<藤原氏>北家 道兼流

F659:麻生資時  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 山鹿家政 ― 麻生資時 ― 麻生太右衛門 F660:麻生太右衛門

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麻生賀郎 麻生太吉
 1868年(慶応4年)1月、村に対する貸渡金595両余を免除したことにより倅代まで「大庄屋格」(村長)を申し付けられ、麻生の苗字名乗りを許された。   筑前国嘉麻郡栢森村に庄屋(今でいう村長)を務めていた父・賀郎、母・マツの子として生まれる。幼名は鶴次郎。日本の炭鉱業者,実業家,政治家。麻生商店社長,石炭鉱業連合会会長,九州水力電気社長、そして衆議院議員,貴族院多額納税者議員等を歴任した。 
麻生太賀吉 麻生太郎

 1911年(明治44年)9月29日、九州の炭鉱王・麻生太吉の3男・太郎を父に、子爵・加納久朗の妹・夏子を母として福岡県飯塚市に生まれる。1929年(昭和4年)から1932年(昭和7年)まで九州帝国大学法文学部聴講生。1931年(昭和6年)に祖父の経営する麻生商店に入社し、1934年(昭和9年)に社長となる。関連会社である麻生鉱業社長と麻生セメント社長を務め、人権を無視した納屋制度により、莫大な利益を得た。戦後の1951年(昭和26年)には、九州財界の重鎮である九州電力会長に就任している。
 ロンドン滞在中、白洲次郎の紹介で、当時駐英大使をしていた吉田茂の3女・和子と知り合い、帰国後結婚。首相となった岳父を補佐するため、1949年(昭和24年)第24回衆議院議員総選挙に郷里の福岡県から立候補し、当選。3期当選。吉田の側近として吉田の政治資金を捻出したほか、政界と財界の連絡役を務めた。田中角栄は麻生に接近し、田中,麻生,根本龍太郎の三人組で池田勇人大蔵大臣を誕生させる原動力となった。サンフランシスコ講和条約締結前夜、早期講和か全面講和をめぐり与野党が対立する中で奔走し、国民民主党の苫米地義三を口説いて吉田に協力させることに成功した。吉田内閣総辞職と共に政界を引退し、実業界に戻る。
 結婚前から敬虔なカトリック信徒である和子夫人ともどもカトリック信徒である。
 1965年(昭和40年)、日本石炭協会会長に就任。1980年(昭和55年)12月2日死去。

 1940年(昭和15年)9月20日、福岡県飯塚市に麻生太賀吉・和子の長男として生まれる。高祖父が大久保利通、祖父が吉田茂元首相、義父が鈴木善幸元首相、妹が皇族の寬仁親王妃信子という血脈を持つ。小学3年生の頃に上京し、学習院初等科に編入。学習院大学政経学部を卒業後、麻生産業に入社し、麻生セメント(現:株式会社麻生)の社長や日本青年会議所の会頭などを経て、1979年(昭和54年)、衆議院選挙に初当選。以後、1983年(昭和58年)の落選を除き、当選回数15回を数える。相続した自宅は25億円など政界有数の資金力を有する。
 経済企画庁長官(第53代),経済財政政策担当大臣(第2代),自由民主党政務調査会長,総務大臣(第3代・第4代・第5代),外務大臣(第137代・第138代),自由民主党幹事長を経て2008年自由民主党総裁選挙において、第23代自由民主党総裁に選出され、第92代内閣総理大臣に就任した。
 2021年、総裁経験者として初めて自由民主党副総裁に就任。2024年9月からは党最高顧問を務めている。


詳細は、Wikipedia(麻生太郎)を参照