<藤原氏>北家 御堂流

F701:藤原道長  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 ― 藤原忠実 F702:藤原忠実

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藤原忠実 藤原泰子

 康和元年(1099年)に父・師通が急死した際、22歳の権大納言・忠実は、まだ大臣に任官されていなかったことにより、関白には任じられず内覧にとどまった。ただ、内覧であっても過去には藤原時平や道長のように摂関同様の実権を振るった例もあり、忠実にも挽回の可能性が残されていたが、政治的未熟さが露見され、摂関家は完全に院政の風下に立ち、忠実は摂関家の栄華を再び取り戻すという夢を生涯かけて追求することになる。
 康和2年(1100年)に右大臣となり、長治2年(1105年)に堀河天皇の関白に任じられる。嘉承2年(1107年)、忠実と摂関家にとって最大の危機が鳥羽天皇の践祚と共に起こった。鳥羽天皇の践祚に尽力した藤原公実が天皇の外戚であることを理由に摂政の地位を望んだ。これは院庁別当・源俊明の反対で、忠実は辛くも摂関の地位を保持することができた。
 永久元年(1113年)頃、法皇により長男・藤原忠通と藤原公実の娘・璋子の婚姻の話がもちあがるが、璋子の素行に噂があったことや、忠実が閑院流を快く思っていなかったこともあって破談になっていた。ところが永久5年(1117年)、璋子は鳥羽天皇に入内する。衝撃を受けた忠実は鳥羽天皇の希望もあって、保安元年(1120年)、勲子を入内させようと工作するが、以前入内の勧めを断りながら鳥羽天皇の希望を受けて再度入内させようとしたことに法皇は激怒し忠実の内覧は停止され、この後、忠実は宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。なお、次男・頼長が生まれたのはこの謹慎中のことである。翌保安2年(1121年)、忠通が関白となる。
 大治4年(1129年)に白河法皇が崩御、鳥羽院政が始まると忠実は政界に復帰を果たし、天承2年(1132年)再び内覧の宣旨を得る。また、白河法皇の遺言に反して、長承元年(1133年)忠実は自らの娘・勲子を鳥羽上皇の妃とし、異例の措置で皇后となり(勲子は泰子に改名)、さらに院号宣下を受けて高陽院となる。忠実は前回の失脚の反省からか、鳥羽上皇の寵妃・藤原得子(美福門院)や寵臣・藤原家成とも親交を深めて、摂関家の勢力回復につとめた。しかしながら、忠実が再び内覧となり政務を執る一方で、子の忠通にも関白としての矜持があり、父子の関係は次第に悪化していく。忠通に男子が生まれないことを危惧した忠実は、忠通に頼長を養子にするように勧め、天治2年(1125年)に頼長は忠通の養子となった。しかし康治2年(1143年)に忠通に実子の基実が生まれると、摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望んだ忠通は頼長との縁組を破棄する。さらに久安6年(1150年)正月、頼長が養女・多子を近衛天皇に入内させると、忠通も養女・呈子を入内させて頼長に対抗した。忠実は忠通に対し摂政職を頼長に譲るよう要求するも忠通が拒否したため、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶した。仁平元年(1151年)には忠実の尽力により頼長が内覧の宣旨を受け、関白と内覧が並立するという異常事態となった。忠実は鳥羽法皇と良好な関係を保っていた一方で、忠通も美福門院の信任を受けていたこともあり、鳥羽法皇は忠実と忠通の和解を望み、忠通と頼長の片方に肩入れするようなことを避けてきた。しかし、久寿2年(1155年)、近衛天皇が子なく崩御し、忠通の推す後白河天皇が即位すると、頼長は近衛天皇を呪詛した疑いをかけられ鳥羽法皇の信任を失い、再び内覧宣下を受けることなく失脚してしまう。忠実はパイプ役である高陽院のとりなしで法皇の怒りを解こうとするが、高陽院の死去で失敗に終わった。
 保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、検非違使が召集されて京中の武士の動きを停止する措置が取られた。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、頼長は謀反の罪をかけられ、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官(財産没収の刑)するに至った。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
 謀反人の烙印を押された頼長は崇徳上皇とともに白河北殿に立てこもるが、天皇方の夜襲により敗北する。頼長の敗北を知った忠実は宇治から南都に逃れた。重傷を負った頼長は忠実に対面を望むが、頼長に連座して罪人になることを避けるため忠実は苦渋の末これを拒み、頼長は失意の内に死んだ。15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥(大殿)だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。しかし忠実は当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられている。20日になって、忠実から忠通に「本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた所領」と「高陽院領」百余所の荘園目録が送られる。摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。
 27日には、頼長の子息(兼長,師長,隆長,範長)や藤原教長らの貴族,源為義,平忠正,家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。この乱で摂関家は、武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになる。自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退し、忠実の摂関家の栄華を再び取り戻すという夢は叶わずに終わった。
 こういった経緯のためか、忠通の11男・慈円は著書『愚管抄』の中で、祖父である忠実が死後に怨霊となって自分達(忠通の子孫)に祟りをなしていると記述している。

