<藤原氏>北家 御堂流 ― 中御門流

F701:藤原道長  藤原道長 ― 藤原能信 F778:藤原能信

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藤原能信 藤原能長

 道長の妻の一人・明子腹の3男に生まれる。父・道長に似て勝気な性格だったらしく、15歳の時に敦良親王(のちの後朱雀天皇)誕生を祝う儀式中に同席した藤原伊成と喧嘩をした挙句、加勢した能信の従者によって一方的に負傷した伊成が憤慨して出家するという事件を起こしている。だが、その勝気さは次第に異母兄・頼通への対抗意識に変化していった。
 道長には頼通・教通を生んだ源倫子(左大臣源雅信の娘)と能信の母・明子という、主な夫人が2人いた。だが、倫子は道長の最初の妻であると同時に当時の現職大臣の娘で道長の出世への助けになったのに対し、明子の父・源高明はかつての権力者ながらもすでに故人で、しかも安和の変で流罪になった人物であった。そのため、倫子所生の子供たちは嫡子扱いを受けて出世を遂げたのに対して、明子所生の子供たちはそれより下の出世に限定されていた。能信の他の兄弟は頼通と協調して自己の出世を図ろうとしたのに対して、能信はそれを拒絶し公然と頼通と口論して父の怒りを買うことすらあったという。
 長元5年(1032年)、教通の子・信長の元服に際して加冠役を務める。同10年(1037年)、後朱雀天皇の中宮(のちに皇后)に禎子内親王(のちの陽明門院)が決まると、その側近である中宮大夫に任じられる。既に頼通の養女・嫄子が天皇の新しい中宮として入内することが確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営の中心に立った。そして禎子内親王所生の尊仁親王(のちの後三条天皇)の後見人を引き受けることになった。寛徳2年(1045年)に後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、尊仁親王を異母兄の親仁親王(のちの後冷泉天皇)の皇太弟にするよう遺詔を得たとされる。
 だが、世間では頼通・教通兄弟がそれぞれ娘を後冷泉天皇の妃にしており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろうと噂され、尊仁親王やその春宮大夫となった能信への眼は冷たいものがあり、親王が成人しても娘を入内させる公卿はなかった。やむを得ず自分の養女(妻・祉子の兄である藤原公成の娘)である茂子を立太子に際し添臥として入内させ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を能信が引き受けることで皇太子妃不在という事態を回避した。
 以後、20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支援者であり続けた能信は、尊仁親王の即位を見ることなく、しかも同母兄の右大臣・頼宗の急死で大臣への道が開かれたそのわずか6日後の康平8年(1065年)2月9日、71歳で没した。
 その3年後に後冷泉天皇が男子を遺さずに崩御すると、尊仁親王が後三条天皇として即位、続いて茂子の息子である白河天皇が即位した。後三条天皇は能信の死後に春宮大夫を継いだ養子の能長(実父は頼宗)を内大臣に抜擢した。また白河天皇は能信に太政大臣の官職を贈り、必ず「大夫殿」と尊称した。(後三条・白河両天皇による政治とその後の院政の開始は、摂関家による摂関政治を終焉に導くこととなる)
 なお、少数説であるが、道長とその一族の歴史を鋭い視点で描いた『大鏡』の作者を能信とする説もある。

 若年より叔父で権大納言・藤原能信の養子となり、その後継者として世に出る。後一条朝末の長元8年(1035年)元服と同時に叙爵し、侍従に任官する。長元9年(1036年)後朱雀天皇の即位に伴って五位蔵人に任ぜられると、長暦2年(1038年)従四位下に叙せられた後も侍従に再任するなど、天皇の身近に仕えた。長久3年(1042年)正四位下・蔵人頭兼右近衛中将に叙任されると、翌長久4年(1043年)には蔵人頭在任1年半ほどで早くも参議に任ぜられ公卿に列した。議政官として左右中将を兼帯し、この間の寛徳2年(1045年)従三位、永承5年(1050年)正三位次いで従二位と昇進を重ねる。参議在任18年を経て、康平4年(1061年)権中納言に任ぜられた。
 康平8年(1065年)養父・藤原能信が没すると、後朱雀天皇の第二皇子である尊仁親王の春宮大夫の官職を引き継ぐ。治暦4年(1068年)に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると、前春宮大夫の功労により権大納言に昇進。後三条朝では天皇の側近として権勢を奮った。また、延久元年(1069年)今度は後三条天皇の皇子である春宮・貞仁親王の春宮大夫となり、さらに娘の道子を貞仁親王に入内させている。
 延久4年(1072年)貞仁親王が践祚(白河天皇)すると、能長は春宮・実仁親王(白河天皇の皇太弟)の春宮大夫に任ぜられ、三代の春宮に対して大夫を務めることになった。承暦4年(1080年)出仕を止めていた内大臣・藤原信長が太政大臣に祭り上げられる人事により大臣の座が二つ空いた際、実兄の藤原俊家が右大臣に、能長が内大臣にそれぞれ昇進している。
 永保2年(1082年)10月に俊家が没すると、能長も後を追うように11月14日に薨去。享年61。



