<藤原氏>北家 御堂流

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藤原頼宗 藤原兼頼

 幼名は厳。寛弘元年(1004年)元服と同時に従五位上に叙せられる。道長の正室とされたのは頼宗らの母の源明子ではなく、源倫子であったため、倫子腹の異母兄弟である頼通,教通に比べ、頼宗の昇進は遅れた。長和3年(1014年)に権中納言、治安元年(1021年)に権大納言に至る。
 春宮大夫・右近衛大将などを兼任し、永承2年(1047年)内大臣、康平3年(1060年)に右大臣に昇任した。康平8年(1065年)1月に病のため出家し、同年2月3日に73歳で薨去。
 和歌に優れ、『後拾遺和歌集』(18首)以下の勅撰和歌集に41首が入集。家集に『堀河右大臣集(入道右大臣集)』がある。歌人として紀貫之,平兼盛と並び称されることがあった一方、「この右府ののしる歌は、みな凡俗の境にのぞめり」(『八雲御抄』)との評価もある。また、大弐三位・小式部内侍らの女流歌人を愛人にしていたという。 極度の近眼で内裏を歩く時につまづくこともあり嘲笑されていたと伝えられている。

 万寿3年(1026年)元服と同時に正五位下に叙され、侍従・右近衛少将に任ぜられる。万寿4年(1027年)に正五位上・近江介に叙任。
長元2年(1029年)従四位下・右近衛中将に叙任され、同年中に従四位上・左近衛中将に遷る。長元3年(1030年)正四位下次いで従三位に叙される。長元4年(1031年)に参議に任じ、長元5年(1032年)に備中権守に任ぜられた。長元7年(1034年)正三位に叙し、長元9年(1036年)には従二位に進む。
 讃岐権守の任期が果てると、長久3年(1042年)正二位・権中納言に叙任される。康平2年(1059年)春宮権大夫を務める。康平6年(1063年)正月11日、薨去。享年50。
 長元2年(1029年)に縁談が成立し、右大臣・藤原実資の溺愛した藤原千古を妻と為したため、小野宮家の資産を受け継いだ。千古の父・実資はこの縁談を慎重に行い、権中納言・藤原経通や同・藤原資平らに相談したり、主計頭・賀茂守道を召して婚儀の日取の吉凶を確認したりしている。また、この縁から兼頼は小野宮中納言と号した。

藤原基貞 藤原延子

 長元8年(1035年)に但馬守、寛徳3年(1046年)には美濃守と地方官や、刑部卿などを歴任した。しかし、妾腹だったことなどから官位には恵まれず、正四位下・美濃守止まりで藤原道長の孫でありながら僧・頼観を除いて兄弟中唯一公卿に昇っていない。
 また、多くの子息に恵まれ、兼実は太政大臣・藤原信長の養子となる。また、娘は権大納言・藤原公実、摂関太政大臣・藤原師実にそれぞれ嫁ぎ、その子が三条家,大炊御門家として後世に血統を繋げた。

 長久3年(1042年)3月26日、後朱雀天皇のもとに入内、女御となる。寛徳2年(1045年)1月、後朱雀天皇は譲位、2日後に崩御するが、延子は同年4月に正子内親王を産む。正子内親王は天喜6年(1058年)から延久元年(1069年)まで斎院となった。永承5年(1050年)1月5日従二位。延久5年(1073年)5月12日に落飾。嘉保2年(1095年)6月15日、80歳で薨去。
藤原昭子

 後三条天皇の女御。承香殿女御または堀河女御と称された。治暦2年(1066年)7月に東宮・尊仁親王(後の後三条天皇)に入内する。治暦4年(1068年)後三条天皇が即位し、10月大嘗会の女御代を務める。翌延久元年(1069年)4月、女御宣下を受ける。皇子女はなかった。延久3年(1071年)8月新造内裏に移って、承香殿を局とした。延久5年(1073年)に天皇が崩御すると、出家して堀河院に移った。
 『栄花物語』によると、父・頼宗は当初、後冷泉天皇の後宮に入れようとしていたが、頼通の娘・寛子の入内により断念し、のちに東宮(後三条天皇)への入内となった。なお、入内前の康平8年(1065年)に父・頼宗が薨去している。