<藤原氏>北家 御堂流

F521:藤原師輔  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 F701:藤原道長

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藤原道長 藤原頼通

 後一条天皇,後朱雀天皇,後冷泉天皇の外祖父にあたる。父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、5男であり道隆,道兼という有力な兄がいたため、さほど目立たない存在だったが、兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。
 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には4女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。
 晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けている。

 

詳細はWikipedia(藤原道長)を参照  

 

 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇,後冷泉天皇の治世に亘り、関白を50年の長きに亘って務め、父・道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったことや刀伊の入寇,平忠常の乱,前九年の役などの戦乱が勃発し、朝廷内部での絶対的な権勢とは裏腹に内外においてはその政治的基盤を揺るがす事態が相次ぎ、加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家は衰退へ向かい、やがて白河天皇が譲位した後に開始した院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。

 

詳細はWikipedia(藤原頼通)を参照

 

藤原顕信 藤原長信

 寛弘8年(1011年)10月に右馬頭に任官。翌寛弘9年正月19日(1012年2月19日)、世を儚み行願寺(革堂)の行円の許を訪ねる。その教えに感銘を受けてそのまま剃髪し、比叡山無動寺に出家した。その将来に期待していた両親は、大いに嘆き悲しんだと言われる。
 その後、無動寺から大原に移って仏道修行に励んでいたが、余命短い事を悟って延暦寺の根本本堂に2週間籠った後に無動寺にて病死したという。
 顕信の出家の2ヶ月前にあった事件がその一因であったとの説がある。寛弘8年12月15日、藤原伊周の子・道雅と道長の次男・頼宗及びその舎弟が、派遣先の北野の斎場にて他人の悪口を言い合っていたことが発覚している。『小右記』では頼宗の弟が誰であるかは明らかにはされていないものの、状況的に道雅,頼宗と居合わせられる弟は顕信以外にはいなかったと考えられる。その4日後の19日、三条天皇から道長に対して藤原通任の参議昇進で空席となった蔵人頭に顕信を就ける意志を告げたところ、道長が顕信は「不足職之者」で「衆人之謗」を招くとして辞退を申し出ている。道長の辞退の理由は15日の一件と考えられているが、同時に天皇の前で父親から「不足職之者」と評された顕信は、自己の将来に対する不安を抱えていたことが突然の出家につながったというものである。 

 通称は池辺僧正。仁和寺観音院の延尋(源扶義の子)の元に入門して出家、永承3年(1047年)に同院で性信入道親王から灌頂を受ける。永承5年(1049年)に東寺に移って権少僧都・一身阿闍梨となる。天喜2年(1054年)には東寺と真言宗全体の長である第29代東寺長者に任じられて法印に昇進する。治暦2年(1066年)権僧正となり、この年の旱魃に際して僧侶20人を率いて雨乞いの修法を行った。延久2年(1070年)には僧正に任じられて、翌年には東寺内に池坊を建立してそこに居住する。後三条天皇の信任が厚く、この年には百官を連れて長信の元を訪れ、封戸25戸を下賜された。晩年は仁和寺などの別当を務めた。 
藤原彰子 藤原妍子

