<藤原氏>北家 魚名流 ― 利仁流

F835:富樫家国  藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 富樫家国 ― 坪内以有 F836:坪内以有


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坪内昌家 坪内友定
 代々坪内家の居城である坪内城を居城とした。1492~1500年頃に野府城を築城し、子の坪内広綱を城主とする。この広綱は、1547年9月に起こった加納口の戦いに出陣し討ち死している。跡継ぎを失った昌家は、坪内家の娘を妻に迎えている前野又五郎忠勝を養子に迎え、野府城の城代とした。娘は同じ坪内氏の坪内勝定に嫁いだ。この娘と勝定の子に坪内利定がいる。昌家の祖先は尾張富樫氏の始祖である富樫長泰であると言われ、勝定や利定は祖先の兄の子孫にあたる。  加賀国の守護大名・富樫氏の末裔である坪内頼定の長男に生まれる。父は初め富樫頼定を名乗ったが、尾張国に赴き、坪内又五郎某の婿となり家号を継いで坪内氏を称した。その頼定の家を継ぎ、尾張国松倉城主となる。この松倉城を本拠とする坪内氏や前野氏,蜂須賀氏らで川並衆と呼ばれていた。松倉城は美濃国と尾張国の国境にあり、木曽川の洪水などの影響で国が変わることもしばしばあり、川並衆は美濃斎藤氏と尾張織田氏の戦いで有利な方について戦ったとされるが、父・頼定は犬山織田家の家臣であったため、友定は織田家に仕えていたとされる。家督は長男の坪内為定が継いだ。 
坪内広綱 前野忠勝
 広綱は、藤原利仁流富樫氏族坪内氏および称良岑氏流前野氏系坪内氏の当主・坪内昌家の子として生まれる。父である坪内城主・坪内昌家は、1492~1500年頃に野府城を築城し、子である広綱は城主となり、坪内家の当主となる。天文16年9月22日(1547年11月4日)に織田信秀(および朝倉孝景,土岐頼芸)と斎藤道三との間で加納口の戦いが起こると、広綱は織田勢としてこの戦いに参戦した。織田軍の兵力は26,000名、斎藤軍の兵力は4,000名と、単純な合戦であれば織田軍が優勢だが、この戦いは織田軍の大敗に終わり、織田軍の戦死者は5,000人にも登ったという。この戦いで広綱も討ち死にしてしまったため、跡継ぎを失った父の昌家は、坪内家の娘を妻に迎えている前野又五郎忠勝を養子に迎え、野府城の城代とし坪内家を継がせた。またこの加納口の戦いで大敗を喫した織田家は、その後、平手政秀の働きにより信秀の嫡男・信長と道三の娘・胡蝶(濃姫)を縁組させることで、和睦を結ぶことになる。この戦いの後、織田方の戦没者を弔うための「織田塚」が築かれ、後に円徳寺に改葬したと伝わり、岐阜市の指定史跡となっていて、広綱もここに埋葬されている。また広綱の実姉は、坪内光景の父である坪内勝定に嫁いだ。この娘と勝定の子に坪内利定などがおり、利定の坪内家は明治初期の版籍奉還まで大身旗本として存続する。

 尾張国の土豪・前野家の一門である前野長義の3男として文亀2年(1502年)に生まれた。初め前野時氏、のちに前野忠勝と改める。通称は又五郎。娘は坪内定兼の子・坪内兼光に嫁ぎ、兼光は時氏の養子となって前野為定、後に前野自唯を名乗る。為定は時氏の子・前野自勝を養子に迎え、その子孫は讃岐前野氏,阿波前野氏となった。山内掃部助實通の子である前野時之を養子に迎え、その子孫は代々土佐藩山内家に仕え土佐前野氏となり、山内家一門として山内姓を名乗ることを許された。
 1547年9月、尾張国の織田弾正忠家当主織田信秀と道三流斎藤氏当主斎藤道三との間で加納口の戦いが起こる。この頃は前野又五郎忠勝と名乗っていた忠勝は、この戦いに参加し戦功を挙げ、この戦いで討ち死にした坪内広綱の父である坪内昌家の養子となり、かつての昌家・広綱の居城であった尾張国野府城の城代となる。これにより前野氏系坪内氏の当主となり、坪内又五郎忠勝と改名した。後に兄・前野宗康の3男である前野勝長を養子に迎え、坪内勝長を名乗って家督を継いだ。
 野府城主であったことから野府前野氏ともいわれる。 

