天正13年(1585年)、冷泉為満が勅勘を蒙り京都を出奔したため、中山親綱の次男が、冷泉家の通字「為」を入れて為親と名乗り、冷泉為満の養子となって家督を継承した。しかし、慶長3年12月7日(1599年1月3日)に為満が当主に復帰した。為親は上冷泉家の当主ではなくなったが、新たに堂上家を創設することが許され、中山冷泉家を興した。そして、孫の為継が定淳と改名し、今城を名乗る。
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中山孝麿の子で、今城定徳の婿養子。1901年(明治34年)に慶應義塾大学政治科第一回の卒業生となる。 1902年(明治35年)、イギリス国王・エドワード7世戴冠式に明治天皇の名代として派遣された小松宮彰仁親王に父が随行した際、通弁役として渡英し、さらにヨーロッパを視察して回る。1903年(明治36年)、一年志願兵として近衛歩兵第3連隊に入り、1905年(明治38年)10月に除隊となる。その後、中山侯爵家の事務所理中となった。 1911年(明治44年)7月、貴族院子爵議員に選出され、貴族院が廃止された1947年(昭和22年)5月まで在任。1942年(昭和17年)に永年在職議員として表彰を受けた。1912年(大正元年)より、大喪使祭官,明治天皇霊柩供奉,同奉紀祭官,旧堂上華族保護資金調査委員などを務める。
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