 第68代・後一条天皇,第69代・後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院といい、のち大女院などと呼ばれた。女房に『源氏物語』の作者・紫式部、王朝有数の歌人・和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、同じく歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成した。
 父・道長の長女として世人の嘱目のもとに育つ。長保元年(999年)11月1日、8歳年上の従兄一条天皇に入内し、同月7日に女御宣下(同日、中宮定子が第一皇子・敦康親王を出産)。翌年2月25日、皇后に冊立され「中宮」を号した。同年末に定子が難産で崩御した後は名実共に唯一の后となった。しかし、立后後もなかなか懐妊しなかったためか、定子所生の敦康親王を手元に引き取って養育した。
 寛弘5年(1008年)9月11日、土御門殿にて第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。翌年、さらに敦良親王(後朱雀天皇)を産む。
 寛弘8年(1011年)6月13日、死の床にあって一条天皇は皇太子・居貞親王(三条天皇)に譲位、彰子所生の敦成親王の立太子が決定したが、一条天皇の真意が第一皇子・敦康親王にあったことを察していた上に自身も深い愛情を込めて養育していた彰子は、敦成親王の立太子を後押しした父を怨んだという。
 長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。道長の出家後、彰子は頼通らと協力して摂関政治を支えた。
 万寿3年(1026年)正月19日、落飾し法名を清浄覚とし、同日、東三条院詮子の先例にならって女院号を賜り、上東門院を称した。後年、父・道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいう。
 長元9年(1036年)4月17日に後一条天皇、寛徳2年(1045年)正月18日に後朱雀天皇が崩御し、10年の間に二人の子を失った。その後は孫の後冷泉天皇が即位した。永承7年(1052年)には重篤な病に陥るが、弟の頼通,教通らは国母の病気平癒の願いを込めて大赦を奏請し、これにより前年から始まっていた前九年の役が一時停戦となっている。その後体調は回復したが、後冷泉天皇のみならず、父が全盛を築いた摂関政治を終焉に導くこととなった後三条天皇と、二人の孫にまで先立たれた。彼女は比較的多くの和歌を残したが、なかでも後一条天皇の死後に詠んだ「ひと声も君に告げなんほととぎす この五月雨は闇にまどふと」等、肉親の死を悼んだ歌が多い。
 曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内で、87歳で没した。同年2月2日には長弟の頼通が亡くなっている。また、翌年には次弟の教通も没し、院政開始への道が敷かれた。東山鳥辺野の北辺にある大谷口にて荼毘に付され、遺骨は宇治木幡の地にある藤原北家累代の墓所のうち、宇治陵に埋葬された。葬送の日、弟の関白・教通は御禊を目前に控えながら白河天皇の制止を振り切り、霊柩の後を歩行して扈従したという。 

 寛弘元年(1004年)11月正四位下、尚侍に任官。同年12月従三位。同7年(1010年)1月従二位、2月、皇太子居貞親王(のちの三条天皇)に入内。同8年(1011年)三条天皇が即位し、女御宣下を受ける。同9年(1012年)、中宮に冊立。長和5年(1016年)三条天皇退位、寛仁元年(1017年)三条天皇崩御。同2(1018年)、皇太后。万寿4年9月14日(1027年10月16日)出家、同日崩御。享年34。
 妍子が東宮妃として入内した時、姉の一条天皇中宮・彰子には、敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)が生まれており、順調にいけば道長がいずれ天皇の外祖父・摂政となる可能性が濃厚であった。しかし、その前にこれまで結びつきの弱かった東宮・居貞親王に、道長は第二の布石として妍子を入内させたのである。居貞親王には娍子(藤原済時女)との間に既に4男があったから、妍子の使命も姉・彰子同様に男子を産むことであったのは言うまでもない。翌年、一条天皇の崩御により三条天皇が即位すると、その翌年2月に妍子は中宮に冊立され、4月、娍子は皇后に冊立された。
 しかし長和2年(1013年)、妍子が出産したのは女子(禎子内親王、のちの陽明門院)であった。妍子に皇子が誕生することで、道長と三条天皇の間の関係修復を期待されていたのだが、それも無に帰してしまい、道長はこの内親王誕生に大層不機嫌であったという。結局その後も皇子は生まれず、三条天皇は道長の圧力に押し切られて譲位、ほどなく崩御した。妍子の皇子が帝位に就く可能性はこれでなくなり、また皇后娍子所生の敦明親王が三条天皇の没後に皇太子を辞退してしまったこともあって、冷泉天皇系の男子の皇統は完全に将来を閉ざされることになった(ただし女系は禎子内親王を経て後三条天皇へと受け継がれた)。
 妍子は道長の娘達の中でも特に美しく、また妍子に仕える女房達の衣装が贅沢すぎることで兄・頼通が叱責したとの逸話もあり、やや派手好きな性格であったらしい。しかし皇太后とはいえ、皇子の出産なく終わった彼女は、もはや表舞台に立つ存在ではなくなっていた。その後、妍子は一人娘・禎子内親王と共に三条天皇から伝領した枇杷殿に住み、万寿4年(1027年)3月に禎子内親王が東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)に入内するのを見届けて、その半年後に病で崩じた。華美を好むあまりに身内の眉をひそめさせることもあった妍子だが、亡くなる間際に身を清め、正式な受戒を済ませての潔い臨終であり、道長は末娘・嬉子に続く次女の死に「老いた父母を置いてどこへ行かれるのか、私達も供をさせてくれ」と泣いて取り縋ったと伝えられる。 

