<藤原氏>北家 魚名流 ― 利仁流

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富樫泰家 富樫高家

 寿永2年(1183年)、源義仲の平氏討伐に応じて平維盛率いる大軍と加賀・越中国境の倶利伽羅峠にて対陣。燃え盛る松明を牛の角に結びつけ、敵陣に向けて放ち夜襲をかける。この大胆な戦略が功を奏して大勝。寿永3年(1184年)に義仲が源頼朝の命を受けた源範頼,源義経に討たれた後は加賀国の守護に任ぜられる。 
 文治3年(1187年)、兄・頼朝から追われ、山伏に扮して北陸道を通り、奥州平泉を目指していた源義経一行を追及し、義経本人であることを確信しつつ、武士の情と武蔵坊弁慶の読み上げる「勧進帳」に感心し、義経一行を無事に通過させたという。そのことにより頼朝の怒りを買い、守護の職を剥奪された。後に出家し法名を仏誓とし、名を富樫重純(成澄)と改め、一族と共に奥州平泉に至り義経と再会を果たす。その後しばらく平泉に留まったが、後に野々市に戻り、極めて長寿であり天寿を全うし、そこで一生を終えた。 

 鎌倉末期、冨樫高家は在京人として六波羅探題に属し、元弘の動乱期のはじめは他の在京人とともに反幕府勢力追討に活動していた。しかし、幕府滅亡のとき高家は六波羅探題と行動をともにすることなく、いちはやく足利尊氏の下に入りその統率に従った。尊氏に従ったことで、冨樫氏は歴史の表舞台に登場する契機をつかんだ。
 建武新政がなると、高家は討幕の働きを認められ、伊豆国多留郡の地頭職を安堵された。建武2年(1335年)、中先代の乱が起こると、尊氏はただちに鎌倉に下って乱を征圧、そのまま鎌倉にとどまった。尊氏は後醍醐天皇の帰還命令を無視し、ついには後醍醐天皇に対して叛旗を翻した。このとき、高家は尊氏に味方して「加賀国守護職」と遠江国西郷庄を宛行われている。
 翌年、新田義貞の追討軍を箱根に破った尊氏はその勢いをかって京に入ったが、北畠顕家軍に敗れて九州に逃れ、多々良浜の戦いで菊池氏を破り太宰府に入った。その間も、高家は尊氏に従って活躍している。 

富樫昌家 富樫安隆

 父・氏春が病死すると、その後継として加賀の守護を継いだが幼少であったために一族の富樫用家の補佐を受けた。『太平記』によると、竹童丸が幼少であることに乗じて近江の佐々木道誉が婚姻関係のある斯波氏に加賀の守護職を奪わせることを画策したが、細川清氏によって阻止された、とある(後に清氏は道誉の讒言によって失脚し滅ぼされた)。
 正平21年/貞治5年(1366年)に元服し、昌家と名乗る。元服後は加賀の経営を守護代・英田四郎次郎に一任し、上洛して足利義詮や足利義満に仕えた。正平24年/応安2年(1369年)、反幕府勢力の桃井直和が越中で挙兵すると、昌家は幕命を受けて吉見氏頼とともに鎮圧に当たった。
 1370年代になると、幕府内部では細川頼之派と斯波義将派の抗争が激化したが、その中で昌家は家督相続時の一件もあり細川派に属していたようである。天授5年/康暦元年(1379年)に義将派によるクーデターが起こり頼之が追放される(康暦の政変)と、昌家も討伐されるという噂が流れた。実際これ以上兵乱が起きることはなく、昌家も失脚は免れたが、この一件により幕府の要職が斯波派に改められたこともあって、昌家の幕府内における立場も微妙なものとなっていった。
 元中4年/嘉慶元年(1387年)、死去。死後、弟の満家が後継となったが、昌家の死に乗じて管領・斯波義将が加賀の守護職を剥奪し、弟の斯波義種に与えてしまった。以降約30年間、加賀は富樫氏の手から離れることとなった。
 昌家の子・詮親は足利義詮から偏諱の授与を受けて以来幕府の信任を受けていたが、元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱に乗じて幕府に反抗して滅ぼされたため、以降の富樫氏の嫡流は弟・満家の系統に移った。 