 天仁元年(1108年)頃、8歳年下の幼帝・鳥羽天皇に入内するよう時の治天の君・白河院に命ぜられたが、父・忠実はこれを固辞。永久元年(1113年)にも入内の話が具体化するが、同時期に嫡男・忠通と白河院の愛妾・祇園女御の養女・藤原璋子(のちの待賢門院)との縁談が進むなか、忠実は白河院と璋子の間に不義の関係があるという噂を耳にしたため、このいずれもを断り白河院の勘気を蒙った。保安元年(1120年)、白河院が熊野御幸に出ている間に、忠実は鳥羽天皇に対して直接勲子の入内を打診したことが白河院に漏れたことで忠実は関白と兼職の内覧を罷免され、宇治隠居を余儀なくされた。この間にも忠実は愛娘の身の振り方に心を悩まし、勲子のために元永元年8月(1118年)に使いを伊勢の大神宮に遣わして祈祷させたことが記録に見える。
 将来が不透明なまま盛りも過ぎた勲子にとって、大治4年(1129年)7月7日に白河法皇が崩じたことは運命に転機をもたらした。長く宇治に籠居していた忠実は政界に復帰し、鳥羽院政の下、摂関家は権威回復に着手した。その一環として浮上したのが、勲子の入内である。鳥羽上皇は忠実の要望を容れ、勲子が39歳の高齢であるにもかかわらず長承2年(1133年)6月29日に彼女を入内させる。翌長承3年(1134年)3月2日には廷臣の反対を退けて上皇の妃ながらに女御宣下を与え、同月19日にはこれまた異例中の異例として皇后宮に冊立したのである。この時、泰子と改名。保延5年(1139年)7月28日、泰子は院号宣下を受け、御所名に由来する「高陽院」を称した。永治元年(1141年)、先に入道した鳥羽院に続いて、5月5日宇治において落飾する。
 皇后・女院という女性の最高位には昇ったものの、泰子の年齢を考えると皇子女出産は不可能に近いことだった。立后の翌年、彼女は上皇の寵姫・藤原得子(のちの美福門院)所生の皇女・叡子内親王を養女とした。得子と泰子の仲は比較的良好であったらしい。親子ほども年の差があることも手伝ってか、二人の間には、待賢門院と得子の間に見られたような憎悪の火花を散らす戦いは終になかった。叡子は高陽院姫宮と呼ばれ、泰子の鍾愛を受けて育ったが、久安4年(1148年)12月8日、14歳で夭折した。
 泰子立后の時、皇后宮大夫に任ぜられたのは泰子の異母弟であり、その庇護下に入っている頼長であった。忠実が白河院によって罷免された際、後任の関白としてその長男・忠通が就いたが、鳥羽院政が開始されると忠実は内覧に復し、忠通の関白は有名無実のものとなった。忠実は柔弱な忠通に物足りなさを感じてか、強い個性の持ち主である頼長に望みを託し、ゆくゆくは摂関家を彼に継がせるつもりで、泰子の傘下に入れて庇護を得させるよう計らった。泰子もそれに応え、長姉として頼長をよく庇護し、鳥羽院と忠実・頼長父子の交流の絆となるよう勤めた。殊に鳥羽院の愛児・近衛天皇が夭折してより後は、美福門院や忠通の讒言によって忠実・頼長父子は院から遠ざけらされていったが、泰子はその間に立って重要な緩和作用を果たした。その泰子が久寿2年3月(1155年)、不予の徴候を示すようになる。久寿2年(1155年)12月16日、泰子は61年の一生を高陽院において終えた。遺骸は御願寺・洛東の福勝院護摩堂の板敷の下に埋葬。その後、後ろ盾を失った忠実・頼長の立場は次第に危うくなり、保元の乱へ突入していく。
 泰子は忠実から高陽院領として知られる50余箇所の荘園群を伝領したが、死後に彼女の猶子・近衛基実(忠通の長子)に譲渡され、近衛家領の一部分となった。