藤原威子 藤原嬉子

 長和元年(1012年)尚侍に任官。正四位下に叙され、同年着裳・従三位に昇叙。同2年(1013年)従二位、寛仁元年(1017年)御匣殿別当を兼任。同2年(1018年)3月、甥の後一条天皇に入内。4月に女御宣旨を受け、10月中宮に冊立。長元9年(1036年)4月、夫の後一条天皇崩御。同年9月4日出家し2日後に崩御。享年38。
 道長,倫子夫妻の3女。長姉・彰子所生の後一条天皇の元服を待って、20歳で入内した。夫帝より9歳年長の妃であり、威子自身はこれを恥ずかしがったというが、実力者道長の娘として重んじられ、威子の兄弟達さえも娘の入内を憚って、道長亡き後もついに後宮に他の妃が入ることはなかった。また威子の立后は道長が三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて我が娘で占めるという前代未聞の偉業の達成である。「この世をば」の和歌は、この時に祝宴で詠まれたという。
 しかし、唯一の后でありながら威子が産んだのは二人とも女御子で、第一皇女・章子内親王出産の折には、周りの失望に天皇が「昔は女帝が立ったこともあるのだから」と言って威子を庇ったという話が『栄花物語』に見られる。その後もついに男御子が生まれることはなく、天皇が29歳の若さで崩御した半年足らず後に、威子もまた疱瘡で崩じた。威子の遺児である2人の幼い内親王はその後祖母(伯母でもある)の彰子,伯父・頼通が後見となり、長じて従兄弟の後冷泉・後三条兄弟にそれぞれ入内したが、どちらも子女をもうけることはできずに終わったため、後一条天皇と威子の血筋はここに完全に絶えた。 

 寛仁2年(1018年)、尚侍に任官。同3年(1019年)着裳、従三位に叙される。同5年(1021年)、兄・頼通の養子として皇太弟・敦良親王(後朱雀天皇)に入内。万寿2年(1025年)8月3日、皇子(親仁親王、後冷泉天皇)を出産するが、赤斑瘡でわずか2日後に薨去。享年19。同29日正一位を追贈。寛徳2年(1045年)、後冷泉天皇即位に伴い皇太后を追贈される。
 道長,倫子夫妻の末娘で、三后を占めた姉たちと共に東宮妃として、またいずれは国母として輝かしい将来を約束されていたはずの嬉子だったが、夫・東宮の即位を待たず姉妹の中で最も早くに亡くなった。入内した道長一族の娘たちの中で、嬉子の産んだ後冷泉天皇が結果的に最後の皇子となり、その後冷泉天皇にもついに世継ぎができなかったため、彼女の死が摂関家の斜陽の始まりであったといえる。
 嬉子の死去を聞いて父・道長は動揺し、陰陽師・中原恒盛らを呼んで、中国の故事にある「屋敷の東の屋根に上り、衣を振って三回名前を呼ぶ」(『礼経』檀弓編三)に従って「魂呼」という蘇生の儀式をさせていることが『小右記』『権記』に記録されている。

