<藤原氏>北家 御堂流 ― 中御門流

F701:藤原道長  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 ― 花山院家忠 F734:花山院家忠


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花山院家忠 花山院忠宗

 延久4年(1072年)、白河天皇の即位に伴って従五位下に叙せられ、承保元年(1074年)侍従に任官する。その後も摂関家の子弟として順調に昇進し、承暦4年(1080年)正四位下次いで従三位に昇叙され公卿に列す。承暦5年(1081年)正三位・右近衛中将、永保2年(1082年)参議に叙任されるが、議政官の傍らで引き続き近衛中将を兼帯した。翌永保3年(1083年)には早くも権中納言に昇進している。のち、中宮権大夫・左衛門督を兼帯し、寛治2年(1088年)に正二位に叙せられ、寛治5年(1091年)には権大納言に昇進。
 承徳3年(1099年)、異母兄の関白内大臣・藤原師通が急死するが、その子である忠実はまだ22歳の若年ですぐに摂関を継げる立場になかったため、家忠が摂関の候補になる。しかし、父の藤原師実は忠実を後継ぎに望み、家忠に対しては忠実の補佐を命じたため、家忠が摂関を継ぐことはできなかった。家忠は権大納言昇進後に兼官を帯びていなかったが、康和5年(1103年)に右近衛大将を兼ねる。この際、近衛大将の官職を白河法皇の寵臣である権中納言・藤原宗通と争うも、堀河天皇の強い意向で家忠が任じられたとの逸話がある。
 永久3年(1115年)大納言に昇進。保安元年(1120年)関白・藤原忠実が娘の入内を巡って白河法皇の逆鱗に触れて内覧を停止され、翌保安2年(1121年)関白を辞任する。この時、白河法皇は家忠を関白にするつもりで家忠自身もそれを望んだ。しかし、稲荷社祭礼の当日に家忠が酒宴乱行を行ったという風説をあげて、右大弁・藤原顕隆が反対したため、忠実の息子である忠通が関白に就任している。
 保安3年(1122年)右大臣に昇るが、引き続き左近衛大将を兼帯した。鳥羽院政期初頭の天承元年(1131年)従一位・左大臣に至る。保延2年(1136年)5月12日に病気のため出家し、同月14日に薨じた。享年75。
 近年では『大鏡』の増補部分の執筆者を令子内親王の皇后宮大夫をつとめた家忠であるとする説もある。大鏡巻末に見える「皇后宮の大夫殿書きつがはれたる夢なり」から、『大鏡』成立の下限とされる12世紀初頭に皇后宮大夫の職にあった家忠か、その後任の源雅定、もしくは11世紀の中宮大夫・藤原能信か源顕房と、摂関家寄りの村上源氏か摂関家分家の人物が書いたと考える説がある。

 永長2年(1097年)従五位下に叙爵。康和2年(1100年)侍従に任ぜられ、康和4年(1102年)従五位上に進む。康和5年(1103年)東宮昇殿、続いて康和6年(1104年)昇殿を聴されて讃岐介を兼ねた。
 嘉承元年12月(1107年1月)左近衛少将に任ぜられる。嘉承2年(1107年)には伊予介を兼ね、五位蔵人に補任。天仁元年(1108年)正五位下・丹波権介に叙任され、天永3年(1112年)従四位下に叙せられた。加賀権介を経て、永久5年(1117年)従四位上に昇叙。永久6年(1118年)に備中権介を兼ねる。元永2年(1119年)正四位下・左近衛中将に叙任され、元永3年(1120年)美作介、保安3年12月(1123年1月)蔵人頭に補せられ、翌保安4年(1123年)には中宮権亮も兼ねた。
 美作権介・播磨介を兼帯し、大治5年(1130年)従三位・参議に叙任されて公卿に列す。大治6年(1131年)には丹波権守を兼ね、同年権中納言に任ぜられた。さらに中宮権大夫を兼ねるが、長承2年(1133年)9月1日の夜、俄かに調子を崩して父に先立って薨去したという。享年47。
 忠宗の死因は年来患っていた睡眠病(ある病によって絶えず眠りを催す症状をいう)であったが、同じく大治4年(1129年)に睡眠病により藤原顕隆が薨去したこともあって、当時尤も恐れるべき病とされた。 