 出羽富樫氏の末裔・冨樫安房の長男に生まれる。加賀守護富樫氏三代目の富樫昌家の子・富樫国枝の養子に入る。
 律令制における八省のひとつである中務省の中務大輔を務めた。中務省は天皇の補佐や詔勅の宣下・叙位などの朝廷に関する職務の全般を担っていたため、中務大輔は最も重要な省の大輔であった。また、斯波氏の家臣団の一人として越前国坂井郡丸岡坪ノ内に居住し、坪ノ内の地名にちなんで私的に坪内姓を称した。斯波氏の家臣団に所属しているが、征夷大将軍家足利家の足利義満に仕えた。
 元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱では、義満の家臣として山名氏清,満幸らと京都で戦い、奮戦の末に討ち死にした。

富樫満春 富樫教家

 富樫氏13代当主。12代当主・富樫昌家の弟である富樫満家の子として誕生。元中4年/嘉慶元年(1387年)に昌家が没して以来、加賀守護職は斯波氏の手に移っていたが、応永21年(1414年)に斯波満種が4代将軍・足利義持の勘気を受けて守護職を更迭されると、義持に近侍していた富樫満成が加賀南半国守護に任じられ、同時に満春も北半国守護に任じられた。
 応永26年(1419年)2月に満成が政争に敗れて殺害されると、満春は義持から満成が任じられていた加賀南半国守護の兼任を任じられ、結果として加賀一国の守護となった。その後も満春は義持や足利義量に仕え、重用されたようである。
 応永34年(1427年)、死去。家督及び加賀守護職は長男・持春が継いだ。


 父・満春の没後、家督と守護職は兄の持春が継ぎ、教家は奉公衆として足利義持,足利義教に近侍していた。永享5年(1433年)に持春が早世し、持春に嗣子がいなかったため教家が加賀守護に任ぜられた。
 嘉吉元年(1441年)6月18日、教家は将軍義教の勘気を蒙り、突如として加賀守護を解任されて逐電した。富樫氏の家督は当時醍醐寺の喝食となっていた弟が還俗して継ぎ、泰高と名乗り守護となった。しかし、教家の逐電から僅か6日後の6月24日に義教が暗殺される(嘉吉の乱)と、教家は幕府の有力者・畠山持国の支持を得て家督の奪還をねらった。守護の泰高は管領・細川持之を後ろ盾としてこれに対抗し、富樫家中も泰高派と教家派に分裂した(加賀両流文安騒動)。
 翌年(1442年)に持之が管領を辞し畠山持国が後任となると、持国は泰高を廃し、教家の子・成春を守護に任じた。泰高はこれを不服として加賀国内の在地勢力を味方につけ頑強に抵抗した。文安2年(1445年)、持国に代わって細川勝元(持之の子)が管領となると、泰高派が勢いを盛り返して教家・成春父子は加賀から追放された。
 こうした混乱の末、文安4年(1447年)になってようやく両派は和睦し、成春は加賀北半国、泰高は南半国の守護に任じられた。教家は守護である成春の後見を務めた。没年及び享年は不明。 