藤原提子(寛子) 藤原尊子

 別名、高松殿女御。なお、長和2年9月16日(1013年10月23日)に道長の娘たちが叙位された件について『御堂関白記』には、提子、『小右記』には媞子という名称で登場しており、寛子は後の改名であったと考えられている。
 寛弘6年(1009年)に着裳の儀式を行い、従四位上を叙される。長和2年(1013年)従三位に昇進。寛仁元年(1017年)11月22日、敦明親王と結婚し、高松殿を居所とする。同2年(1018年)に儇子内親王、治安3年(1023年)に敦元親王を産む。万寿2年(1025年)、27歳で薨去。
 三条天皇の死後、自ら皇太子を退いた敦明親王への返礼の意味も兼ねて、道長は娘・寛子の婿に親王を迎えた。しかし既に皇子をもうけていた妃・延子とその父・藤原顕光は激しい嘆きのうちに相次いで死去、後に病に倒れた寛子の臨終には二人の怨霊が現れたという。

 初名は隆子。なお、初名については父・道長の『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』に記されており、婚姻時に夫の姉で尊子の異母兄・藤原頼通の正室でもあった隆姫女王(具平親王女)の名前と重なるために改名したと考えられている。
 寛弘4年(1007年)4月27日に弟の長家とともに着袴の儀式を行い、長和2年(1013年)9月16日に従四位下を叙される。長和4年(1015年)9月20日には従三位に昇進。寛仁元年(1017年)4月26日に長家の元服に合わせて着裳の儀式を行った。
 万寿元年(1024年)3月27日、当時、右近衛権中将であった頼通の猶子・源師房と結婚した。元皇族であるとは言え、道長の娘で「たゞ人」(非皇族・非公卿)と婚姻を結んだのは尊子だけであった。『大鏡』,『栄花物語』によれば、これに尊子の同母兄である頼宗や能信は強い不満を抱いたとされている。だが、当時の皇族,公卿の中に道長の娘婿に相応しい未婚の適齢者がいなかったのは事実であり、また道長にとって師房は「義理の孫」にあたり、これを可愛がっていたことから道長にとっては身内に嫁がせるのと全く同じであったのである。またこれは他の藤原氏の公卿と争って摂関の独占を果たした道長一門にとっては藤原氏と摂関の地位を争う立場にはない村上源氏の公卿との連携は不可欠であったという側面もあった。事実、頼通の後継者とされていた通房(早世),師実(関白)の正室はともに師房・尊子夫妻の娘であり、以後両家は婚姻を重ねながら、宮廷政治を動かすようになっていく。また、夫婦関係は半世紀以上にわたって良好であり、夫の死後も2人の息子が揃って左大臣・右大臣に並び立つなど、自身または夫の死によって決して幸福とは言い難かった他の道長の娘の結婚生活と比較をすれば、幸福なものであったと言えるだろう。
 承保4年(1077年)夫の死と自らの病気によって出家、10年後に没したといわれているが、晩年の動向は不詳である。 

