていること、小田氏始祖となる次男の知家も八田を号されていること、嫡男の朝綱の母が八田局と号されていることなどが背景にある。この場合、宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡の芳賀氏を傘下に加えながら毛野川沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。
 応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。娘の寒河尼は源頼朝の乳母を務め、小山政光の後妻となって結城氏の祖となる朝光を生んでいる。

宇都宮朝綱 寒河尼

 大番役で上洛し鳥羽院武者所,後白河院北面を務め、左衛門尉に任官される。この間、京女の醍醐局を室とし、その間に嫡男・業綱が生まれる。治承4年(1180年)8月、京に滞在中に源頼朝が伊豆国で挙兵、関東を本拠地とする朝綱は平清盛に抑留される身となる。常陸国で反頼朝の烽火を上げた志田義広に対し、頼朝は小山朝政に討伐を下知、これに呼応した弟の八田知家や宇都宮信房が討伐軍に参軍して功を挙げた。
 元暦元年(1184年)5月24日、朝綱は平家の家人・平貞能のとりなしで帰国を許されて頼朝に従い、本領安堵のうえ伊賀国壬生野郷の地頭に任じられた。同年11月14日、平氏追討の功で佐々木盛綱等とともに西国に所領を賜る。
 元暦2年(1185年)7月7日、平家一門の都落ち後に行方不明になっていた平貞能が頼朝への助命を求めて、突如、朝綱の元を訪れたため、朝綱が頼朝を説得して貞能の身柄を預かることとなる。文治元年(1185年)10月24日、勝長寿院の落慶供養に参列する。『吾妻鏡』の記述には、五位六位の参列者32人のうちの一人として朝綱の名がある。
 文治5年(1189年)7月の奥州合戦で朝綱は嫡子・業綱、宇都宮一門(八田知家ら)ならびに紀清両党とともに参陣して功績を挙げ、頼朝から「坂東一の弓取り」と賞賛された。この奥州攻めの往路で、頼朝軍は宇都宮に立ち寄り宇都宮社に戦勝を祈願した。これにより戦勝を収めた帰路、再び宇都宮に立ち寄り、戦勝の礼として宇都宮社職には荘園と囚人の樋爪季衡を捧じたことが『吾妻鏡』に見える。建久元年(1190年)11月には頼朝の上洛にも従った。
 建久3年(1192年)に嫡男・業綱が夭逝すると、朝綱は出家して益子の上大羽に尾羽寺を建立した。建久4年(1193年)4月2日、頼朝が那須野に狩りに出た際、小山朝政,八田知家とともに千人の勢子を献上する。
 建久5年(1194年)5月に下野守・野呂行房から百町の公田を横領したと朝廷に訴えられる。同年6月28日、頼朝より東大寺改修の助成を拝命し、観音の改修を受け持つ。7月28日、中納言・一条能保より飛脚があり、朝綱の罪が確定し土佐国国府への配流が申し渡される。これに連座して、孫の頼綱および朝業もそれぞれ豊後国および周防国に配流となる。また、廷尉の源基重および右衛門忠,豊島朝経も洛中から追放となった。2年後の建久7年(1196年)に罪を許されて土佐国から益子上大羽に戻るまで、幕府には従兄弟の所信房が出仕した。
 帰国した朝綱は、配流先であった土佐国の賀茂神社を勧請して綱神社を建立、余生をこの地で送り、元久元年(1204年)8月6日、83歳で死去した。 