富樫成春 富樫政親

 元服時に第8代将軍・足利義成(1449年就任、1453年「義政」に改名)から偏諱「成」の字を賜っていることや、嘉吉2年(1442年)に守護に立てられていることから、おおよそ1430年代の生まれと推測される。
 父・教家はその弟にあたる泰高と加賀の守護職をめぐって対立していた。嘉吉2年(1442年)、成春は管領・畠山持国の後押しを得て守護となり、泰高派の山川氏を討伐するなど優位に立ったが、3年後の1445年には泰高を推す管領細川勝元に守護職を取り上げられ、父とともに追放されるなど混乱が続く。
 文安4年(1447年)に勝元の仲介のもと、泰高は加賀南半国の、成春は北半国の守護職となることで両者は和睦し、6年におよんだ富樫氏の内紛はようやく終結した。
 長禄元年(1457年)末、嘉吉の乱以来逼塞していた赤松氏の家臣が長禄の変で功を上げた。これを見た細川勝元が翌年になって赤松政則に加賀北半国の守護を与えたため、成春は再び追放されてしまった。
 寛正3年(1462年)、成春は失意のうちに病没した。後に子の政親が加賀一国の守護となるも弟・幸千代と抗争を巻き起こし、それに乗じて勢いを強めていた本願寺勢力が介入。長享2年(1488年)には政親が一向一揆によって倒され(長享の一揆)、富樫氏の支配は形骸化していくこととなる。

 寛正5年(1464年)、成春の子・政親が泰高の譲りを受けて南加賀の守護となった。泰高には実子があったが病弱であったことと、冨樫氏の一本化策が背景にあったものと推定される。
 応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発。冨樫政親は北加賀の赤松政則ともに東軍に属したが、赤松氏の加賀支配に不満を持つ冨樫氏の勢力は政親の弟・幸千代を擁して西軍に属し、越前の朝倉,能登・越中の畠山氏といった西軍勢力と手を結んで活動を始めた。その結果、加賀一国は幸千代派に掌握され、上洛していた政親は帰路を閉ざされてしまった。
 その後、東軍の西軍切り崩し策によって越前の朝倉氏が東軍に転じ、朝倉氏の支援を得た政親は加賀に入ることができ、さらに本願寺門徒の援助も得て幸千代を破り、加賀半国の守護職を掌握することができた。このとき、政親を応援して本願寺門徒が出陣したことが一向一揆のはじめとされる。
 政親は本願寺門徒との同盟によって頽勢を挽回したとはいえ、同盟は双方の利害が一致したために結ばれたものであり、たちまち破綻をきたした。政親は本願寺門徒の弾圧に転じ、力で一揆を押さえ込んだが、一揆衆は勢いを増し、冨樫氏の権威は低下していった。政親は事態を好転させるため上洛し幕府に出仕した。幕府を後楯として、一国支配を強化しようとしたのである。
 政親は守護代の本折・槻橋氏、加賀の国人で奉公衆の倉光・狩野・相河氏らとともに将軍義尚に近侍し、長享元年(1487年)、近江の佐々木六角氏討伐に加わった。政親は加賀の有力武士が上洛していたことで楽観したものか、国元に対して兵糧米や人夫などを課した。百姓らは減免を望んだが、厳しい調達が行われたようで、一揆衆は冨樫氏への不満をつのらせ抵抗姿勢をあらわにしていった。
 国元の事態を憂慮した政親は、一揆衆に対処するため義尚の許しを得て近江から急ぎ帰国した。ここに至って、冨樫政親と北陸の加賀門徒とは真っ向から武力衝突したのである。長享2年(1488年)5月、一揆衆は政親の居城高尾城を包囲したが、その勢は20万ともいわれるすさまじい人数であった。
 政親の危機を知った義尚は、ただちに越前守護・朝倉貞景に政親の支援を命じたが、一揆勢は越前との国境を封鎖し朝倉軍の加賀入国を阻止した。そして6月、一揆軍の総攻撃によって、高尾城は陥落し政親は自害して果てた。
 政親が戦死したあとの守護には、冨樫泰高が一揆によって擁立された。泰高は幕府に出仕し、守護としての活動を開始した。その一方で、一向一揆との協調をはかり、本拠地である冨樫本庄にある本願寺派の道場を保護し、一揆との関係を良好なものとするために心をくだいた。しかし、守護としての立場は次第に名目的なものとなっていった。 

