<藤原氏>北家 御堂流 ― 御子左流

F789:冷泉為相  藤原道長 ― 藤原長家 ― 二条俊忠 ― 藤原俊成 ― 藤原定家 ― 冷泉為相 ― 冷泉為村 F790:冷泉為村

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冷泉為村 松林為成

 冷泉家中興の祖とされている。享保5年(1720年)9歳で元服。その後は累進して、元文3年(1738年)1月、従三位に叙されて公卿に列し、延享元年(1744年)8月参議、寛延3年(1750年)1月には権中納言に任じられた。宝暦2年(1752年)2月従二位、同8年(1758年)12月正二位に叙され、同9年(1759年)10月、権大納言に到るが、同10年(1760年)2月これを辞し、明和7年(1770年)2月落飾した。
 享保6年(1721年)、霊元上皇から古今伝授を受けた。霊元天皇の勅点の添削を受けた折紙詠草(和歌懐紙)が存在する。烏丸光栄や三条西公福,中院通躬にも師事し、石野広通,小沢蘆庵,屋代弘賢など多数の門人を擁した。歌集に『冷泉為村卿家集』『冷泉余瀝』、歌論書に『樵夫問答』、聞書に宮部義正の『義正聞書』がある。

 奈良華族の一つ。
 上冷泉家当主・冷泉為則の5男・為成(文政8年6月15日生、明治6年6月1日没)は、天保5年(1834年)に幼くして奈良興福寺に入れられて松林院住職となったが、明治元年(1868年)に勅命により復飾し、翌2年に堂上格を与えられて一家を起こして松林を家号とした。
 明治6年6月1日に為成が死去し、幼少の一人息子の為美(明治5年2月12日生)が家督相続。為美は、明治8年に華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、男爵に叙された。しかし、負債を抱えて経済的に困窮したため、明治29年(1896年)5月10日に爵位を返上した。為美に子供はなかった。

冷泉為任 冷泉為人

 第22代当主・冷泉為系の長男・為臣が1944年(昭和19年)に戦死し、為臣に子がなかったため、昭和21年(1946年)に為系の娘の冷泉布美子に西四辻家から婿入りし、名前も公順から為任に改めた。実家の西四辻家も歌道の家であり、西四辻公業も藤原定家の流れをくむ二条派(三条西家一門)の歌人であった。
 冷泉家先代の為臣から家宝の御文庫を引き継ぎ、1980年(昭和55年)には藤原定家自筆日記『明月記』を公開している。1981年(昭和56年)、財団法人冷泉家時雨亭文庫を作る。これによって、冷泉家に伝わる古文書や典籍の調査研究がはじめられて、貴重な資料が公開されるようになった。
 実弟に、滋賀プラスチック代表取締役でスケベ椅子の開発者である西四辻公敬がいる。評論家の川本三郎は甥にあたる。

 

 旧姓名は松尾勝彦。上冷泉家第24代当主・冷泉為任および布美子夫妻の長女・貴実子と結婚し、旧華族で伯爵家の上冷泉家を継ぐ。冷泉勝彦を名乗っていた時期もあるが、上冷泉家歴代当主の通字に合わせるため、のち正式に為人と改名。
 1968年(昭和43年)、関西学院大学文学部美学科卒業。1973年(昭和48年)、関西学院大学大学院文学研究科美学美術史専攻博士課程修了。京都国立近代美術館勤務を経て、1978年(昭和53年)から大手前女子大学に勤め、1993年(平成5年)、同大学教授。
 1996年(平成8年)、池坊学園理事評議員。1999年(平成11年)、池坊短期大学学長。2002年(平成14年)、池坊短期大学学長を退職。同年4月から財団法人冷泉家時雨亭文庫理事長。2004年(平成16年)から、同志社女子大学客員教授。立命館大学でも特別招聘教授を務める。
 2023年(令和5年)3月、 第24代為任・布美子の次女・久実子(野村知史夫人)の次女で、姪に当たる野村渚(冷泉家時雨亭文庫学芸課長)を上冷泉家第26代当主にすると正式に決めた。