 下野国の豪族・小山政光の後妻で、結城朝光の母。源頼朝の乳母も務めた。本名は不詳。『吾妻鏡』で「寒河尼」と記されている。寒川郡の他にも地頭として補任された地である阿志土郷(小山市網戸)から網戸尼とも称された。
 八田宗綱の娘で京都で生まれたと思われる。女房として近衛天皇に仕えた経歴をもっていたという。頼朝の乳母の一人となり、やがて小山政光の後妻となったと考えられている。
 治承4年(1180年)8月の頼朝による反平家の挙兵時、大番役で当主・政光が在京中であったため、寒河尼は10月に当時14歳の鍾愛の末子(朝光)を伴って武蔵国隅田宿の頼朝の宿所を訪れた。尼は頼朝と往事を語り、末子を側近として奉公させたいと願い、頼朝は自ら烏帽子親となって元服させ、末子は小山七郎宗朝と名乗った(のちに朝光に改名)。夫の不在中は妻がその権限を取り仕切るのが慣習であり、この尼の行動によって下野国最大の武士団小山氏が頼朝方についたことになり、このことは北坂東の武士団の去就に決定的な影響を与えたものと見られる。寿永2年(1183年)2月、小山氏の参戦により、頼朝方は野木宮合戦で勝利する。
 文治3年(1187年)12月、寒河尼は「女性たりといえども、大功あるによる也」として下野国寒川郡ならびに網戸郷の地頭職に任ぜられ、女地頭となった。両地域は小山に隣接しているものの、これ以前に小山氏が支配していたことを裏付ける証拠がないことと単なる所領安堵では「大功」に相応しくないことから、新恩による所領であったと考えられている。
 安貞2年(1228年)91歳で永眠。墓所は小山市網戸の称念寺。 

宇都宮成綱 宇都宮頼綱

 母は京の女・醍醐局。妻は新院蔵人長盛(平長盛)の娘、あるいは平忠正の娘。
 「業綱」は初名で後に「成綱」とも名乗った。そのため、宇都宮成綱と呼ばれることもある。子の朝業は塩谷氏に養子として入嗣し、宇都宮支族としての塩谷氏の祖となった。なお、子にも同名の「業綱」がいる。
 1189年9月8日(文治5年7月19日)には、奥州合戦に発向する大手軍に父・朝綱とともに参加する。『吾妻鏡』の同年9月14日(文治5年7月25日)の記述によると、この時、既に子の宇都宮頼綱は小山政光の猶子に出されている。その3年後の1192年(建久3年)、父の朝綱に先立って早逝した。
 子の頼綱と朝業は歌人として著名であるが、業綱自身も歌道に優れていた。