花山院忠雅 花山院兼雅

 忠雅は幼少時に父を亡くし、母方の叔父・藤原家成に引き取られて育った。治天である鳥羽院第一の寵臣の家成の引き立てもあり、院近臣として順調に出世を重ねる。永治2年(1142年)に19歳で従三位として公卿に列する。この年より「悪左府」として有名な藤原頼長と男色関係に入る。
 康治2年(1143年)に美作権守、久安元年(1145年)に参議、久安4年(1148年)正三位・権中納言、保元元年(1156年)に中納言、左衛門督となる。力をつける平清盛にも近づき、息子・兼雅と清盛の娘を結婚させることに成功する。保元4年(1159年)に従二位、永暦元年(1160年)に権大納言、応保元年(1161年)に正二位・大納言、仁安2年(1167年)に清盛の太政大臣昇任に伴い内大臣。
 仁安3年(1168年)5月17日、辞職した清盛の後任として太政大臣就任、従一位に叙される。嘉応2年(1170年)6月6日まで勤める。承安元年(1171年)には娘を後任の太政大臣で後に関白になる松殿基房に嫁がせる。このように忠雅は、巧みな婚姻政策によって平氏政権の下で昇進し、後の花山院家の発展の礎を築いた。
 元暦2年(1185年)62歳で出家、法名は理覚。建久4年(1193年)に70歳で死去。 

 父・忠雅の後を継ぎ中央官界に進出、平清盛の娘を妻として、平氏政権下において順調に昇進を重ねる。このため寿永2年(1183年)には源義仲によって一旦官職を追われるが、後白河法皇の信任を背景に文治3年(1187年)に元の地位である大納言に復帰、以後正治2年(1200年)に左大臣に至るまで昇進を重ねた。激動期の宮廷にあって最終的に地位を全うしたことで、後世における花山院家の発展の基礎を築いた。和歌・今様に通じた才人でもあった。
花山院忠頼 花山院宣経
 正治3年(1201年)正月6日に従五位下に叙爵。建仁3年(1203年)に従五位上・侍従に叙任され、元久2年(1205年)正月5日に正五位下に昇叙。同年3月に禁色を聴された。元久3年(1206年)正月17日に従四位下、建永2年(1207年)正月13日には備前介に任ぜられ、承元2年(1208年)従四位上・右近衛中将となる。承元3年(1209年)正月13日に播磨権介を兼ねて、承元5年(1211年)正月5日に正四位下に昇叙。建暦2年(1212年)正月5日に14歳にして従三位に叙せられて公卿に列し、清華家の嫡男として順調に昇進するが、同年12月より病に倒れる。18日には祈禱療治も効果がないほどとなり、19日の朝に薨去した。享年14。嫡男でかつ才能があり、藤原定家は日記『明月記』の中で両親の心中を察するべしとその死を悼んだ。

 建暦2年(1212年)、伯父の忠経が嫡男である忠頼を失うと養子に迎えられる。だが、後に養父に実子である経雅,定雅が誕生したことにより、その立場は微妙なものになっていく。
 成長した宣経は公事において問題行動が目立ち、藤原定家からは「白痴」と非難される。それでも、養父・忠経の後堀河天皇への懇願によって、嘉禄2年(1226年)に蔵人頭に任じられ、翌年には参議、安貞2年(1228年)には従三位に叙せられた。ところが、寛喜元年(1229年)、養父が定雅を後継者として、宣経に所領の一部と引換に後見を命じて死去すると、同3年(1231年)頃より公事・儀式への不参が目立つようになり、天福元年(1233年)に「不仕」を理由に参議を停任されて事実上更迭された。その後、建長3年(1251年)に従三位前参議のまま出家した。建長5年(1253年)以降の動向については没年を含めて不明である。
 宣経は将来の花山院家の当主として養子に迎えられながら、養父に新たな嫡男の誕生と死去を繰り返したことによってその地位は常に不安定で、最終的には養父の実子(定雅)が当主になったことでその立場を喪失した。参議停任までに至る間の問題行動は宣経の資質のみならず、その微妙な立場が影響したと考えられている。宣経の子である経助,経乗,経豪,経家が全て僧になっているのも、彼ら父子が結果的に花山院家から排除されたことを示すとみられている。なお、鎌倉時代の辞典である『名語記』を執筆した僧侶・経尊も宣経の子であると推定されている。 