藤原忠通 藤原頼長

 康和5年(1103年)、大江匡房の名付により「忠通」と称する。嘉承2年(1107年)、元服し白河法皇の猶子となる。永久2年(1114年)、白河法皇の意向により法皇の養女の藤原璋子(藤原公実の娘)との縁談が持ち上がるが、璋子の素行に噂があったこともあり、父・忠実はこの縁談を固辞し破談となる。保安2年(1121年)、法皇の勅勘をこうむり関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に就任。その後も崇徳,近衛,後白河の3代にわたって摂政・関白を務めることとなった。
 摂関歴37年は高祖父・頼通の50年に次ぐ。また太治4年(1129年)、正妻腹の娘・聖子を崇徳天皇の後宮に女御として入内させ、翌5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。崇徳帝と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日、女房・兵衛佐局が崇徳帝の第一皇子・重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。保元の乱で崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。
 一般には父・忠実が弟の頼長を寵愛する余り、摂政・関白の座を弟に譲るように圧力をかけられたように言われているが、実際には長い間摂関家を継ぐべき男子に恵まれず、天治2年(1125年)に23歳年下の頼長を一度は養子に迎えている。だが、40歳を過ぎてから次々と男子に恵まれるようになった忠通が実子に摂関家を相続させるため、頼長との縁組を破棄した。
 忠通と忠実・頼長は近衛天皇の後宮政策においても対立し、久安6年(1150年)正月に頼長が養女・多子を入内させ、皇后に冊立させたのに対し、忠通もその3ヵ月後にやはり養女・呈子を入内させて、中宮に冊立させた。この呈子立后にとうとう忠実,頼長は業を煮やし、忠通は父から義絶されて頼長に氏長者職を譲らされるが、多子と天皇の接触を妨害することなどで対抗し、久寿2年(1155年)の後白河天皇の践祚により復権。それら一連の対立が保元の乱の原因の一つとなった。乱後、氏長者の地位は回復されたが、その際に前の氏長者である頼長が罪人でかつ死亡していることを理由として、宣旨によって任命が行われ、藤原氏による自律性を否認された。更に忠実・頼長が所有していた摂関家伝来の荘園及び個人の荘園が全て没官領として剥奪されることになったが、忠通が忠実に摂関家伝来のものと忠実個人の荘園を自分に譲与するように迫り、漸く忠通の所領として認められて没収を回避された。
 保元3年(1158年)の賀茂祭の際に院近臣の藤原信頼との対立を起こしたことから後白河天皇より閉門に処せられて事実上失脚、同年に関白職を嫡男の基実に譲った後、応保2年(1162年)に法性寺別業で出家して円観と号した。忠通は晩年身近に仕えていた女房の五条(家司・源盛経の娘)を寵愛していたが、長寛元年(1163年)末か翌年の年初頃、五条が兄弟の源経光と密通、これを目撃した忠通は直ちに経光を追い出したものの、精神的な衝撃もありまもなく薨去したという。

 