 治承2年(1178年)頃に宇都宮成綱と平長盛の娘の間に生まれる。その後、源頼朝の乳母であった寒河尼の元へ預けられ、その夫小山政光の猶子となった。文治5年(1189年)の奥州合戦に紀清両党を従えて従軍し功績を立てる。
 建久5年(1194年)5月、祖父・朝綱が下野国司の野呂行房より公田掠領(百余町)を訴えられ、朝廷によって豊後国国府預かりの身と裁定されてしまう。これは、征夷大将軍でもなかった源頼朝が、名目上では自身のみの采配では配下への扶持等を決裁できなかった時期に、朝廷の決裁を仰がず頼朝が単独で部下の所領配分を行ってしまったために起きた騒動であり、頼朝はこの件をたいへん憂慮したといわれている。鎌倉の勢力と行動を共にしていた頼綱ら関東の武人達は、名目上は朝廷に直接仕える身であったとはいえ、実際には源頼朝勢の意向に従って行動しており、実質、朝廷の命令であってもそれに実効力を与えていたのは源頼朝であったことから、一説によると、頼綱らは頼朝の意向に従い配流地には赴かなかったともいわれている。何れにせよ、頼朝の働きかけにより頼綱は早々に赦免され、同じく赦免された祖父・朝綱は出家して下野国尾羽にて隠居生活を送ることとなり、このとき頼綱が宇都宮家を継いだものと考えられる。
 頼朝の死後、頼綱は正治元年(1199年)6月に夭逝した頼朝の次女・乙姫の葬儀に供奉し、その10月には他の有力御家人とともに梶原景時の変で景時弾劾に参加している。
 元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱が起きる。この際、頼綱は北条氏側に与して功を挙げた。しかし同年閏7月、頼綱の姑にあたる牧の方と北条時政が将軍・源実朝の殺害を謀った牧氏の変が発生し、翌8月には頼綱自身に謀反の嫌疑をかけられる。8月7日、頼綱が一族郎従を率いて鎌倉参上を擬し謀反を企てているとの風聞があり、北条義時,大江広元,安達景盛らが北条政子邸に合し、小山朝政を召し出して評議が行われた。その席で大江広元は頼綱の非道と将軍家に対する不忠について指摘し、小山朝政に頼綱を追討するよう主張したが、朝政は頼綱と義理の兄弟であることを理由にその追討を断ったため、頼綱は鎌倉政庁による追討からは逃れられた。8月11日、頼綱は朝政を介して鎌倉政庁に書状を送り謀反の意が無いことを陳述、その後の8月16日には下野国において出家するに至った。この折、一族郎従60余人も出家したと伝えられている。8月17日、頼綱は宇都宮を発って鎌倉に向かい、8月19日に鎌倉に到着、北条得宗家に面会を求めるが一度は拒絶される。そこで一族の結城朝光を介して献髪し陳謝の意を表して実信房蓮生と号し、京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁したといわれる。頼綱出家の後、頼綱の子等はすべて幼少であったため、弟の宇都宮朝業が宇都宮家を代表して幕府に出仕することとなる。
 頼綱はその後、法然の弟子・証空に師事したが、建保2年(1214年)頃までには鎌倉政庁の許しを得、5月には園城寺改修を拝命、山王社および拝殿の修復に努めている。浄土宗に帰依した頃よりその潤沢な財力をもって京常盤や宇都宮,桐生などに念仏堂(庵)を建て、その由緒は現在もそれぞれ光明寺流「西方寺」,宇都宮「清巌寺」,桐生「西方寺」として受け継がれている。建保4年(1216年)、頼綱が伊賀国壬生庄の地頭を称し春日大社領を押領していると、興福寺の僧・信賢が朝廷を介して鎌倉政庁に訴えて来たが、幕府の訴訟の範疇でないため記録所で示談された。
 承久3年(1221年)6月、 承久の乱が起きたが、頼綱は鎌倉留守居を務め、その功績から戦後、伊予国の守護職を与えられた。建長2年(1250年)3月、京の閑院殿の改築に際し、その造営雑掌の西二封の当番となる。また、同族である藤原定家と親交が厚く、娘をその嫡男である為家に嫁がせている。為家が安貞元年(1227年)信濃国の知行国主になると、東国の事情に明るい頼綱が定家・為家親子の相談役として信濃国統治に関する助言を行っている。
 そして正元元年(1259年)11月12日、京にて88歳で死去した。その遺言により京西山三鈷寺の証空の墓の側に葬られたとされる。現在、この善峯寺のほか、栃木県宇都宮市清巌寺と同芳賀郡益子町地蔵院にも墓碑がある。 

上条時綱 多功宗朝
 宇都宮家の家督は長男の時綱ではなく、北条時政の娘を母とする異母弟の泰綱が継いだ。時綱は三浦義村の娘を室に迎えて三浦氏との関係を深め、美作守となる。妻の兄弟である三浦泰村と執権・北条時頼が対立した宝治合戦では、時綱は三浦陣営として戦い、敗れた後に源頼朝の法華堂において子の時村,泰親と共に自害した。

 宝治2年(1248年)に多功城を築いて居城とし、多功氏を創始する。西上條旗頭職を主宰。『吾妻鏡』にも度々登場し、嘉禎4年(1238年)2月17日に時の将軍・藤原頼経が上洛して六波羅に入った際に、これに従っている。
 延徳2年(1240年)3月12日、番衛の任務を怠り同族の塩谷泰朝とともに幕府から出仕停止の処分を下されるが、この処分はほどなく解かれたと考えられ、翌年の仁治2年(1241年)8月25日の将軍・頼経の北斗堂供養、同年11月4日の安達義景の鶴見別荘下向などに従っている。いつ頃より石見守となったかは不明だが、正嘉2年(1258年)の『吾妻鏡』の記述においては石見守となっているのに対して、弘長元年(1261年)の記述においては石見前司となっているので、この間に石見守を退任したものと考えられている。
 霊光山蓮花院西念寺を建立。正応5年(1292年)正月20日、行年73歳にて没する。