花山院忠子 花山院師信
 父・五辻忠継は、忠子が生まれた文永5年(1268年)に出家している。内大臣・花山院師継の養女として後宇多天皇の後宮に入り、弘安9年(1286年)に奨子内親王(達智門院)を産み、さらに尊治親王(のちの後醍醐天皇),性円法親王,承覚法親王をもうける。その後、舅である亀山院の寵愛を受け、永仁6年(1298年)7月21日、亀山院の沙汰により従三位となる。正安3年(1301年)7月20日 准三宮。嘉元3年(1305年)9月、亀山院の崩御により出家し、法名を蓮花智とした。当時、大覚寺統の嫡系は西華門院所生の後二条天皇およびその皇子の邦良親王とされていたが、延慶元年(1308年)後二条天皇が崩御し、若年の邦良親王に代わり中継ぎとして忠子所生の尊治親王が皇太子となった。尊治親王は文保2年(1318年)に即位し(後醍醐天皇)、忠子は同年4月12日に院号宣下を受け、談天門院と号した。翌元応元年(1319年)11月15日、52歳で薨去。   後宇多天皇の蔵人頭から17歳で参議、正安元年(1299年)に権中納言、嘉元元年(1303年)に権大納言と順調に出世を重ねる。2度の後宇多上皇の院政では、院伝奏を務めた。対立関係にある持明院統の花園天皇からも「和漢の才に富んだ補佐役」として評価されて信頼が厚く、花園朝では大覚寺統系の公家が軒並み要職から外されていく中で、正和5年(1316年)に異例の大納言昇進を果たした。続いて大覚寺統に政権が戻った後醍醐天皇の元応元年(1319年)には内大臣に昇進するが、2年後に病死。花園上皇がその日の日記に「大きな損失である」と記すなど、大覚寺統・持明院統双方からその死を惜しまれた。 
花山院師賢 花山院家賢

 正安4年(1302年)1月にわずか2歳で叙爵。徳治元年(1306年)12月に侍従になり、右少将,左中将などを経て、正和5年(1316年)11月に従三位、翌文保元年(1317年)12月に参議として公卿に列した。同2年(1318年)2月後醍醐天皇が践祚すると、7月には上席参議4人を越えて権中納言に任じられる。当初は父と同じく持明院統に出仕した師賢だが、その母が天皇の母(談天門院)と近い血縁に当たるためか、やがて後醍醐から重用されるようになり、中宮権大夫,左衛門督,弾正尹などを歴任した。折しも天皇は鎌倉幕府を打倒して朝権を回復せんとの志があり、日野資朝・俊基が催した討幕の密議(無礼講)には師賢もその同志として参加している。密議が露見した正中の変後も官途は順調に進み、正中3年(1326年)2月権大納言、嘉暦2年(1327年)11月正二位に叙任され、同4年(1329年)6月には大納言に転じた。
 元弘元年/元徳3年(1331年)8月、元弘の乱が勃発して天皇が京都から逃れるに及び、北長尾の山荘に隠棲していた師賢はこれに供奉して三条河原まで赴いたが、勅命によって天皇の身替りとなり、服装と腰輿を整え、四条隆資らの公卿を従えて比叡山に登った。これを天皇と思った延暦寺衆徒は大いに士気を挙げ、押し寄せる六波羅の幕府軍をよく撃退したため、天皇は追撃を受けずに笠置に潜幸することが可能となった。直にその謀略が露見し、失望した衆徒は離反するに至り、師賢らは密かに山を下って笠置に拠る天皇と合流した。しかし、1ヶ月に及ぶ幕府軍との攻防の末、9月28日に笠置が陥落し、師賢は天皇に従って敗走するも、その途中で捕捉されて、翌29日に出家を遂げた。法名を素貞という。10月に宇治平等院から六波羅に移送され、長井遠江入道の許へ預けられた。翌元弘2年/正慶元年(1332年)4月、幕府から遠流の処分が伝えられると、翌月中旬に京都を発って下総国に下り、千葉貞胤の家で拘禁の身となるが、10月末に病のため同地で薨去。享年32。後年、師賢を愛惜した天皇より太政大臣を追贈され、文貞公と諡された。
 二条派の廷臣歌人として、元亨以降の公宴に詠進したが、元弘の乱に際してその感慨を詠じた作品は特に評価が高い。『続千載和歌集』以下の勅撰集に14首、南朝の准勅撰集『新葉和歌集』に49首が採られた他、『臨永和歌集』などの私撰集にも入集する。『二八要抄』の編者ともされ、日記に『師賢卿記』(元応3年2月分のみ現存)がある。 

