<藤原氏>北家 御堂流 ― 御子左流

F701:藤原道長  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 ― 藤原長家 F781:藤原長家

 

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藤原長家 藤原忠家

 幼名は小若。寛仁元年(1017年)に元服し、従五位上に叙せられて昇殿を許される。同年、侍従次いで右近衛少将に任ぜられる。寛仁2年(1018年)従四位上・右近衛中将、寛仁3年(1019年)正四位下と順調に昇進し、治安2年(1022年)従三位に叙せられ公卿に列す。
 治安3年(1023年)には参議を経ることなく正三位・権中納言、治安4年(1024年)正二位、万寿5年(1028年)に権大納言に至る。その後は兄の頼通,教通,頼宗,能信が長く健在だったこともあり、権大納言を極官として、康平7年(1064年)10月に病のため出家し、同年11月9日兄達に先んじて薨去。享年60。
 『千載和歌集』の編者として知られる藤原俊成の曽祖父に当たり、長家自身も『後拾遺和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に44首の作品が入首するなど、歌壇の中心的人物の一人であった。家集があったと言われるが現存しない。

 

 後朱雀朝末の寛徳元年(1044年)に元服して従五位下に叙爵し、翌寛徳2年(1045年)、侍従次いで左近衛権少将に任官する。以後も順調に昇進し、永承5年(1051年)従三位に叙せられ公卿に列した。公卿昇任後も昇進し、康平3年(1060年)参議に任ぜられる。参議任官後も引き続き中将を兼ね、康平6年(1063年)権中納言、延久4年(1072年)権大納言に叙任された。この間の康平8年(1065年)中宮権大夫を兼ねると、皇太后宮権大夫,太皇太后宮大夫として、約10年に亘って章子内親王に仕えている。
 承暦4年(1080年)、藤原師実の関白就任を不満として出仕を取り止めていた内大臣・藤原信長が太政大臣に祭り上げられた際、忠家は大納言に昇進した。しかし、信長と近かった忠家は弟の藤原祐家とともにこの人事を不満として、出仕を取り止めてしまい、翌永保元年(1081年)不出仕により職封を止められている。
 応徳3年(1086年)、堀河天皇の即位式では外弁を務め、翌応徳4年(1087年)の踏歌節会では内弁を務めた。寛治4年(1090年)9月25日出家。翌寛治5年(1091年)11月7日に薨去。享年59。

藤原基忠 藤原祐家

 後冷泉朝末の治暦2年(1066年)従五位下に叙爵し、治暦4年(1068年)、侍従次いで左近衛少将に任官する。後三条朝から白河朝にかけて近衛次将を務めながら順調に昇進する。右近衛中将を経て、永保2年(1082年)に参議に任ぜられて公卿に列した。
 議政官の傍らで引き続き近衛中将を兼ね、永保4年(1084年)従三位、寛治2年(1088年)正三位と昇進する。寛治5年(1091年)権中納言に昇るが兼官を全て解かれた。寛治7年(1093年)従二位に至り、嘉保2年(1095年)左兵衛督、永長2年(1097年)右衛門督を兼ねている。
 承徳2年(1098年)11月17日薨去。享年43。この日、関白・藤原師通の春日詣があり、共も寅刻から関白殿に参上したが、基忠の薨去により停められたという。
 嘉保2年(1095年)の「永長の大田楽」の際には、権中納言の高官であったが、「九尺の高扇」を掲げて踊り狂ったという。

 後冷泉朝初頭の永承元年(1046年)元服して従五位下に叙爵。順調に昇進し、永承7年(1052年)、正四位下次いで従三位に昇叙され17歳で公卿に列した。公卿昇進後も侍従を兼ねるが、のち左京大夫・左近衛中将を兼帯し、天喜3年(1055年)正三位、天喜5年(1057年)従二位と昇進を続ける。康平7年(1064年)参議に任ぜられ、後冷泉朝末の治暦3年(1067年)権中納言に昇任された。
 治暦4年(1068年)後三条天皇の大納言・藤原信長の大宮第への遷幸の際に、信長から譲られて正二位に叙せられ、延久2年(1070年)以降は皇后宮大夫として信長の同母妹である皇后・藤原歓子に仕えるなど、祐家は藤原教通・信長親子ラインに親しかった。
 承保2年(1075年)関白・藤原教通が没したのち、藤原師実との関白職争いに敗れた内大臣・藤原信長は出仕を止めていた。この状態の中、承暦4年(1080年)白河天皇と関白・藤原師実によって、藤原信長が太政大臣に祭り上げられるなど一連の人事異動が行われる。ここで、首席の権中納言であった祐家は正官の中納言に留まる中、次席の権中納言であった師実嫡子の藤原師通は大納言に昇進する。祐家はこの人事を不服に思い出仕を取り止めてしまうが、翌永保元年(1081年)不出仕により職封を停められた。その後、後任中納言の源経信,源師忠,源雅実が次々と権大納言に昇進する一方で、祐家は中納言に留めおかれた。
 寛治2年(1088年)7月28日薨去。享年53。