坪内為定 坪内宗高

 尾張国の土豪・坪内家の正式な2代当主・坪内友定の子に生まれる。坪内頼定の子とする資料もある。通称・惣兵衛、もしくは宗兵衛。兵法者としても知られる。
 初め犬山織田家の織田信康・信清の家臣で、松倉城の坪内衆や川並衆と呼ばれる集団に属していた。だが、犬山織田家を浪人して前野長康らと生駒屋敷に居候し、生駒屋敷にて織田弾正忠家の織田信長と出会った。信長の美濃攻略の際には木下藤吉郎に協力し、新加納に砦(後に旗本坪内氏の本拠となる陣屋)を築き、坪内家一門衆を説得して墨俣築城に協力させた。さらに小坂雄吉の協力も得るため説得するが失敗。二度目は蜂須賀正勝から預かった書状を持って雄吉のもとへ説得に行き、協力を得た。この時、互いに協力して説得に行った前野時氏の娘を妻にし、養子となって前野為定を名乗る。坪内家の家督は弟の勝定に譲った。時氏のもう一人の子である前野自勝を養子とし、為定は前野自唯と改めた。この子孫は讃岐前野氏,阿波前野氏となる。また、幕末期には後裔の前野庸範は、前野五郎の名で知られ、新撰組や靖兵隊の伍長として活躍した。 

 前野忠勝の子とされ、前野自勝を名乗る。養父の前野自唯と実父の忠勝からそれぞれ「自」「勝」の字の偏諱を受けた。坪内利定(利之)の娘婿となっていたため坪内姓で表記されるが、実際には前野を名乗っていた。
 永禄10年(1567年)、木下秀吉の軍勢に前野長康御内衆として参陣し、伊勢国に発向する。元亀元年(1570年)、秀吉が横山城代になるのに従って、弟の忠康や前野勘兵衛とともに城番となった。
 自勝の次男である前野自性は生駒家の江戸詰家老で、江戸時代初期に讃岐高松藩生駒家で起こった御家騒動「生駒騒動」で生駒将監らと対立して切腹処分となったが、切腹する前に病死した。前野助左衛門の子・前野唯雪は切腹となった。子孫は代々阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた。
 娘には、長曾我部盛親婚約,山田久左衛門室,山田將監室,津田大炊室,野々村源助室,小野木十左衛門室がいた。 

坪内勝定 前野長康坪内光景

 永正13年(1516年)に尾張国の武士・坪内友定の子に生まれる。藤原利仁流富樫氏族坪内氏の正式な4代目当主。別名を富樫勝定。織田信長に仕えた。母は坪内又五郎の娘で、その一族・坪内昌家の娘を妻とした。また、生駒右近の妹とも縁組していたとされ、この妻との間に生まれた長女が坪内光景の室とされる。
 永禄2年(1559年)、拾阿弥を斬殺して罪に問われていた前田利家を庇い、自らの松倉城にしばらく匿ったという。永禄9年(1566年)、尾張国葉栗郡松倉城にいた勝定は、木下藤吉郎から墨俣築城の一件で相談を受ける。兄・為定やその養父・前野時氏(忠勝)と話し合った結果、蜂須賀正勝率いる尾張国の土豪の蜂須賀党の協力を得るべきだという意見で一同一致する。蜂須賀党のいる宮後城を訪ねに行ったのは、藤吉郎と弟・木下小一郎,前野時氏,勝定と嫡男の坪内利定らで、正勝は勝定らの願いを受け入れ、墨俣築城に協力することを承諾した。信長による美濃攻略が終わってからも嫡男の利定とともに織田家で活躍し、信長の死後は現役で活躍したとも隠居したともいわれている。
 慶長14年(1609年)1月10日、享年94歳で亡くなった。勝定の生きた時代ではかなりの長生きであった。それに続くかのように嫡男・利定も翌年の慶長15年(1610年)に亡くなっている。坪内家は、江戸幕府の旗本として幕末まで御家が存続する。