藤原道子 藤原基長
 承香殿女御と号す。父は内大臣・藤原能長、母は源済政の娘。延久元年(1069年)8月22日、東宮・貞仁親王(後の白河天皇)に入内し、白河天皇の即位に伴い、延久5年(1073年)7月23日に女御となった。承保2年(1075年)12月、准三后に叙される。承保4年(1077年)9月23日、唯一の子である善子内親王を生む。寛治元年(1087年)、善子内親王が斎宮になり伊勢に同行した。嘉承2年(1107年)7月19日、堀河天皇譲位により、善子内親王は斎宮を退下する。同年12月30日京へ戻った。その後は善子内親王とともに六角東洞院邸で暮らした。長承元年(1132年)8月17日薨去。享年91。

 後冷泉朝の天喜3年(1055年)叙爵し、翌天喜4年(1056年)侍従に任官する。天喜5年(1057年)右近衛少将に遷ると、治暦4年(1068年)7月に後三条天皇の即位に伴って正四位下に昇叙されると、同年12月に蔵人頭に補される。のち、治暦5年(1069年)従三位次いで正三位、延久2年(1070年)従二位と、後三条天皇の側近として権勢を奮った父・藤原能長の譲りを受けて急速に昇進を果たした。
 白河朝初頭においても、延久4年(1072年)参議、延久5年(1073年)正二位と昇進を続け、議政官として引き続き近衛中将を兼帯した。しかし、承暦4年(1080年)位階が下位であった藤原宗俊,源師忠,藤原伊房に権中納言昇進で先を越されると、基長は出仕を止めてしまい、承暦5年(1081年)10月に不出仕を原因として職封を止められる。翌永保2年(1082年)正月に権中納言に昇進するが、同年11月に後ろ盾であった父の内大臣・藤原能長を喪った。
 応徳2年(1085年)春宮・実仁親王が没する。後三条天皇は実仁親王のあとは同母弟の輔仁親王を立てるように遺言していたが、白河天皇はこの遺言を無視して、応徳3年(1086年)実子の善仁親王(堀河天皇)を春宮に立て、その日のうちに譲位してしまった。これに際して、基長は輔仁親王を支持したために天皇の不興を買ってしまう。その後、基長は兼官を帯びないまま約9年に亘って権中納言のみを務めた。寛治5年(1091年)権中納言を辞任と同時に弾正尹に任ぜられ、以降はこれのみを帯びている。
 承徳2年(1099年)12月26日に出家。嘉承2年(1107年)11月21日に薨去。享年65。

仁豪 忽那親朝
 比叡山にて明快,良真,安慶らに師事。また門下には最雲法親王,仁実,任清などを指導した。天仁3年(1110年)に天台座主となるが、そのため永久元年(1113年)の永久の強訴に当たっては、反延暦寺の姿勢を前面に掲げる興福寺大衆の矢面に立たされるということも経験している。  忽那氏は瀬戸内海の安芸灘と伊予灘との間に位置する忽那諸島の主島である忽那島(中島)を本拠に、忽那諸島を開発して勢力を築いた海の中世豪族である。その出自については諸説あり、11世紀に藤原道長の後裔とされる親賢がこの地に配流されたことに始まるという。『忽那嶋開発記』によれば、寛治年中(1087~94年)に藤原親朝が忽那諸島を開発したとあり、忽那氏系図では親朝は親賢の子として記されている。
忽那重俊 忽那通著

 重俊の代になると、忽那氏は諸職・所領を兄弟に分割相続させた。これは当時の相続方式である惣領制に拠るものだが、やがて所領をめぐって同族間に紛争が頻発するようになった。やがて、忽那諸島の開発にも限界がみえてきはじめると、安芸灘と伊予灘を扼する要地に割拠する利点を活かして海に進出、次第に瀬戸内海の制海権を掌握していった。そして、忽那島における長講堂の預所と対抗するほどの存在に成長した。
 13世紀後半に連続した蒙古襲来に際して、幕府は西国の御家人を動員して鎮西の防衛にあたらせた。このとき、忽那重俊は河野氏に従って、嫡男の久重ら一族を率いて出陣、鷹島および鹿島の戦いに功を挙げた。


 永禄8年(1565年)、豊後の大友義鎮の伊予侵攻に遭遇した。通著は弟の通恭をはじめ村上水軍の通康,武吉らとともに、忽那山城に拠って防戦、大友方を撃退した。ついで元亀3年(1572年)、中国地方の毛利氏が伊予に侵攻してきた。鉄砲を用いて毛利氏に善戦した忽那通著は、さらに風早郡に進出して恵良城に拠った毛利勢を攻撃、よく毛利の侵攻を防戦している。
 戦国時代末期の河野氏は当主に人をえず、細川氏,大友氏、そして毛利氏ら群雄の攻撃にさらされた。さらに、土佐の長宗我部元親が四国統一を企図して河野氏の脅威となってきた。天正元年(1573年)、大野氏が元親に降ったことを知った河野氏は、通著に命じて大野氏を攻撃させた。通著は村上氏の軍とともに長浜に上陸すると、大野氏を降した。このように忽那氏は河野氏の衰退期にあって、よくその節を全うして武勇の名を落とすことはなかった。
 やがて、織田氏の勢力が中国に及ぶようになると、通著は村上武吉らとともに毛利氏を救援して鞆の津に出兵した。ついで、毛利氏と対立する大友氏を牽制するため、村上水軍とともに豊後に出撃した。天正7年(1579年)、大野直之が元親に通じて河野氏に叛すると、通著は河野氏の命によって討伐軍を率いて出陣、大野氏との激戦のなかで戦死を遂げた。