<藤原氏>北家 御堂流

F702:藤原忠実  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 ― 藤原忠実 ― 菱刈重妙 F731:菱刈重妙

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菱刈重妙 菱刈篤重

 保元の乱で崇徳上皇方に属した藤原頼長の子孫と伝えている。頼長は流れ矢にあたって死去した。乱後、頼長の子・師重,兼長ら一族13名は遠く流刑に処されたが、藤原隆長の孫の重妙は幼年であったため、比叡山に預けられた。ところが保元元年(1156年)、後白河天皇は院宣を下して菱刈両院(牛屎院・太良院)七百町歩を重妙に賜った。幼い重妙は菱刈に下向できなかったが、建久4年(1193年)、鎌倉幕府将軍の源頼朝から、あらためて菱刈両院の領有権を安堵する下し文を与えられている。
 源頼朝から菱刈両院が安堵を得た重妙は、翌建久5年正月、弟の師重とともに太良院に下向した。そして、本城に居城を構えると菱刈を称し、子弟らを領内に分封して統治の基礎を固めた。師重は、菱刈院に到着してから入山を分領して入山氏を称し、重妙の庶長子・重隆は馬越を分領、3男の重茂は曽木を領して、それぞれ馬越氏,曽木氏の祖となった。
 重妙が入国した建久5年の夏、大口で大平氏の一族・赤田氏が叛乱を起したが、相良氏の支援を得て赤田氏を討ち、牛屎院を相良氏に与えている。

 建武の新政に不満を募らせた武士らの輿望を集めた足利尊氏が、建武2年(1335年)に謀叛を起すと新政は崩壊した。尊氏が叛旗をひるがえすと南九州では、肝付氏,伊東氏らが肥後の菊池氏と結んで南朝方についた。尊氏は畠山直顕を日向に派遣して肝付氏を攻撃させ、島津貞久も尊氏に味方した。菱刈篤重も尊氏方に味方して、肝付氏のよる加世田城攻撃に参加し、戦後、その功によって尊氏から菱刈半分地頭に補せられた。子・重遠も尊氏方として活躍、越前金崎城攻撃には菱刈家の部将・井手籠重久が大口の牛屎高元ともに参加している。
菱刈重遠 菱刈久隆
 直義を倒した尊氏は、ふたたび南朝方に叛いた。結果、島津氏も北朝方に転じ、菱刈篤重と一族も島津氏に従った。しかし、南九州では南朝方の勢力が優勢で、島津氏は南朝方に属して畠山直顕と戦った。一方、南朝方にとどまった篤重の嫡男・重遠は、文中元年(1372年)、牛屎高元,相良実長らとともに島津師久の碇山城を攻撃している。  応永4年(1397年)、島津元久は日向清武城を攻撃した。ついで、伊東氏の領内に起った一揆に乗じて勢力の拡張を図った。そして、薩摩北方に勢力を誇る菱刈久隆は、島津氏に通じて元久から救仁郷十五町を与えられている。
菱刈元隆 菱刈氏重
 応永24年(1417)、島津久豊が松尾城を攻撃すると、伊集院頼久はこれを包囲した。久豊は援軍を派遣したが伊集院軍に敗れ、頼久は鹿児島,谷山,結黎の割譲を条件として和睦に応じた。その後、久豊は菱刈,牛屎,栗野などの兵をもって頼久を打ち破ったが、この戦いで菱刈元隆は戦死した。  文明17年(1485)、菱刈氏重は相良氏とともに島津忠兼と同盟を結び、氏重のあとを継いだ忠氏も東郷重理,入来院重豊らとともに忠兼と和睦している。とはいえ、有力国人の一員として、守護島津氏の衰退を後目に自立した行動をみせていた。その後、大永8年(1528年)に至って、菱刈重副は牛屎院のうち青木,長尾村を島津勝久から与えられた。
菱刈重州 菱刈重豊
 島津氏は菱刈氏,相良氏に対応するため、島津忠明を大口城主とした。享禄3年(1530年)、菱刈重州は相良義滋と結んで大口城を攻撃した。ときに諏訪神社の祭りの日であったため、油断していた忠明は城内で自殺し、大口城は菱刈氏が占領した。こうして、菱刈重州は大口城に入り、太良・牛屎院を領して北薩の雄に飛躍した。  弘治2年(1556年)、島津軍は蒲生氏の本城蒲生城を攻撃した。菱刈重豊は蒲生氏救援のため北村に陣を布いて島津勢を牽制、両軍は対峙したまま越年した。年が開けると忠良がみずから指揮をとって、北村の菱刈氏を攻撃してきた。この戦いに島津義弘は、陣頭にたって菱刈軍の楠原某を討ち取り自らも重傷を負った。激戦のなかで重豊は自刃し、菱刈軍は潰滅的敗北を喫した。
菱刈重広 菱刈隆秋
 島津氏に降伏した後の菱刈氏は、鶴千代(重広)が本城・曽木を与えられた。しかし、天正2年(1574年)、島津氏に対して異心を抱いた廉により、その本城曽木城を奪われ、重広は伊集院神殿に移された。こうして菱刈氏は父祖の地から離れていくことになった。