 坪内光景という別名でも知られる。出自は『武功夜話』では勝定の娘婿で前野宗康の次男としている。定説や『寛政重修諸家譜』には勝定の嫡男とされるが、年齢面で矛盾する。
 大永8年(1528年)、岩倉織田氏の軍奉行である前野右京介宗康の次男に生まれる。前野村八屋敷の小次郎丸に住したとされる。
幼名は喜太郎の後に小太郎と改める。元服して通称を小右衛門と名乗る。小右衛門の小の字は前野家当主が代々通称に使用してきた通字である。
 越中国の牢人である遊佐河内守に兵法を学び、遊佐伝書なる兵術書を読んだという。正勝や生駒屋敷の生駒氏との縁で木下秀吉ともこの頃から関わりがあったとされる。
 弘治2年(1556年)9月、斎藤義龍が美濃国明智城攻めを始めると、犬山織田家の援軍として父・宗康や伯父の正義とともに明智城へ出陣したとされる。結果として伯父の正義は討ち死に、家督は正義の弟で長康の父である宗康か継承した。永禄元年(1558年)、織田信賢と織田信長との戦い「浮野の戦い」に父・宗康とともに出陣する。この戦い以前からも秀吉から弾正忠織田家への誘いがあったが、戦いの後に岩倉織田氏が滅亡すると、父・宗康と長康は生駒屋敷で信長に拝謁し、信長より丹羽郡五日市場に四十五貫文を賜わる。また、長康は信長に騎乗の才能を認められ、駒右衛門の名を賜った。
 この際、長康は清洲城軍奉行の滝川一益配下に入れられたが、朋輩衆との口論の末に信長から勘当された。それからしばらくの間は河内松倉城の前野時氏の元に身を寄せ、一党と屯していたという。
 永禄3年(1560年)3月、駿河国の今川義元が上洛を始めるという風聞が広まると、亡くなった父の宗康に代わり、母とされる妙善が河内松倉城に向かい長康を説得した。褒美を得る好機と捉えた長康・正勝らは三河国へ一党の者を散在させ、今川領との境の様子を伺っていたという。今川軍が尾張方面へ進軍を開始すると、織田・今川領の境の村の長で、蜂須賀党昵懇の仲である藤左衛門を先頭に指図し、百姓になりすまして今川義元軍に酒や勝栗などを献上した。この行動は今川軍を戦勝祝いで弱らせる戦略で、秀吉によるものという説もあるが、この頃の長康は秀吉の配下ではなかったため、今川家が尾張に進行した際の保身のためとの考えもある。
 後に藤吉郎秀吉に仕え、秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣となる。秀吉の重臣として認知されてはいるが、実際に報酬の手配をしていたのは織田家で、名目上は信長の家臣と云える。しかし、あくまで陪臣であるとして、信長の召集には基本的に応じなかった。
 永禄7年(1564年)5月、美濃斎藤氏との戦いの中で、木下秀吉による鵜沼城攻めの召集を受け、蜂須賀党らと共に坪内衆の待つ松倉城に参陣した。蜂須賀正勝とともに対岸の伊木忠次を調略するよう仰せつけられ、稲田植元,松原内匠らを率いて伊木山城に向かった。伊木山の山麓に布陣し、手筈通りに伊木忠次を味方に引き入れ伊木山城を手に入れると、合図の狼煙を待った。木曽川の上流から敗走し、鵜沼城を目指して川を下る敵部隊に、船を漕ぎ寄せ弓鉄砲を撃ちかけたという。この作戦は見事に成功し、数十艘の船を分捕ったという。
 同年9月、主君・秀吉が信長から加納・井の口への乱入、城下町への放火の命令を受けると、蜂須賀党や坪内衆らと共に松倉城に集まった。長康は正勝らと百姓の姿をして密かに瑞龍寺山に入り、放火のための薪を用意した。当日、裏山にまわった前野党により火の手が上がると、合図の狼煙をあげ、秀吉が弟の秀長や木下家定らを率いて稲葉山城硝煙蔵に放火し、坪内衆が城下町に火をかけた。風に煽られて稲葉山城や瑞龍寺山が火に包まれ、作戦は成功した。
 永禄8年(1565年)、通称を将右衛門に改める。後の永禄10年(1567年)、墨俣一夜城の築城でも功を挙げた。
 元亀元年(1570年)、信長による越前朝倉家攻めの際には、朝倉家一門の朝倉景恒が守る金ヶ崎城攻めで貢献した。その後の浅井長政の突然の裏切りによる撤退の際には秀吉のもとで殿を務めた。その後も秀吉の配下として武功を挙げ、播磨国三木城主となり、三木城を改修する。
 本能寺の変の際は三木城の守備にあたっており、信長没後は、秀吉が天下人に上る過程の、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い,天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い,天正13年(1585年)の四国攻めに軍監として参加して武功を挙げたため、同年閏8月に秀吉から播磨国三木から但馬国出石に5万3,000石で加増移封された。豊臣政権下では聚楽第造営の奉行を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇行幸の際には、その饗応役を務めた。
 天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、韮山城攻略のために上山田付城を築いた。この上山田付城に本陣を置き、蜂須賀家政らとともに韮山城を攻略したといわれている。北条家当主(もしくは隠居)への上洛催促の際、北条家に人質として差し出されることになっていたともいう。
 文禄元年(1592年)の文禄の役では、軍監および奉行衆の一人として、兵2,000名を連れて宇喜多秀家(総大将)率いる第二軍に参加。朝鮮上陸後は幸州山城攻めの戦いの前線で戦った。朝鮮勢の猛攻に遭い、多くの兵や家臣の前野定時らを失ったが奮戦した。これらの武功により、11万石に加増されている。
 豊臣秀次付の宿老となった後、文禄4年(1595年)に秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長康も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて中村一氏に身柄を預けられた。その後、嫡男の景定が自害を命じられると、それを追って京都伏見の六漢寺にて前野清助の介錯のもと切腹した。数歳享年68。