 元弘2年/正慶元年(1332年)、討幕に関与した父・師賢が流罪となったものの、母方からの庇護があったためか、北朝の下で官位は順調に進み、侍従,右近衛中将,春宮権亮などを経る。正平2年/貞和3年(1347年)11月に従三位に叙されて公卿に列し、正平3年/貞和4年(1348年)4月には参議に任じられ、正平4年/貞和5年(1349年)12月の崇光天皇即位式に際しては親王代を務めた。正平5年/観応元年(1350年)10月、大嘗会御禊行幸の供奉に関して「子細」を申し出たために職を止められたが、翌正平6年/観応2年(1351年)6月、花山院長定(母の弟)の推挙によって還任している。正平一統後も北朝に留まり、正平8年/文和2年(1353年)12月権中納言に任じられ、正平9年/文和3年(1354年)4月左衛門督を兼ねたが、閏10月には何らかの事情によって辞職しており、以降北朝での昇進は見られない。正平10年/文和4年(1355年)には、後光厳天皇が避難していた近江行宮(成就寺)への不参を咎められ、所領を一時没収される処分を受けている。
 正平12年/延文2年(1357年)2月に兄・信賢と一緒に南朝(当時の行宮は金剛寺)へ参候し、そのために家領を没収される旨の沙汰があったことが『園太暦』に見える。南朝においては元の官位のまま任用されたらしく、権中納言や右近衛大将などを経て、正二位内大臣に至った。正平21年/貞治5年(1366年)6月23日に現職で薨去。
 南朝歌壇における中心歌人であり、自邸で百首歌を主催した他、正平18年(1363年)の『内裏名所百首』『探題五十首』、同20年(1365年)の『内裏三百六十首歌』『探題七百首』などに詠進した。准勅撰集『新葉和歌集』には「妙光寺内大臣」として52首が入集し、また、勅撰集『新続古今和歌集』にも1首が入集する。