 菱刈勢が敗れたことで蒲生範清も島津方に降参し、城を焼いて祁答院に落ちていった。かくして大隅西部も島津氏の版図となったが、菱刈隆秋が甥の鶴千代を擁して大隅大口,馬越等の諸城に拠り島津氏に抵抗を続けた。
  永禄10年(1567年)、島津貴久は馬越城を攻撃、大口城には伊集院,伊作,川辺方面の兵をもって押し寄せた。大口の菱刈氏は相良氏の支援を求めて馬越城に援兵を送ったが、島津軍の猛攻撃に城将・井手籠駿河守をはじめ城兵ことごとく戦死して陥落した。馬越城の落城により、本城,曽木,羽月などの菱刈軍は、大口城に終結、横川城にいた隆秋も大口城に入った。
  翌永禄11年(1568年)1月、菱刈軍は羽月村堂ヶ崎に出撃した。堂ヶ崎の戦いとよばれるもので、菱刈方の勢は4、5千に対し、島津義弘勢は300余りであった。血気にはやる義弘はこの寡勢でもって菱刈勢にあたったが、結果は惨澹たる敗北を喫した。このとき、川上久朗が義弘のために一命を投げ出して闘い、義弘は九死に一生を得たのである。
  その後も、菱刈氏は相良氏,渋谷一族らと結んで島津氏と対立を続けた。しかし、情勢は次第に島津氏の優勢に動き、ついに永禄12年、菱刈隆秋は相良義陽とともに講和を求め、野田感応寺で和平を結んだ。とはいえ、隆秋はその後も島津氏への対立姿勢を改めなかったため、島津氏は新納忠元,肝付兼演らに大口城攻撃を命じ、鳥神尾の戦いで菱刈勢は島津軍の奇計に嵌って大敗を喫した。
 こうして島津軍は、菱刈氏の本城大口城に攻め寄せ、さすがの菱刈,相良勢も島津氏に降伏した。隆秋は大口城を出て相良氏の人吉城に去り、その後の大口城には大口地頭に任じられた新納忠元が入り、菱刈氏が去ったのちの大口・菱刈地方を支配した。

菱刈隆豊

 隆豊の父・重昌は菱刈宗家に仕えていたが、永禄12年(1569年)に相良氏と共に籠っていた大口城が島津氏に攻められ降伏し、菱刈宗家の嫡子・重秀が島津の人質(成長後はその家臣)となる一方で、隆豊の家は相良氏に仕えた。 その後、相良氏が島津氏に従属すると、天正13年(1585年)に大友氏攻めに赴く島津義弘により、岡本頼氏,内田伝右衛門と共に所望され、その騎下に加わって各地を転戦し武功を上げた。
 天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の際、相良氏は深水長智の機転で秀吉に降伏する。そのとき隆豊は、主君・相良頼房や犬童頼安らと共に日向国の島津陣営にあったが、頼房始め相良の将の皆が島津陣営を去ろうとする中、隆豊のみは義弘との主従の約束を違えないよう、自ら相良家の名代として島津家に仕え続ける決断をした。但し、相良氏への忠節は変わらないとの意味で、自身の妻と、子の満亀(後の将監)を人質として相良領へ置いた上で、義弘に従い薩摩国に入った。
 それ以後も義弘に忠節を尽くし、文禄・慶長の役が起こると文禄3年(1594年)6月に主従4人と共に自力で渡海して武功を上げ、慶長2年(1597年)2月に手負いと成り帰国した際に300石を賜る。同年7月に主従5人を率いて再び渡海、泗川の戦いでも武功を上げている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参加し、その退却戦でも功をなした。
 慶長16年(1611年)、島津家臣となっていた菱刈宗家の重秀が、島津義久死去の際に殉死の代わりに手の小指を切って義久の棺に納めたのであるが、重秀はその傷が元で死去する。重秀には後継が無く、隆豊は後継が決まるまで宗家の家督代となり、留守藤景の次男・重栄が菱刈宗家を継ぐまで務めあげた。その後は自ら島津家を辞して相良家へ帰参し、元和年間に人吉にて病死した。
 実子は、相良側に残した将監のほかに、島津側で娶った妻との間に誕生した重種がいる。将監は後に第2代人吉藩主・相良頼寛の家老となり、重種は第2代薩摩藩主・島津光久に仕え大口諸士の衆頭となった。