前野景定 前野忠康

 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の重臣・前野長康の子として生まれる。はじめ父の別名・坪内光景からの偏諱の「景」の字と坪内氏の通字の「定」の字をとって坪内景定と名乗る。後に父長康の「長」の字を賜って前野長重を名乗る。文禄の役の際は父と違って在京した。父と共に豊臣秀次付の家老となって秀次を支えた。しかし、文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことにより、豊臣秀吉から秀次与党として謀反連座の疑いで父と共に捕らえられ、中村一氏に預けられた。そして、そこで秀吉の命令により切腹した。駿河府中にて切腹ともされる。父もその3日後に伏見六漢寺で腹を切った。
 なお景定の妻・御長(於蝶)にも捕縛命令が出された。彼女は細川忠興の長女であったため、慌てた細川家では、重臣の松井康之などが奔走し、景定から離縁出家させて、ようやく捕縛を免れたという。また『武功夜話』によると男子、女子それぞれ1人の子がいたとされるが、これら2人の母親が御長だった場合、この子供は明智光秀の曾孫ということになるが、その2人が後にどうなったかは分かっていない。 

 父は前野忠勝で、室は豊臣秀次の筆頭宿老・前野長康(坪内光景)の娘とされる。養父である前野長康に仕えたとされる。
 豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の播磨出陣の際には、前野長康軍の後備えとして兵358人を率いた。その後も丹波国亀山城攻め、文禄の役などに付き添い武功を上げた。後に、黄母衣衆・若江八人衆の一人となり、各地を転戦し武勇をあげて活躍した。
 文禄3年(1594年)、秀次事件が起こった際、忠康は長康の代理で出石城におり、小池志摩守の軍が開城を迫ってきた。忠康は同じく出石城代で兄の前野自勝と話し合い、開城を決めた。忠康は藤堂高虎を頼り織田常真屋敷に匿われた。そのうちに秀次の家老である前野景定は命令により切腹し、景定の父で兵庫の舅である前野長康などは、景定切腹の3日後に前野清助の介錯のもと切腹した。こののち織田常真の推薦で、大場土佐と共に5千石で石田三成に招し抱えられ、島左近清興に次ぐ二番家老となった。
 慶長4年(1599年)、加藤清正らの七将が三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が起きた際には、嫡男の前野三七郎とともに三成の護衛にあたった。三成挙兵の際、兵庫は三成の命を受け、羽黒山伏姿の使者を越後に送り、斎藤利実や長尾景延ら越後国の土豪達を蜂起させた。また、家康との合戦に向けた武芸の稽古の際も家臣らの指導を担当した。
 慶長5年(1600年)8月23日、関ヶ原の戦いの前哨戦である合渡川の戦いでは、東軍の進軍を止めるべく、三成の命で兵1千を率いて森九兵衛らとともに合渡川畔に陣取った。兵庫や九兵衛らが兵に朝食を取らせている最中、黒田・田中隊の奇襲をうけ応戦したが、不利と見て梅野村まで退き再び敵を押し返すべく戦った。だがこの時点で戦える状態にある兵士は600人余にまで減っており、敗れて杉江勘兵衛を殿軍として大垣城まで退却した。この際、勘兵衛は討ち死にする。この時、前野吉康が敵に「舞兵庫討ち死に」と広め、追撃を止めさせたという。同年9月15日の関ヶ原の戦いでは小池村の二重柵の前に陣列し、石田三成軍第二番隊大将として中島宗左衛門,大場土佐,大田伯耆,香築間蔵人,三田村織部(浅井氏一門),町野介之丞,馬渡外記,川崎五郎左衛門らを率いて戦闘に臨み、嫡男の三七郎らとともに討ち死にしたと伝わるが、その生没は不明である。