多功建昌 多功長朝

 下野国の大名・宇都宮氏の家臣。多功城城主。
 天文20年(1551年)1月20日に米寿の祝賀を催したという。同年、東舘に新しい城を築き、西舘から移動した。翌天文21年(1552年)、星宮山多功院建昌寺(現・見性寺)を建立。
 また、寿命が現代でも稀な110歳と、相当長生きな人物であったという。 

 宇都宮氏の重臣として多功城に拠り、数多くの合戦に出陣し、宇都宮氏の有力武士団の紀清両党,大須賀党と並び、宇都宮氏の武を支えた。宇都宮家中一の侍大将といわれている。
 天文18年(1549年)、那須高資との喜連川五月女坂の戦いでは宇都宮軍の先陣として奮戦し大功を挙げたが、宇都宮尚綱の討死によって敗北している。
 弘治3年(1557年)、宇都宮氏の忠臣・芳賀高定の活躍によって壬生氏の壬生綱雄から宇都宮城を奪還して間もなく、永禄元年(1558年)に上杉謙信が会津の蘆名盛氏らと連合して上野国から下野国に侵攻してきた。小山氏の祇園城,壬生氏の壬生城を攻略され、多功城を攻撃した際には、これを撃退している。子の多功房朝,家臣の児山兼朝,簗朝光・吉朝父子、石崎通季,野澤保辰,高木道重,上野祐朝,伊澤遠江守,木田淡路守,援軍で駆け付けた祖母井吉胤,矢板長則などが多功氏側の主な将だったという。先陣の佐野豊綱を討ち取るなど数多くの武将を討ち取る活躍を見せている。さらには敗走する上杉軍を追って上野国上州白井まで追いかけて追撃したが、太田資正の仲介によって和睦となった(多功ヶ原の合戦)。 

多功房朝 多功綱継

 宇都宮氏の重臣で、父・多功長朝同様、多くの合戦で活躍し、宇都宮氏の勝利を貢献した猛将である。天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いに父とともに出陣し活躍した。
 房朝は父が没した後は、後北条氏との合戦で活躍し、元亀3年(1572年)1月に多功城で後北条氏の2000の軍勢と戦い、撃退している。さらには同年12月に後北条氏が再び多功城に攻め込んだが、佐竹氏の援軍とともにこれを退けた。後北条氏の下野国侵攻を何度も食い止めた。

 宇都宮氏の重臣で、主に南関東の大半を有する大大名・後北条氏との合戦で活躍し、宇都宮氏の勝利を貢献した猛将。その武勇は宇都宮家中随一といわれた。
 天正12年(1584年)4月、後北条氏が佐野方面へ攻め込んだ際には、宇都宮勢の先陣として出陣し活躍。110日にも及ぶ対陣となったが、勝敗決まらず後北条勢は撤退した(沼尻・岩船山の合戦)。また、家臣の石崎通長は一番首を挙げたので、宇都宮氏と同盟を結んでいる佐竹氏の佐竹義久から感状を拝領した。合戦自体は引き分けだったが、戦後は後北条氏の優勢となった。
 天正13年(1585年)12月、後北条氏が今度は宇都宮城へと侵攻し、民家や寺院などに火を放った。多功城にも北条勢が攻めてきたが、宇都宮勢や綱継は徹底抗戦し、これを退けた。後北条氏は宇都宮城を攻略できずに退くことになった。
 天正17年(1589年)9月に、後北条氏が再び宇都宮城を攻略するために侵攻してきた。綱継は多功城に攻めてきた北条氏邦と戦い、これを撃退している。その翌年の天正18年(1590年)には、後北条氏との和睦の使者として赴いた。
 宇都宮氏は小田原征伐後、西方領を除くすべての本領が安堵された。その陰の功績者は清党の芳賀高武や多功氏の多功綱継であった。文禄の役にも出陣した。 