富樫家廷 富樫泰高

 父は富樫政親、母は熱田神宮大宮司友平娘。
 応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発して父・政親は細川勝元方の東軍に与した。ところが、叔父・幸千代(父の弟)は山名宗全方の西軍に与したため、政親・幸千代兄弟の家督争いが勃発した。
 文明5年(1473年)、真宗高田派門徒や甲斐敏光と結んだ幸千代に敗れて、父は加賀を追われた。しかし、浄土真宗本願寺派門徒などの援助や加賀国内における武士団の支持を得て、父は幸千代を加賀から追い出して、再び当主の座についた。
 しかし、この奪回において本願寺門徒の力を思い知った政親が次第に本願寺門徒とそれに繋がる国人を統率しようと企てたため、本願寺門徒と窪田氏・徳田氏などの国人が互いに結びつく。父は9代将軍・足利義尚における六角高頼討伐に従軍していたが、急遽帰国した。
 長享2年6月9日(1488年7月17日)、加賀石川郡高尾城を攻められ、これを抑えられずに父・政親とともに自害した。『官知論』の記載では、富樫政親と共に切腹した者の中に、山河又次郎という名前が見られるが、富樫政親との親子関係は不明である。 

 当初は醍醐寺の喝食であった。しかし嘉吉元年(1441年)、兄・教家が将軍・足利義教の逆鱗に触れて蟄居したため、還俗して家督を継ぎ、泰高と名乗った。しかし、足利義教が赤松満祐に暗殺されると、教家が畠山持国を後ろ盾にして家督の返還を要求、これを拒否して管領・細川持之を後ろ盾にして富樫家を2分とする内乱を生じさせた(加賀両流文安騒動)。
 細川持之が管領を辞すと畠山持国が管領に就任し、加賀守護は教家の子・成春に奪われた。しかし、加賀からは退去せず、在地勢力を味方につけて頑強に教家・成春派に抵抗した。
 文安2年(1445年)、一時勢力を失っていた泰高だったが、彼を後援していた細川勝元が管領に就任すると、状況は一変し、教家一派を追放することに成功した。結局6年間の内乱の末、加賀を2分してそれぞれ半国の守護を分け合うことで合意した。この内乱のさなか、加賀守護だった斯波満種の子・持種が泰高方に武力介入している。また、長禄2年(1458年)に赤松政則が加賀北部半国の守護になっている(後に成春の子・富樫政親が奪回)。
 寛正3年(1462年)、成春が病死したことで再び加賀一国の守護となる。しかし2年後の寛正5年(1464年)、幕府に隠居を求め、許可されて隠居、家督は政親が継いだ。
 しかし、その24年後の長享2年(1488年)、政親が加賀一向一揆によって自害すると、一向一揆により擁立される。実際の加賀支配権は蓮如の3人の息子(松岡寺住持蓮綱,光教寺住持蓮誓,本泉寺住持蓮悟)に握られ、傀儡として当主とされていたのだが、国内の荘園を押領して独自の権力の強化に努めた。
 明応2年(1493年)、明応の政変を避けて越中放生津へ下向した足利義稙の元へ馳せ参じている。没年は不明で、子の泰成は早世、孫の稙泰が家督を継いだ。

富樫稙泰 後藤家俊

 文明6年(1474年)頃、富樫泰成の子として誕生する。はじめ恒泰と名乗った。父・泰成が早世したため、祖父・富樫泰高の跡継ぎとして指名される。明応2年(1493年)に室町幕府が赤松政則に北加賀半国の支配を安堵したことで、泰高の影響力の低下を懸念し京より加賀に帰国。翌明応3年(1494年)に明応の政変によって失脚した10代将軍・足利義材が越中で挙兵した時には一向一揆の洲崎慶覚,河合宣久と共に越前に侵攻し朝倉貞景と交戦したものの、洲崎慶覚の裏切りや河合宜久の戦死によって明応5年(1495年)には撤兵した。こうして自身の手によって義材を復権させることは叶わなかったが、のちに大内義興の助力によって将軍職に復した義材改め義稙の偏諱を受け諱を稙泰と改めた。
 享禄4年(1531年)、享禄の錯乱にて小一揆方の味方をしたため、大一揆方に敗れて加賀守護の地位を追われ、天文4年(1535年)に死去。これにより富樫家の権威は完全に失墜し、本願寺が本格的に領国内調停者の地位を確立した。嫡男の泰俊は小一揆に味方したため逃亡、家督は次男の晴泰(晴貞)が継いだ(のちに晴貞が一向一揆に攻められて自害したため、泰俊がその跡を継いでいる)。 