前野自性 前野三七郎

讃岐高松藩江戸詰家老。前野助左衛門の通称で知られ、生駒騒動における前野派の主導者である。


 前野自勝の次男に生まれる。はじめ前野小助を名乗る。前野忠康の子とする資料もあるが、前野忠康の婿養子である。
 元は関白・豊臣秀次の筆頭家老・前野長康の一門であり、文禄の役にも従軍した。しかし秀次事件ののちに離散し、前野吉康や前野九郎兵衛らとともに石田三成に仕えた。合渡川の戦いにも出陣したという。関ヶ原の戦い後は藤堂高虎に匿われたのち、高虎の娘を娶って藤堂家に仕えた。
 後に高虎の斡旋で讃岐に転じて生駒家の家老となる。この時、同じく藤堂家臣・岡田某の屋敷に匿われていた前野忠康の娘・於台を娶る。生駒一正に近侍し、生駒正俊の代には1,000石の重臣となる。与力は四宮三郎右衛門(350石)他19人。石高が他の重臣より少ないのは、大番組を預かる侍9人中で唯一分散知行に徹したためである。高松城内屋敷は東の曲輪にあり、北に前田刑部,妹婿小野木十左衛門,南に生駒左門の屋敷と面していた。のちに高虎の凱旋で高松藩江戸詰家老となる。
 生駒高俊の代に家臣たちの勢力争いが起こり、いわゆる「生駒騒動」と呼ばれる御家騒動が起きる。元和7年(1621年)、高俊は父・正俊の死去により、11歳で藩主となった。高俊はまだ幼かったので、国家老の生駒将監の力を抑えるために外様家臣である自性が家老に加えられた。藩の主導権をめぐってと両者とその派閥の間に対立が生じた。自性は藤堂高虎や土井利勝(江戸幕府老中、大老職)に取り入り、前野長康の元家臣・石崎庄兵衛の子の石崎若狭や同家臣、上坂勘解由らと計って、生駒将監を落とし入れ、家老職から追放した。
 将監は失意のうちに寛政9年(1632年)没した。生駒家の内紛は一旦はこれで終息したかに見えたが、自性は権力を楯に味方する森出羽守を後任の国家老とした。気が納まらないのは将監の嫡子・生駒帯刀であった。寛永14年(1637年)、帯刀派は自性ら一類の者たちの横暴を訴えた。壱岐守生駒高俊付として「生駒帯刀指上訴状」十九ケ条にのぼる訴状を幕閣に上申した。かくて生駒家の内紛は表沙汰となり、豊臣系大名の取りつぶしの口実を幕府に与えることとなった。しかし、自性一派には藤堂高虎、土井利勝は娘が高俊の妻であり幕府大老職があり、両者の斡旋で事は一旦おさまり、破局は避けることができた。その後も両者の対立は解消せず。自性一派は生駒帯刀が水野日向守勝成の娘を室としていたため、陪臣(家来)の身で、大名家と婚姻を結ぶとはもってのほかであると非難したが、自性はその間に病死した。
 その後、生駒帯刀は主君・高俊を動かし、石崎,前野両人を罷免したので、両者はこの処置に激怒し、一類の者をはじめ家臣あげて武装して脱藩離散するという事態に至った。生駒家では幕閣の上裁を仰ぐが、事ここに至っては藤堂高次,土井利勝の力量をもってしても幕府を押さえることは許されず、寛永17年(1640年)7月、生駒家讃岐高松藩18万1800石は公収され、出羽国由利郡矢島へ移され、堪忍料一万石を与えられた。前野冶太夫,石崎若狭は切腹。上坂勘解由,森出雲守,石崎八郎右衛門,安藤蔵人,岡村又兵衛,小野木十左衛門ら、前野氏に仕えた一類の人々も徒党を組んで国を走り出た罪で、いずれも死刑となった。このうち森出雲守は自性の娘婿、小野木十左衛門は妹婿であり、事実上の一門であった。一方、生駒帯刀は忠義の心から事を起したとはいえ、家老としての処置を誤ったという理由で出雲国松江藩に預けられ、五十人扶持を与えられた。 