藤原師実 藤原通房

 頼通の息子の内、祇子所生の男子は正室・隆姫女王と嫡男・通房(母は源憲定の娘)への配慮から全員他家へ養子に出されていたが、師実の誕生から程なく通房が急死したため、師実が摂関家の後継者に立てられた。
 師実は養女の賢子(源顕房の娘)を白河天皇に入内させると、賢子は天皇の寵愛を受け、さらに長男・敦文親王を産んだことから中宮に冊立され(敦文親王は早世するが、後に善仁親王(後の堀河天皇)を産む)、師実の後宮政策は成功した。後に、叔父の関白・教通の生前より、教通およびその子で従兄の信長と摂関・藤氏長者の地位をめぐって対立するが、そもそも頼通から教通へ継承される際に「教通は一代限りで、次代は頼通の子に継承させる」とする遺言があり、上東門院彰子などの監視もあったために、教通・信長親子は師実を完全に排除することができず、逆に、教通が左大臣職を師実に譲るなどして、遺言を実行するような気配を見せるなどせねばならなかった。頼通・師実家の権勢を削るために、自らも痛手を受けることを覚悟の上で、後三条天皇が行った延久の荘園整理令の施行を事実上容認したりもしている。
 信長に摂関の地位を継承させることができないままに教通が死去すると、師実は左大臣として既に「一上」であり内大臣の信長よりも上席であり、また、藤原氏との関係が希薄な弟宮達(実仁親王,輔仁親王)ではなく、自らと賢子の間に生まれた善仁親王への皇位継承を望んでいた白河天皇と協調することで、教通死去後、即座に師実が内覧(摂関)・藤氏長者となることに成功した。この体制には反対勢力もあり、信長の2年にわたる出仕ボイコットなど対立は数年に及んだが、自らに反対する貴族らのシンボルとなっていた内大臣の信長を、左大臣である自分を飛び越えさせてまで(事実上名誉職となっていたが、地位的には左大臣より上席の)太政大臣に据えつつも一座宣旨をうけることで、左大臣以下の人事を自らの意のままとして権勢を固めた。
 白河天皇も師実には一目置き、院政を開始した後も師実の意向には配慮するように努めている。実際、白河上皇は院庁の人事さえも師実の人選に任せ、師実も上皇の娘・郁芳門院が亡くなった時に悲しみに暮れる上皇に代わって葬儀の準備を行っている。
しかし、賢子の入内は村上源氏の勢力伸張をも意味し、さらに息子の師通と師実自身の相次ぐ薨去により、若年の忠実が跡を継がざるを得なかったことや、堀河天皇の早世により摂関家が天皇の外戚の座を失ったことにより、結果として摂関政治の弱体化がより進むこととなった。
 和歌に優れ、『後拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に16首が入首、また家集に『京極関白集』がある。関白を辞した直後の嘉保元年(1094年)に開いた高陽院歌合は非常に盛大なものであり、『高陽院七番歌合』として現在にも伝わっている。また、琵琶を源資通に、笛を藤原宗俊に学び、音楽面でも才能を見せたと言われている。日記に『京極関白記』(『後宇治御記』または『師実公記』とも)がある。
 のち、信長の娘(養女)を自らの子息・師通の室に迎えている。

 頼通の庶長子として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王は男子に恵まれなかったため、嫡男とされた。また、頼通の正室への配慮と摂関家を継ぐという重要性から、摂関家の事実上の長である祖父・道長の土御門殿で養育される。後に隆姫の弟である源師房の娘を正室に迎えて、正室・隆姫と嫡男・通房との間に血縁関係を成立させることになる。
 長元8年(1035年)7月13日に元服すると、直ちに正五位下に叙せられ、10月16日に侍従に任じられる。11月19日に左少将に任じられ、翌長元9年(1036年)正月7日に従四位下、7月10日に従四位上、11月16日に正四位下と昇叙し、12月8日に右中将に転じる。長暦元年(1037年)10月23日にはわずか13歳で従三位に叙され三位中将となった。長暦2年(1038年)6月19日に正三位、8月26日に従二位に昇叙し、長暦3年(1039年)1月29日には15歳の若さで権中納言に任じられた。同年閏12月26日に正二位に昇叙し、長久3年(1042年)10月27日には権大納言に昇進し、長久4年(1043年)11月27日には右大将を兼ねたが、翌長久5年(1044年)4月27日に突然の病により20歳の若さで薨去してしまった。このため、他家に養子に出される予定であった異母弟の師実が後継者として摂関家を継承することになった。
 通房の詠んだ和歌が『後拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に1首ずつ入集している。

 

藤原覚円 藤原寛子

 宇治僧正とも称される。園城寺明尊のもとで出家し、顕教・密教を学んだ。天喜2年(1054年)権少僧都、天喜3年(1055年)法印、康平6年(1063年)園城寺長吏、康平8年(1065年)大僧正に任じられた。
 承暦元年(1077年)に天台座主就任の勅許を受けたが、延暦寺門徒の反対により3日で辞任に追い込まれ、代わりに法勝寺別当となった。その後は、宮中で修法を行い霊験が著しかったという。宮中や貴族たちの信任が厚く、嘉保3年(1096年)1月には牛車宣旨を賜っている。
 最近の調査により、承徳3年(1099年)没ではないかという学説が論じられた。