 大治5年(1130年)、藤原敦光が持参した複数の名字の中から中御門宗忠が「御堂(道長)宇治殿(頼通)御名字なり」という理由で選び、「頼長」と命名された。元服して正五位下に叙せられて以降、天承2年(1132年)に参議を経ずに権中納言に昇進。長承2年(1133年)には8歳年上の徳大寺実能の娘・幸子を娶った。長承3年(1134年)、権大納言となる。久安5年(1149年)、左大臣に進む。
 白河上皇の院政下で逼塞していた摂関家は、鳥羽院政が開始されると頼長の異母姉・泰子が鳥羽上皇の皇后となり息を吹き返した。忠通は後継者に恵まれなかったため、天治2年(1125年)に頼長を養子に迎えたが、康治2年(1143年)に実子・基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになる。
 久安6年(1150年)には、近衛天皇への入内の件3で忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不可能となった。9月26日、忠実は氏長者の地位を頼長に与え、忠通を義絶した。さらに翌仁平元年(1151年)正月3日、忠実は忠通に譲渡していた藤原師実,藤原師通の日記正本を没収し頼長に与えた。また忠通の同母姉・泰子(高陽院)までもが異母弟・頼長の後ろ盾となり、所有する摂関家の拠点のひとつ土御門殿を頼長に譲った。しかし鳥羽法皇は先の入内問題と同じように曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留めたまま頼長に内覧の宣旨を下し、ここに兄弟で関白と内覧が並立するという異常事態となった。
 執政の座についた頼長は意欲に燃え、学術の再興、弛緩した政治の刷新を目指した。その信条は聖徳太子の十七条憲法により天下を撥乱反正することにあった。しかし律令や儒教の論理を重視して、実際の慣例を無視する頼長の政治は周囲の理解を得られず、院近臣である中・下級貴族の反発を招き孤立していった。また、近衛天皇も頼長をあからさまに嫌うようになった。
 その後、頼長は周囲と衝突を繰り返す問題児の態をなす。即ち、仁平元年(1151年)9月、家人に命じて鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊するという事件、仁平2年(1152年)仁和寺境内に検非違使を送り込み僧侶と騒擾、仁平3年(1152年)5月、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を強引に追捕しようとしての流血事件、同年6月に上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縄する騒ぎなどである。これらの一連の出来事は、頼長自身の綱紀粛正の意味もあったが、かえって、寺社勢力とも対立を深め、久寿2年(1154年)4月、延暦寺の僧たちによる満山呪詛を生じせしめた。こうして、頼長は対立勢力を勢いづけ、ひいては徐々に法皇からの信頼を失っていくことになる。
 久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が崩御した。後継天皇を決める王者議定に参加したのは久我雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子・守仁王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁王はまだ年少であり、存命する父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王の乳母の夫である信西の策動があったと推測される。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、内覧を停止されて事実上の失脚状態となっていた。口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという。忠実は頼長を謹慎させ連絡役である高陽院を通じて法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が薨去したことでその望みを絶たれた。
 保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、検非違使が召集されて京中の武士の動きを停止する措置が取られた。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官(財産没収の刑)するに至った。氏長者が謀反人とされるのは前代未聞で、摂関家の家司・平信範はその日記『兵範記』に「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆の念を記している。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
 謀反人の烙印を押された頼長は挙兵の正当性を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決意する。上皇方の拠点となった白河北殿には貴族では上皇の側近・藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘,源為義,平忠正などが集結するが、その戦力は摂関家の私兵集団に限定され、甚だ弱小で劣勢は明白だった。軍議で源為朝は高松殿への夜襲を献策したが、頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。
 天皇方は「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」として武士を動員し、11日未明白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、戦いは数に勝る天皇方の勝利に終わった。上皇方が総崩れとなる中、頼長は家司の藤原成隆に抱えられ騎馬で御所から脱出するが、源重貞の放った矢が頸部に刺さり重傷を負った。出血による衰弱に苦しみながら、12日嵐山方面、13日には舟で大井川(現・桂川)を渡り巨椋池を経て木津へと逃亡を続ける。最後の望みとして奈良に逃れていた忠実に対面を望むが、これも拒まれ、14日失意のうちに死亡した。享年37。遺骸は奈良の般若野に埋葬されたが、信西の命によって暴かれ、検視されるという恥辱を受ける羽目となる。
 頼長の死後、長男の師長,次男の兼長,3男の隆長,4男の範長はみな配流となり、師長を除く3名はそれぞれの配所にて死去した。唯一生き残って都に戻ることができた師長は、後に太政大臣にまで昇進するものの、今度は平清盛によって再び配流される波乱の生涯を送っている。
 保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われた。頼長を罪人とする朝廷の認識は、頼長の子の師長が帰京を許され後白河院の側近になっても変わることはなかった。しかし21年を経た安元3年(1177年)、延暦寺の強訴,安元の大火,鹿ヶ谷の陰謀といった天地驚愕の大事件が都で連発するに及んで、朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになり、同年8月3日、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈された。 