 天正15年(1587年)、豊臣氏の家臣・前野忠康の長男に生まれる。父・忠康の舅である前野長康が関白豊臣秀次の後見人になると、忠康は豊臣秀長の家臣となる。ところが、秀次事件が起き関白秀次が自害すると、前野長康・長重父子や前野忠康にも切腹命令などが発令されたが、太閤豊臣秀吉の赦しを得るため石田三成が弁護し、前野家一族は赦された。だがその知らせが届く頃には長康の嫡男・長重は既に切腹し、長康も京都・伏見の六漢寺で自害した後だった。
 父・忠康は前野姓を憚って舞野兵庫助忠康を名乗り、三七郎とともに石田三成に家老として取り立てられる。
 慶長4年(1599年)閏3月3日、五大老の一人で豊臣秀頼の後見人である前田利家が病死する。その直後、加藤清正,福島正則,黒田長政,細川忠興,浅野幸長,池田輝政,加藤嘉明らの七将が三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が起きた際には三七郎は三成の護衛にあたった。同年閏3月10日、三成が五奉行の職を退き佐和山城に帰城すると、三七郎は来たるべき戦いに向けて父・忠康から武芸の稽古を受けた。三成が挙兵すると、三七郎は父とともに越後に一揆を起こさせるなど各方面で活躍した。
 慶長5年(1600年)8月、西軍の織田秀信が守る岐阜城が東軍の池田輝政らに落とされる。さらに東軍の総大将である徳川家康は藤堂高虎や田中吉政らを大将にした一軍を合渡川に進出させた。この一軍を迎え撃つため、三成の命で父・忠康とともに兵1000名を率いて合渡川に向かう。翌日の明け方、兵士らに朝食を摂らせている最中に東軍の奇襲を受け、西軍の兵士らは一時混乱状態になって退いたものの、忠康と三七郎が梅野村で立て直して奮戦する。だがこの時点で兵士400名が討死および負傷しており、杉江勘兵衛を殿軍にして大垣城まで退却する。この際、勘兵衛は討死している。
 9月15日、関ヶ原の戦いの際には石田三成本隊の最前線で父の忠康や前野九郎兵衛とともに奮戦し、一時は東軍の黒田隊を圧倒したが、小早川秀秋寝返りの報せにより前野家臣衆は総崩れとなり、討ち死にした。享年14(一説に13歳とも)。


前野信之 前野庸範

 阿波徳島藩御奉行役の前野延左衛門自房の4男に生まれた。初め前野與四郎を名乗る。信之はじめ兄弟は多くが妾腹であり、唯一妾腹でなかった3男の彌三郎も早世したため、自房の庶長子で與四郎の同母長兄にあたる牛之助が嫡子と定められ、前野新介有鄰と称し御目見を得た。しかし有鄰は死去し、続いて妾腹次男の前野以禮が嫡子に定められたがこれも死去した。
 文化7年(1810年)7月18日、父の自房が死去すると、妾腹4男の與四郎が当主になり、父の自房や祖父の自賢と同じ通称である延左衛門を称して元服、諱を信之とした。同年9月13日、家督を継承する。石高は200石とも250石とも伝わる。始めは国許における留守番であったが、後に在江戸藩士となった。
 正妻には増田希哲の娘を迎えたが、後に解縁となり、後妻には阿波前野氏と縁戚の槙島家から槙島重勇の娘が迎えられた。長男の寛太郎が早世したため、縁戚にあたる佐々直貞に願い通って直貞の義弟を婿養子に迎え、阿波前野氏代々の通字の「自」と信之の「之」の字の偏諱を合わせて前野嚴蔵自之と名乗らせた。
 嘉永3年(1851年)6月24日、養子の嚴蔵自之への家督継承を願い置いて病死した。