 

 寛子の母・祇子は素性がはっきりせず、母方の血統を重んじた当時、身分低い女性から生まれたことは貴族社会において不利であったが、子女に恵まれなかった頼通にとっては待ちに待った娘であった。特に養女・嫄子(後朱雀天皇中宮)が早世した後は、頼通はこの一人娘に皇太子誕生の命運を賭けて永承5年12月22日(1050年2月5日)後冷泉天皇に入内させ、さらに翌年2月13日(1051年3月27日)、皇后(皇后宮)に冊立する。既に中宮として章子内親王がいたが、通常ならば先立の中宮である章子を皇后宮、寛子を中宮とするところを章子の希望で章子は中宮のまま留め置かれ、寛子が皇后宮とされた。 父・関白の強力な後見を受けて、歌合を催すなど風流を好んだ寛子の御殿は非常に華やかであった。その様子は、寛子に仕えた女房下野の私家集『四条宮下野集』に記されている。
 しかし父・頼通の多大な期待を背負い、素直な明るい気質で後冷泉天皇の篤い寵愛を受けたにもかかわらず、皇后・寛子はついに子を産むことはなかった。治暦4年4月17日(1068年5月20日)、藤原歓子(叔父・藤原教通の娘)の皇后(皇后宮)冊立を受けて皇后(中宮)に冊立。ここに、三后が並立する事態となった。なお、皇后宮から中宮になったのは寛子ただ一人である。翌々日、後冷泉天皇に先立たれた寛子は、同年12月に出家する。翌延久元年7月3日(1069年7月23日)皇太后、延久6年6月20日(1074年7月16日)太皇太后となる。彼女の晩年にあたる12世紀前半には、すでに摂関政治の栄華も過去のものとなっていたが、父・頼通や伯母・藤原彰子らその栄華の中心人物と直に接していた寛子は、藤原忠実(頼通の曾孫)ら摂関家の人々から過去(摂関政治全盛期)の故実に通じた人として敬意が払われ、没後も「四条宮故実」として彼女による先例は重んじられた。忠実の言行を記した『富家語』や『中外抄』にも彼女の故事が登場している。大治2年(1127年)92歳という高齢で宇治別宅にて死去した。

藤原師通 藤原賢子

 承保3年(1076年)、権大納言・藤原俊家の娘である全子を妻に迎える。承暦2年(1078年)に長男の忠実が生まれるが、夫婦関係は冷却化する。この恨みを全子は生涯忘れず、父・俊家の画像を描かせて礼拝し、師通を呪ったという。その後、藤原信長(教通の子)の養女である信子を正室にする。これは頼通流と教通流による摂関家内部の長年の対立に終止符を打つものだった。寛治8年(1094年)、師実の後を継いで関白に就任すると、16歳となり政治的自立を志向する堀河天皇と共に積極的な政務を展開する。
 特に白河上皇の政治介入には批判的で、師通は大江匡房に学問を学び、匡房に代表される伝統的な実務官僚層を掌握する。一方で、新興の院近臣勢力に対しては警戒感を示し、藤原顕季の邸を身分不相応だとして破壊したという話が伝わっている。また、上皇が近臣受領を受領功過定を経ずに重任させようとしたのを制止している。その政治は、「嘉保・永長の間、天下粛然」と評された。
 嘉保2年(1095年)、美濃守・源義綱の流罪を求める延暦寺・日吉社の強訴に対して要求を拒否し、源頼治を派遣して大衆を撃退した。この際に矢が山僧,神人に当たり負傷者が出たことで、延暦寺は朝廷を呪詛した。承徳3年(1099年)、師通は悪瘡を患い38歳で急死する。師通の政権は僅か5年で終焉することになり、延暦寺は神罰が下ったと喧伝した。後継者の忠実は22歳で政務の経験に乏しく、引退していた師実にも忠実を支える余力は無かった。師通が有能であっただけにそれを喪った摂関家は院に対する従属を余儀なくされ、その勢力を大きく後退させることになる。
 日記に『後二条師通記』がある。
 性格は剛直で気が強く、真面目で物事の道理を重視する性格であったと伝えられている。また体躯も立派であり、歴代天皇の御物である絃上という琵琶を弾いた際、琵琶がまるで塵のように小さく見えたとの話が伝わっている。 