藤原兼長 藤原師長

 幼名を父・頼長と同じく菖蒲若と称す。久安元年(1145年)、父・頼長より「忠経」の名を与えられるが、祖父・忠実の強硬な反対により翌日に兼長と改められた。この理由として忠実は、朝敵として討滅された平忠常と同訓であることの不吉を説いている。
 当時、父の頼長は、その兄・忠通から摂関家の家督を将来的に相続すべき立場にあった。その流れの中で頼長の嫡男たる兼長の官途も順調であり、久安4年(1148年)には11歳にして五位中将に進んでいる。また伯父である忠通の猶子ともなり、同年忠通の近衛邸で元服を果たしている。
 しかし、康治2年(1143年)に実子・基実を得ていた忠通は、内心では頼長流への家督移譲に対して消極的であり、やがて忠実・頼長と対立してゆく。したがってこれ以降の兼長の昇進は忠通の関与するところではなく、むしろ忠通に代わって久安6年(1150年)に藤氏長者となって実権を握った頼長の威光によるものであった。仁平3年(1153年)には正二位権中納言に達し、翌仁平4年(1154年)には右近衛大将を兼任。この年、春日祭上卿を勤め、多くの殿上人や源為義らの武士を含む大行列を従え、盛大に京を出立している。
 太ってはいたが容貌美しく、心ばえも穏やかであったという。狛光近の指導により舞踊にも長ずるなど、上流貴族の子弟に相応しい教育を受けていた。
 しかし、頼長と忠通の対立は、皇室内部の角逐とも相まって極点に達し、遂に保元元年(1156年)の保元の乱の勃発を招くに至った。この際、兼長は弟達とともに宇治に待機するが、やがて頼長の敗北・戦死という事態を受けて降伏、出雲国へと配流されてその政治生命を終えた。それから僅か2年の後、配所において21歳で病没している。

 

 当時の執政である左大臣・頼長の息子であったことに加えて、祖父・忠実の猶子となったことで、早くから伊予権守,右近衛中将などを歴任する。師長の生母と異母弟である兼長・隆長の生母は同じ源師房の曾孫であるが、受領(源信雅)の娘の所生である師長と権中納言(源師俊)の娘の所生である兼長・隆長とは立場的に格差があった。だが、頼長は師長を「大殿」忠実の猶子にして、その後ろ盾によって摂関家の嫡子に相応しい身分を保証した上で、3人の息子を競わせて後継者を選択しようとした。
 仁平元年(1151年)には14歳の若さで参議として公卿に列し、久寿元年(1154年)には権中納言に昇進する。しかし保元元年(1156年)に父の頼長が崇徳上皇と手を結んで保元の乱を起こし敗死したため、連座して師長は官位を剥奪されて土佐国に流罪に処された。配流される直前、養父にあたる祖父・忠実に出家の意思を打ち明けるが、「世の中何が起こるか分からない」と説得されて翻意されたとされる。
 長寛2年(1164年)6月に罪を赦されて京都に戻り、閏10月には本位(従二位)に復す。その頃、頼長の所領は没官領とされて後白河法皇の所領となっていたが、法皇は師長をそれらの土地の預所に任じることで彼を側近として取り込もうとした。その後、法皇の後ろ盾により仁安元年(1166年)権大納言,仁安3年(1168年)左近衛大将,安元元年(1175年)内大臣に任じられると、父に仕えていた家司(あるいはその子弟)が師長の元に再び集まるようになり、近衛基実の死後混乱する摂関家を横目に勢力の巻き返しを図るようになる。 安元3年(1177年)には左大臣・大炊御門経宗,右大臣・九条兼実を飛び越えて従一位・太政大臣に昇進する。なお、師長が太政大臣になった当時、まだ父・頼長の謀叛の罪は赦免されていなかった。このため、師長を太政大臣に補任する太政官符の文案作成を命じられた大内記が「其父謀叛人也、其身被罪人也」と主張して、太政官符に必ず記されていた「累代奉公」の4字を記入することを拒否する事件が起きている。だが、近衛基通との確執が表面化するに従い、基通を支援する平家との衝突を招き、治承3年(1179年)に平清盛のクーデター(治承三年の政変)が起こると、清盛によって関白・松殿基房とともに解官された上、師長は尾張国に流罪に処された。その後、師長は配地で出家し理覚と号する。3年後に帰京を許されて建久3年(1192年)に55歳で薨去した。