花山院長親 花山院師兼

 正平21年/貞治5年(1366年)、20歳の時に相次いで父と兄を喪い、家督を継承。南朝の補任記録が残されていないために官歴の次第は明らかでないが、建徳2年/応安4年(1371年)中納言となり、程なく文章博士を兼ねて准儒の宣旨を受けた。天授2年/永和2年(1376年)には大納言に進んでおり、弘和元年/永徳元年(1381年)には右近衛大将を兼任。元中6年/嘉慶3年(1389年)以前に内大臣に至った。
 南朝における事績は判然としない。ただ、学芸と歌道の才能をもって後村上・長慶天皇や宗良親王から信任を得て、正平20年(1365年)の『内裏三百六十首歌』、建徳2年(1371年)の『三百番歌合』、天授元年(1375年)の『五百番歌合』などの和歌会でその作者となり、同2年(1376年)夏に発意された『千首和歌』の人数に加えられた際は、病気を理由に一旦辞退したものの、翌年(1377年)詠進して宗良親王からの加点を受けた。
 南朝末期には吉野を離れて流浪していたらしく、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一以前に上洛して妙光寺で出家し、臨済宗法燈派の聖徒明麟に就いて子晋明魏と号した。応永2年(1395年)東山如住院へ移り、同5年(1398年)その付近に耕雲庵を結んで南禅寺の塔頭とし、その庵号をもって耕雲とも称する。
 長親の歌人としての名声は京都でも聞こえ、やがて足利将軍の歌道師範となり、同14年(1407年)12月、足利義満の十首歌へ批点を加え、翌15年(1408年)3月には歌論書『耕雲口伝』を編む。同18年(1411年)大内盛見に『古今集』を講じ、同20年(1413年)将軍・足利義持に『孟子』を進講した。同21年(1414年)2月、義持の命で冷泉為尹,宋雅とともに北野社十五首歌を詠進し、同年冬には足利満詮邸で「七百番歌合」(散佚)の判者を務めている。またこれ以降、義持の没する応永35年(1428年)まで厚遇を受け、奈良や天橋立などの遊覧、北野,男山,清水寺への参宮・参籠などにしばしば随行したが、同25年(1418年)9月の伊勢参宮に随行した際の紀行文が『耕雲紀行』である。その他、同26年(1419年)、伏見宮貞成親王の仙洞歌会や歌合に参会し、同29年(1422年)5月『日御碕社造営勧進記』を記し、同32年(1425年)頃には正徹とも親交を得るなど、晩年まで幅広く活躍した。
 正長2年(1429年)7月10日に薨去、享年83か。終焉の地に関しては、京都東山の耕雲庵にて薨去したとみる説が有力である。南朝廷臣の前歴を持ちながら、学芸を事として武家の知遇を得て、さりとて厳格な五山文学にも赴かず、世俗と交わって安穏な後半生を過ごした。こうした事情を反映してか、晩年の歌風には新古今調のものは少なく、二条派の枠組みに自身のあるがままの境遇を織り込んだ懐旧的な詠が多い。『新続古今和歌集』に「明魏法師」として6首入集する。

 天授元年/永和元年(1375年)の『五百番歌合』において春宮権大夫(本官は権中納言か)として出詠しているのが初見。天授2年/永和2年(1376年)夏末に始まる『千首和歌』にも詠進し、天授年間に成立したと考えられる家集『師兼千首』の位署に「正二位行権大納言兼春宮大夫大学頭」とある。弘和元年/永徳元年(1381年)1月内裏歌会の序を奉り、同年12月成立の『新葉和歌集』には24首が入集。元中3年/至徳3年(1386年)8月には長親らとともに『法門四十七首和歌』に詠進した。
 元中4年/嘉慶元年(1387年)、勅使として九州へ下向したことが『桜雲記』『南方紀伝』に見えるものの、その傍証となる史料を欠くために真偽の程は不明である。元中6年/嘉慶3年(1389年)1月には左近衛大将であった。以後の動向は定かでないが、明徳4年(1393年)3月12日に嵯峨で薨去した「南方花山院内大臣四十五」とは、師兼のことである可能性が高い。恐らく南朝の最末期に内大臣へと昇進し、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一を迎えて入洛したと考えられる。


玄城房尋覚

 東大寺の僧であった玄城房尋覚が、母が肥前国松浦郡宇野御厨内小値賀島の本領主・清原是包の妹であった所縁から平安時代末に肥前国五島へ渡り、小値賀島と浦部島を譲られ土着した。その後、建久7年(1196年)に小値賀島地頭職に補任され、御家人となった。
 玄城房尋覚の次男・家高が青方氏を名乗っており、元寇の勲功の賞として、肥前国神埼荘の配分を受けた。南北朝時代には松浦一族とも称している。青方氏は戦国時代に入ると五島氏(宇久氏)の家臣となり、一時太田氏を名乗ったが、青方の旧領を安概され青方姓に復した。江戸時代は五島藩(福江藩)の家老職を務めた。