<藤原氏>北家 御堂流 ― 花山院流

F789:冷泉為相  藤原道長 ― 藤原長家 ― 二条俊忠 ― 藤原俊成 ― 藤原定家 ― 冷泉為相 ― 今城定淳 F744:今城定淳

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今城定淳 今城定政

 天正13年(1585年)、冷泉為満が勅勘を蒙り京都を出奔したため、中山親綱の次男が、冷泉家の通字「為」を入れて為親と名乗り、冷泉為満の養子となって家督を継承した。しかし、慶長3年12月7日(1599年1月3日)に為満が当主に復帰した。為親は上冷泉家の当主ではなくなったが、新たに堂上家を創設することが許され、中山冷泉家を興した。そして、孫の為継が定淳と改名し、今城を名乗る。 

 中山孝麿の子で、今城定徳の婿養子。1901年(明治34年)に慶應義塾大学政治科第一回の卒業生となる。
 1902年(明治35年)、イギリス国王・エドワード7世戴冠式に明治天皇の名代として派遣された小松宮彰仁親王に父が随行した際、通弁役として渡英し、さらにヨーロッパを視察して回る。1903年(明治36年)、一年志願兵として近衛歩兵第3連隊に入り、1905年(明治38年)10月に除隊となる。その後、中山侯爵家の事務所理中となった。
 1911年(明治44年)7月、貴族院子爵議員に選出され、貴族院が廃止された1947年(昭和22年)5月まで在任。1942年(昭和17年)に永年在職議員として表彰を受けた。1912年(大正元年)より、大喪使祭官,明治天皇霊柩供奉,同奉紀祭官,旧堂上華族保護資金調査委員などを務める。

今城誼子
 女子学習院高等科卒業、1929年より当時の皇太后(貞明皇后)に出仕、「浜菊掌侍」という源氏名で呼ばれた。皇太后は宮中祭祀に熱心で、旧来の皇室の慣習を厳格に守る人物であり、今城は出仕中に強くその考えに傾倒したものと思われる。1951年の皇太后の崩御後、当時の侍従次長・甘露寺受長の紹介で香淳皇后に出仕することとなった(女官昇任は1953年4月10日)。皇后の信頼が極めて厚くなり、それを背景に宮中で強い影響力を振るうに至ったが、入江相政(1969~85年まで侍従長)ら昭和天皇付の側近と対立、最終的には昭和天皇の支持を得た天皇側近たちによって、1971年(昭和46年)、自主退職に追い込まれる。入江は1965年(昭和40年)以降、その日記で「魔女」というニックネームで今城のことを記述しているほど、彼女を忌み嫌っていた。