藤原隆長 藤原範長

 久安5年(1149年)に右兵衛佐、仁平元年(1151年)に侍従、同2年(1152年)に左近衛権中将、同3年(1153年)に正四位下となる。仁平2年、鳥羽法皇の五十歳の御賀に当たり、藤原実定とともに青海波を舞ったが、その様子を見物した祖父の忠実から舞の未熟さを見咎められ、師匠である狛光行と交替させられた逸話が『古事談』に見える(隆長に代わった光行の舞も隆長のそれと大差なく、舞の正しい伝承が行われていないことを知った忠実が、自ら光行に指導したとある)。
 保元元年(1156年)の保元の乱において父の頼長が敗死すると、兄弟達とともに一旦宇治の忠実のもとに身を寄せるが、ほどなく朝命によって伊豆国へ配流された。詳細な年代は不明ながら、その後は都に帰還することなく配所で没した。

 幼少期は祖父の忠実の愛妾・播磨の養子であったとされる。仁平3年(1153年)に興福寺大乗院3世・尋範 (範長には叔曽祖父に当たる)の弟子となり、その一字を取って法諱を範長と名乗る。
 保元元年(1156年)の保元の乱の際には大法師位にあったが、この戦乱において父の頼長が敗死すると、兄弟達とともに一旦宇治の忠実のもとに逃れる。ほどなく出頭し、父に連座する形で安房国(一説には安芸国)へ配流された。その後、詳細な年代は不明ながら、都に帰還することなく配所で没した。

藤原多子 藤原兼房

 藤原頼長は徳大寺実能の長女・幸子(多子の伯母)と結婚して、徳大寺家の人々と大炊御門高倉邸に住んでいたことから、義弟・公能の娘を幼い頃から養女としていた。久安4年(1148年)6月、頼長は近衛天皇への養女の入内を鳥羽法皇に奏請して承諾を得た。
 久安6年(1150年)正月4日、近衛天皇は摂関家の本邸・東三条殿で元服の式を挙げ、藤原忠通が加冠役、頼長が理髪役を務めた。同月10日に多子は入内、19日に女御となる。近衛天皇は12歳、多子は11歳だった。しかし、2月になると藤原伊通の娘・呈子(20歳)が入内するという風聞が立った。驚いた頼長はただちに法皇に多子の立后を求めるが、明確な返答は得られず、宇治にいる父・忠実に助けを求めた。呈子が従三位に叙されて入内が間近に迫ると、頼長は「もし呈子が多子より先に立后したら自分は遁世する」と言い出し、忠実も粘り強く法皇に立后を奏請したことで、3月14日に多子は皇后となった。皇后宮大夫には実父・徳大寺公能、権大夫には頼長の子・藤原兼長が就任した。多子の後を追うように、4月21日に呈子も入内して、6月22日に立后、中宮となる。この事件により、忠通と頼長の関係は修復不可能となった。近衛天皇の母・美福門院は呈子の早期出産を期待していた。仁平2年(1152年)に呈子は懐妊の兆候を見せるが、周囲の期待に促された想像妊娠であったらしく空騒ぎに終わってしまう。
 病弱だった近衛天皇は、久寿2年(1155年)7月に崩御。多子は近衛河原に幽居した。保元元年(1156年)の保元の乱では養父・頼長が敗死するが、徳大寺家は、祖父・実能が皇太子・守仁親王(後の二条天皇)の東宮傅となり、多子の姉・忻子が後白河天皇の後宮に入るなど、すでに頼長派から離脱していたため打撃は受けなかった。保元元年(1156年)10月、忻子が後白河の中宮に、呈子が皇后となったことから、多子は皇太后に移り、保元3年(1158年)2月、統子内親王が皇后になると、呈子が皇太后に移ったことから太皇太后となった。しかし、天皇の祖母でもなくその地位は名ばかりのものだった。太皇太后の地位は多子の死後、女院制の盛行もあり消滅する。
 永暦元年(1160年)正月、二条天皇の強い要請により多子は再び天皇の後宮に入った。21歳であった。皇后であった女性がのちに別の天皇と再縁したのは、史上、多子只一人である(皇后となる前に別の天皇の妃であったのは、伊香色謎命がいる)。多子は二条天皇の寵愛深かったが、この再入内は多子の望みではなく近衛天皇が崩御したとき出家しなかったことを嘆いていた。ただ多子が入内したのは、平治の乱が終結した直後という異常な状況下であり、二条の後見である美福門院や側近の藤原経宗,藤原惟方がこの件に関与しなかったとは考えにくいことから、父・後白河に対する牽制(自分が鳥羽・近衛両帝の後継者)を目的とした政略結婚とする見方もある。
 永万元年(1165年)7月、二条天皇は23歳の若さで崩御した。多子は同年12月出家する。同月、後白河の第二皇子・以仁王が多子の近衛河原の御所で元服している。以仁王は二条天皇の准母・八条院の猶子になっているため、元服の背景には後白河や平氏一門に対抗する旧二条親政派の支援があった可能性も考えられる。
 生家の徳大寺家は歌壇の中心的存在だったこともあり、多子も書,絵,琴,琵琶の名手として知られた。その後は二人の天皇の菩提を弔い、建仁元年(1201年)62歳で死去した。