 第72代白河天皇の中宮、第73代堀河天皇の国母。太政大臣・藤原師実の養女。実父は右大臣・源顕房、母は源隆俊の女・隆子。白河天皇の寵愛の后であり、その死を悲しんで天皇は数日食事をとらなかったという。贈太皇太后。
 延久3年(1071年)3月9日、東宮・貞仁親王に入内する。貞仁親王即位(白河天皇)に伴い、延久5年(1073年)7月23日に女御となり、翌6年(1074年)6月20日に中宮に冊立された。このとき懐妊中であり、同年(改元して承保元年)12月、第一皇子・敦文親王を産む。承保4年(1077年)に敦文親王は夭折するが、承暦3年(1079年)に善仁親王(後の堀河天皇)を出産。他に媞子内親王(郁芳門院),令子内親王,禛子内親王を産んだ。応徳元年9月22日、28歳で崩御。
 賢子を非常に寵愛した白河天皇は、賢子が重態に陥った時も宮中の慣例に反して退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に摂らなかった。これを見かねた権中納言・源俊明が、天皇は穢れに触れてはいけないからと遷幸を勧めると、「例はこれよりこそ始まらめ」と反論した。白河天皇の嘆きはひとかたならず、応徳3年(1086年)円光院を建て遺骨を納め、毎月仏像を造り、さらに円徳院,勝楽院,常行堂などを建てて供養した。陵は京都市伏見区の上醍醐陵。
 後三条院とその母・陽明門院は、藤原北家御堂流を外戚の地位から外すために、白河天皇の異母弟・実仁親王、さらにその弟の輔仁親王(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を白河天皇の皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発し、応徳2年(1085年)に実仁親王が疱瘡により15歳で夭折すると、その翌年には賢子所生の善仁親王を皇太子に立てその日のうちに譲位してしまった。これを契機として院政という政治形態が成立してゆくことになる。
 寛治元年(1087年)12月28日、堀河天皇が即位すると皇太后を追贈されている。

藤原家隆 藤原成隆

 摂関家の子弟として生まれながら、母の身分が低かったことに加え、早くに父を喪ったこともあって、公卿昇任は果たせずに終わっている。永長元年12月26日(1097年1月12日)に元服。異母兄の忠実に近侍したとされ、忠実と同じく土佐守・藤原盛実の娘を妻として、嫡子・成隆を儲けている。また娘の一人(待賢門院女房)が平忠盛の側室となって、教盛を儲けたことでも知られている。
 『中外抄』下巻第32条には、忠実の孫である興福寺権別当・覚継が出家の身にあることに不満を述べていることに対し、忠実の家司であった中原師元が「覚継は忠実の引き立てがあるから仏教界においても今日の地位を得ているのであり、たとえ俗界にあったとしてもその後ろ盾が無ければ、家隆の地位をも越えることができないであろう」と語ったとあり、摂関家子弟であったとしても必ずしも栄達できる訳ではないことの事例として引き合いに出されている。 

 仁平3年(1153年)に従四位上に叙せられる。左大臣・藤原頼長とは父方,母方の双方で従兄弟同士の間柄であり、その関係から頼長の家司、近習として活動。保元元年(1156年)の保元の乱に当たっては、頼長とともに崇徳上皇方に参加する。
 敗戦後、上皇の命を受け、頼長を護衛し騎馬に同乗して敗走するが、頼長は源重貞の放った矢に当たり重傷を負う。介護の甲斐なく頼長が死亡すると、成隆は数日間仁和寺に潜伏した末、出家した上で官軍に投降。審議の末に阿波国への流罪に処せられた。『尊卑分脈』の記述によれば、その後帰京し没したという。