<藤原氏>北家 道兼流

F658:山鹿家政  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 山鹿家政 ― 麻生資時 F659:麻生資時

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麻生義助 山鹿仲中
 麻生上総介は、筑前国の幕府料所の代官職も与えられている。上総介は麻生氏惣領の義助と思われ、幕府の奉公衆の一員であったと思われる。そして、義助は九州探題・斯波氏経,今川了俊に従って各地を転戦し勲功賞を受けた。義助が一貫して武家方として行動した背景には、奉公衆という立場があったことは疑いない。  

 明徳3年(1392年)に南北朝合一がなり、半世紀にわたる動乱の時代にピリオドが打たれた。応永2年(1395年)、庶子家の山鹿仲中,北麻生家資らが惣領義助の統制に従わないことから、将軍・足利義満によって所領を没収された。
 惣庶の対立は鎌倉時代末期から南北朝期にかけて珍しいことではなかったが、奉公衆麻生氏の場合、惣領職については室町幕府将軍が安堵あるいは解任することになっていた。このことは、将軍は惣領を支援することで武士の統制をはかり、惣領にしても将軍家を後ろ楯として独立傾向を強める庶子家を統制することができた。この関係があって、惣領に服さなかった山鹿らの庶子家は将軍によって所領を没収された。 

麻生家春 麻生家信

 義助のあとは家春が継ぎ、永享6年(1434年)、将軍・義教から所領の安堵を受けた。ついで、弘家が家督を継承したが、この弘家の代に惣領家の所領は最大となった。『麻生弘家知行惣庄郷村浦浜所々目録写』によれば、千二百町余というものであった。弘家のあとは弘国が継ぎ、麻生庄以下の領掌を幕府から承認された。
 麻生氏は義助以後、幕府奉公衆として本領安堵を受け、麻生氏も幕府との関係を維持する努力を続けている。そして、将軍家に対して軍事奉仕を行い、京に上番勤務した。長享元年(1487年)には将軍・足利義尚の江州出陣に従って、近江国坂本に従軍した。 

 父・家春と異母弟である麻生弘家は、周防国山口で大内氏に仕えていた。しかし、家春の死後、家督をめぐって争いが起き、大内政弘は弟の弘家に家督を継ぐよう命じる。だが家信は認めず抵抗し、以後3年間大内氏と戦う。その後、大内氏の調停により、家督を弘家に譲り、遠賀荘吉木の岡城主に任じられた。 
麻生隆守 麻生鎮里

 筑前国遠賀郡岡城主。吉木麻生氏の血を引く麻生家信の嫡男として生まれる。
 天文15年(1546年、天文13年とも)に大友義鎮の命を受けた瓜生貞延に居城の岡城を攻撃される。これに帆柱山城を本拠とする麻生氏も加勢し落城。戦死、もしくは自害した。しかし、隆守に関わる大内家の文書が天文19年にも存在しており、封紙に麻生次郎隆守とあることから、永禄2年(1559年)に滅亡したと「金台寺過去帳」に記載された麻生次郎を隆守とし、隆守が天文15年に滅んだとする後世の説を否定している。 

 豊臣秀吉の九州出兵が陣ぶれされると、麻生鎮里は二子を人質として秀吉軍に送った。ところが、家臣らのすすめにより変節して薩摩に走った。その結果、二子は殺害され、家臣はことごとく浪人となり、麻生氏は滅亡した。一説によれば、鎮里は太宰府の岩屋城で島津軍と戦い、討死したとするものもある。 
麻生弘家 麻生家氏

 家春・家慶が少弐氏との戦いで戦死したのち、弘家が家督を継いだが弘家は中継ぎであったようだ。すなわち、家慶には幼い男子・又光丸がおり、成長したのちに又光丸が麻生氏の家督を継ぐことになっていた。しかし、又光丸は早世したため弘家が惣領となったのである。その後、弘家は大病を患い、幼い実子に代えて甥の弘助を養子として家督を譲った。ところが、弘助は親類・縁者を味方にして弘家に敵対したため、弘家は大内教弘に調停をゆだねた。しかし、弘助はこれに従わなかったため、赤間関において討たれ、麻生氏の家督は弘家の実子・弘国に安堵された。
 やがて、応仁の乱が起こると、大内氏は西軍の中心勢力として京に滞在して活躍した。その間、弘助の弟である家延(家信)が弘家・弘国父子に対立し、ふたたび麻生氏は内訌に揺れた。弘家は自力で家延を制圧することができず、京都から帰った大内政弘を恃んだ。
 政弘は留守の間に少弐氏らに撹乱された豊前・筑前を回復するため九州に出陣、たちまち豊前・筑前を平定した。そして、筑前花尾城に拠る麻生家延を攻撃した。家延は抵抗したものの、ついに起請文を出して大内氏に降った。こうして、麻生氏の内訌は一段落し、以後、麻生氏は幕府との関係を続けながら、大内氏の被官化していく。  

 花尾城の家氏は秀吉の九州平定にあたって、重臣・船津氏忠を小倉に遣わして降伏し、花尾城を退いた。島津氏討伐の先鋒を命じられた家氏は、田川の香春岳城攻めに出陣して秀吉の朱印状を受けた。天正15年(1585年)、島津氏が秀吉に帰服したのちの仕置によって、筑後三井・生葉郡において4,600石を賜り、小早川隆景の与力とされた。朝鮮の役にも出陣したが、隆景のあとを継いだ秀秋の代に小早川家を退身して浪人となった。
 その後、関ヶ原の合戦ののちに黒田長政に召し出されて2,000石を与えられ、弟の三右衛門も700石を賜った。加えて、長政は叔母で尾上安右衛門の寡婦に化粧料千石を添えて家氏の室とした。しかし、家氏はこれを喜ぶことができず、伝家の古文書を弟の家長に譲って出奔したという。