 弘化2年(1845年)、阿波徳島藩の上士である前野自敏(前野健太郎)の次男に生まれる。
 慶応2年(1866年)冬頃に京都で入隊し、この時点では平隊士として見廻組並御雇の格を受けていた。慶応3年(1867年)6月に新選組が幕臣に取り立てられた際も同じく平隊士のままであった。9月、新選組による最後の隊士募集の際、土方歳三や井上源三郎に従って江戸に下る。そして新入隊士を率いて11月に京都に戻った。12月7日、天満屋事件の際には斎藤一らと共に紀伊和歌山藩の藩士・三浦休太郎を警護した。
 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗北し、新選組は江戸に戻る。2月末、新選組が甲陽鎮撫隊と称して甲斐勝沼で官軍と戦うが江戸へ敗走した(甲州勝沼の戦い)。3月11日、永倉新八や原田左之助が近藤勇,土方歳三らとの確執から袂を分かつと、五郎は林ら7名と共に永倉に従った。この際に永倉・原田・芳賀宜道らにより靖兵隊(靖共隊)が結成され、五郎は伍長、歩兵取締に就任した。8月21日、北関東各地を転戦した永倉や芳賀が下野高原宿で靖兵隊を五郎や林に預けて会津藩に向かったため、五郎らも隊を率いて会津に向かうが、8月30日に会津西街道の大内峠で北上する官軍と戦って敗北。なおも戦闘を続行した林に対し、五郎は薩摩藩にいた知己の加納鷲雄(加納道之助)を頼って官軍に降伏し、薩摩藩付属となった。ただし江戸から脱走したとの記録もある。
 戊辰戦争後の明治2年(1869年)9月、五郎は北海道で開拓付属となり、同じく阿波出身の開拓判官・岡本監輔に付いて樺太に赴任。その後、明治4年2月に持病の再発を理由に辞職した。病気が癒えると札幌薄野に出て建設労働者向けの遊郭を営み、相当な収入を得ていたとされる。明治12年(1879年)、妻・富久(フク)との間に三男が生まれ、尊敬する岡本監輔の幼名をもらい文平と名付けた。
 明治24年(1891年)に岡本監輔と再会すると千島列島の開発計画に共鳴。自ら私財を投じ千島共済組合を設立した。翌明治25年(1892年)4月19日、択捉島を探検した帰途、紗那郡磯谷の山中へ狩猟に出かけた際に小橋から転落。その際に手にしていた銃が暴発して即死した。享年48。永倉新八の遺稿「名前覚」では、五郎は事故死ではなく殺害されたとされるが、真偽は不明。墓は札幌市豊平区里塚霊園にある。
 前野五郎は剣術の腕は普通だが、刀剣鑑定の目利きや馬術に関しては相当なもので、刀の鑑定眼は新選組第一だったと記録がある。また、かなりの酒豪であったという。 

坪内利定 前野定鑑

 尾張葉栗郡松倉生まれという。鉄砲術に優れていたという。戦国期の松倉城は尾張と美濃の境にあり、戦略上重要な地であった。利定は織田信長に仕え、境川(木曽川)沿いの国人をまとめ上げる役割を担っていたという。国人衆には、蜂須賀正勝,前野長康,大沢次郎左衛門,松原内匠,日比野六太夫,青山新七などがいた。
 永禄2年(1559年)、拾阿弥を斬殺した罪で出仕停止処分を受け浪人暮らしをしていた前田利家を庇い、しばらく松倉城に住まわせたという。伝承によれば、永禄9年(1566年)、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による墨俣城築城の際、木曽山中より木材を流し、松倉にて陸揚げ、加工を施してから再び川に流し、墨俣に送るという、重要な役割を果たす。これが稲葉山城攻略の大きな手助けになったとされる。播磨国平定戦(高倉城攻め)で、秀吉が利定の軍功を他人の軍功と見誤ったことなどから、信長の死後、秀吉と不和となり、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは秀吉の直臣としてではなく、秀吉方に属した金山城主・森長可の下に付く。しかし、当合戦で長可が戦死したために浪人となり、天正18年(1590年)に徳川家康に召しだされて仕え、上総国・武蔵国において3,400石を領した。
 慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐に鉄砲隊を率いて参戦。関ヶ原の戦いでは東軍東海道本隊(徳川隊)に属し、鉄砲隊を率いて功績を挙げる。この功績により、美濃羽栗郡・各務郡20村の6,500石を治める大身旗本となり、同年、拠点を松倉城から各務郡新加納の新加納陣屋に移す。坪内氏は明治初期の版籍奉還まで大身旗本として存続する。
 坪内利定と豊臣秀吉は仲違いし、利定は徳川家康に匿われて仕え、秀吉は天下人となった頃、秀吉が家康に「そういえば最近、坪内玄蕃(利定)を見ないな」と言ったが、家康は「なぜでしょうね。私は知りません」としらを切った。
 石谷貞清が利定に、どうやったらそのように活躍できるのだ、と問うたとき、玄蕃は「皆は戦場で功名を挙げたい時に武神である八幡神を頼んでいる。そこで自分も八幡神を頼んだ場合、相手も自分もどちらも八幡神頼みであるのでその願いは成就しないと思う。なので自分はいつも、(相手の)八幡神を刺し通してやろうとだけ思っている。ということで、戦場で後れを取ることはない」と答えたという。