笠間時朝 笠間綱家

 塩谷朝業の次男として生まれる。宇都宮頼綱の養子となり常陸国笠間に入って笠間氏を名乗り、16歳の頃より約16年の歳月をかけて、嘉禎元年(1235年)、佐白山に笠間城を築いて居城とする。
 天福元年(1233年)頃、鎌倉幕府に出仕し始めると頭角を現し、将軍の公式行事に二十数回も出ており、仁治元年(1240年)には検非違使に任命され、仁治3年(1242年)の後嵯峨天皇即位の大嘗会には、供奉役人として上京奉仕している。さらに、父・朝業が没した宝治2年(1248年)12月17日には、本家である兄の塩谷親朝を上回る従五位上(塩谷氏は従五位下)長門守という官位官職に任じられている。
 時朝は、笠間18代の基礎を作り上げ、文永2年(1265年)2月9日、62歳で没する。
 時朝は、身の丈が当時としては高く178cmもあり、その恵まれた体格から武勇に優れていたが、文化人としても名が高く、宇都宮新和歌集には、頼綱(蓮生)に次ぐ51首もの歌が収録されており、時朝の詩集である『前長門守時朝入京田舎打聞集』の写本が現在、宮内庁書陵部に所蔵されている。
 時朝は、建長5年(1253年)7月と文永元年(1264年)8月10日に京都蓮華王院(三十三間堂)に千手観音(120号像・169号像)を寄進している。1,001体ある三十三間堂の千手観音立像の中で、鎌倉時代のもので寄進者が確実に判明しているのは時朝が寄進したこの2体だけである。
 宝治元年(1247年)4月に石寺弥勒堂弥勒菩薩立像、建長4年(1252年)7月には楞厳寺千手観音立像、翌建長5年(1253年)7月には岩谷寺薬師如来立像が地元笠間のそれぞれの寺に寄進され、現在、それぞれ国の重要文化財に指定されている。建長7年(1255年)11月には、鹿島神宮に唐本一切経を奉納寄進し、日光輪王寺の旧三仏堂の日光三社権現像の内、千手観音像を寄進した。自身は出家得度の道を選ばなかったが、時朝の特に仏教における文化的業績は大きい。 

 宇都宮氏の庶流の一族で、常陸国茨城郡笠間城を領していた。天正8年(1580年)、弟の笠間左近が宍戸氏と結んで謀叛を起こしたため、戦闘があったという記録がある。この内紛は天正16年(1588年)に笠間左近が討たれるまで続いた。
 天正17年(1589年)には益子家宗を倒してその所領を手に入れるが、宇都宮氏や結城氏,佐竹氏と対立するようになり、白河義親,小野崎照通と通交して佐竹義宣の討伐を図っている。
 従来の通説では、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると後北条氏に与したため、戦後、宇都宮国綱によって討たれたとされてきたが、宇都宮国綱が豊臣秀吉に拝謁した際に従った重臣達の中に綱家の名前も含まれているため、笠間氏の後北条氏加担は事実ではない。実際には宇都宮氏の家臣として位置づけられた笠間氏が、過去の宇都宮氏への敵対行為を口実として討たれたと考えられている。後任の城主には国綱側近の玉生高宗が任じられた。また、笠間氏の旧領の処分に関しては豊臣秀吉の重臣である増田長盛も関与しており、国綱が事前に豊臣政権の許可を得て綱家を討ったとみられている。なお、綱家と幹綱は時代や事績に重なる部分が多く、同一人物との説もある。