 仁平3年(1153年)、関白・藤原忠通の10男として誕生。応保2年(1162年)に10歳で元服し、従五位上、次いで正五位下に叙され、さらに禁色を許され侍従となった。長寛元年(1163年)に左少将、長寛2年(1164年)には左中将となり、仁安元年(1166年)に14歳で従三位に叙され公卿に列した。しかし同母兄・九条兼実が「才漢なし、労積なし」と語るように才覚や見識には乏しく、永らく議政官になれず非参議左中将に留まった。寿永2年(1183年)4月には、位階も年齢も下だった藤原頼実が権中納言に任じられることになり、兼実を落胆させている。同年8月に兼房も権中納言に昇進するが、11月の法住寺合戦では院御所に参入していたため戦闘に巻き込まれ、一時は消息不明となった。
 その後は、元暦2年(1185年)に権大納言となって兼実の嫡子・良通の官位に追いつき、文治5年(1189年)には正官の大納言となるなど、兼実の支援もあり順調に昇進する。建久元年(1190年)、左大臣・徳大寺実定の辞任を受け後任人事が焦点となり、花山院兼雅は叔父の中山忠親を内大臣にするよう後白河法皇に願い出る。これに対して兼実は、大納言序列二位の忠親が序列一位の兼房を超えることに反対した。この時は兼実の意見が通り、7月17日、兼房は内大臣に昇進した。ところがそれから一年も立たない建久2年(1191年)3月、後白河院は兼実に対し、兼房を太政大臣に昇進させて空いた内大臣に忠親を任じるよう命じた。兼実は「太相近代大略棄て置く官なり」として内心不満だったが、この人事案を受諾した。これにより兼房は朝議を主催する一上への道を閉ざされることになった。その後、太政大臣に5年間在任したが、建久7年(1196年)11月28日、建久七年の政変で兼実が失脚した煽りを受けて辞任する。正治元年(1199年)に47歳で出家、建保5年(1217年)に薨御。享年65。
 和歌を愛好し柿本人麻呂を尊敬していたという。藤原定家は『明月記』にて「有職はないが、出仕していた時には追従・貪佞の心が無く、出家後は持律・浄戒で知られた」として、「末世に於ける賢者」と好意的に評価している。

九条兼良 慈円

 九条兼実の弟系である兼房流九条家の祖。
 承安5年(1175年)4月7日、伯父・松殿基房の猶子として元服し従五位上に叙せられる。治承2年(1178年)に正五位下となる。文治2年(1186年)に侍従兼右近衛少将となり、翌年には正四位下に進んで近江介を兼ねる。以後、伯父である九条兼実の庇護の下で順調に昇進し、文治4年(1188年)に右近衛中将に昇進し、翌年には従四位上続いて正四位下に叙せられ、建久元年(1190年)に中宮権亮を兼務して同年6月19日に従三位に叙せられる。建久4年(1193年)に正三位、建久9年(1198年)に従二位に進む。正治元年(1199年)に右近衛中将を辞任して権中納言に任じられ、翌年には中宮大夫を兼務する。建仁2年(1202年)に正二位権大納言となる。元久2年(1205年)に大納言に転じ、建暦元年(1211年)まで務めた。承久2年(1220年)に出家して翌年に薨去した。

 天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されている。
 母は藤原仲光女加賀局、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。建久2年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。
 天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇とともに兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めている。 また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。
 また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けている。
 歌人としても有名で、家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成・藤原定家の跡をますます興させるようにしたという。 越天楽今様の作詞者でもある。