 押野後藤家の祖という。天正2年(1574年)に越前国金津にて、父の富樫泰俊とその子・富樫稙春、天易侍者は討死したが、家俊だけは逃げ延びて、名を後藤弥右衛門と改めて加賀国押野村字清水の郷士になったという。
 その後、佐久間盛政に仕えて戦功を挙げ、天正9年(1581年)に300石の領地を与えられた。子の藤右衛門は元和2年(1616年)に加賀藩の十村肝煎となり、子孫は代々その役目を担い、維新後も旧押野村の村長を務めたという。
 なお、押野後藤家初代の諱については、昭和末期から平成期にかけて、従来の家俊説に代わって、宗俊説を採用する文献が見受けられるようになっている。これは、9代・安兵衛の時代に草書体で書かれた家系図の初代名が、「宗俊」とも読めることに因っている。

後藤家泰(太兵衛) 久安満成

 寛永20年(1643年)に先代・藤右衛門の跡を継いで押野後藤家第3代当主となり、加賀藩より十村(農民の現場監督的な役)に任ぜられた。藩命により明暦元年(1655年)に泉野村を、万治元年(1658年)に泉野新村と泉野出村の田畑を私財を投じて開墾した。寛文11年(1671年)にも藩命を受けて長坂新村(現・金沢市長坂町)を創設するとともに、長坂新村を始めとする野田山山麓一帯の丘陵地へ、犀川の支流である内川を取水口とする灌漑用水を引く工事の指揮に当たった。


 富樫満家の子とも。幼少の頃より足利義持に仕え、義持が将軍となった後も近臣として寵愛を受けた。
 満成は、斯波氏の手に奪われていた加賀守護への復権を義持を後ろ盾として狙っていたとされ、応永21年(1414年)に加賀守護の斯波満種が義持の忌避に触れて守護職を更迭された事件にも何らかの形で関わったと考えられる。満種の失脚後、満成が加賀南半国の守護に任じられた。一方、加賀北半国の守護には富樫満春が任じられている。
 応永23年(1416年)、関東にて前関東管領であった上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して反乱を起こした(上杉禅秀の乱)。この反乱自体は翌年(1417年)に幕府軍の動員もあって鎮圧されたのだが、これに前後して京都では将軍・義持の異母弟である足利義嗣が突如出奔する騒動が起こる。義嗣は義持よりも父・足利義満の寵愛を受けていたとされ、以前から兄弟の関係は良好ではなかった。
 満成は義持の命で義嗣を探し出して捕らえ、尋問に当たったとされる(義嗣は幽閉された後、同年10月に出家させられた)。11月に満成が義持に出した報告によれば、現管領の細川満元や前管領の斯波義重をはじめ多くの守護大名や公卿が義嗣に加担し、義持の打倒を計画していた、と言うのである。これによって多くの大名・公卿が謹慎・流罪などを命じられた。そして翌応永25年(1418年)1月、満成は義持の命を受けて義嗣を誅殺する。
 ところが、同年11月になって満成は突如として追放されてしまった。追放の理由は、幽閉中の義嗣に対して謀反を促し、それが露見しそうになったため義嗣誅殺を進言したこと、さらに義嗣の愛妾・林歌局と密通していたとの疑いを持たれたためである。追放された満成は高野山に逃亡したが、翌応永26年(1419年)2月、畠山満家の手勢によって誅殺された。満成は天河付近に潜んでいたが、宥免するという御教書を信じて、河内国へ出てきたところを討たれたという。
 満成が持っていた加賀南半国の守護職は、満春が兼任することを許された。