 万治元年(1658年)、4代将軍・徳川家綱に拝謁し、寛文7年(1667年)に小姓組に列する。翌寛文8年(1668年)、兄の定守が口論から同僚の水野正元を斬殺するという刃傷沙汰を起こして逐電したため、延宝元年(1673年)に父の家督を継承する。元禄10年(1697年)には300石を加増されて1,100石を知行することとなり、書院番士から使番に、ついで御手先筒頭,火付盗賊改方加役と累進し、宝永2年(1705年)、南町奉行に就任すると同寺に能登守に叙任され、同職を2年間勤仕したのちに中町奉行に赴任、享保4年(1719年)まで勤め上げた。合計14年間、江戸町奉行を務め、江戸の治安維持や事件の裁決を担当した。正徳元年(1711年)には功績を賞され熨斗縮,絹縮,越後縮等を賜っている。
 7代将軍・徳川家継の時代の正徳4年1月(1714年2月)に起こった江戸城大奥の綱紀粛正事件である「江島生島事件」の糾明・裁定にも目付・稲生正武,大目付・仙石久尚と共に手腕を発揮、絵島はじめ大奥の女中や事件に荷担した者達への尋問を迅速に施行し、紛糾する諸問題を処理したが、拙速を尊ぶあまり流人証文に記載する人物の名を間違えると失態を犯し、同年4月から将軍への拝謁を1ヶ月停止させられる処分を受けた。
 享保4年(1719年)に町奉行の職を辞して寄合となり、享保8年(1723年)10月13日に75歳で死去した。その後は甥で養子の定富(兄定守の子)が継いだ。なお、中町奉行は定鑑の辞職と共に廃止されている。中町奉行を務めたのは、定鑑と丹羽長守の2名のみである。
 奉行としての仕事ぶりは地味ながらも堅実で、町奉行の務めを地道に励行していた。しかし、新井白石と間部詮房が推進する正徳の治には積極的に関与せず、一定の距離を置いていたため、白石からは批判的な評価を受けている。また、江島生島事件では共に尋問を行った仙石,稲生と共に民衆から落書にて風刺され、定鑑は「風向き次第に飛ぶ糸の切れた凧」に例えられて揶揄された。一方で気配りの利くエピソードも残っている。小伝馬町の牢屋敷に収容された囚人への差し入れはそれまで役人から牢名主を経由して囚人の下に届くという慣例であったが、牢名主による差し入れの横領が横行していた。定鑑はこの悪習を防止するべく、慣例を改めさせ役人から直接囚人の手に届くように改めた。 

前野辰定 前野勝長

 尾張国の前野右近大夫澄定の嫡男に生まれる。生年は不詳だが、初めは前野長康の家臣であったとされるため、少なくとも文禄4年以前ということになる。初め前野左馬亮を名乗り、後に前野兵大夫辰定と改名した。
 慶長17年(1612年)3月24日、父の澄定が病死し、2年後の慶長19年(1614年)に美濃国に退居した。美濃国には叔父の坪内利定の家系が大身旗本として新加納陣屋に拠点を置いていた。同年、大坂の陣では瑞雲院(蜂須賀家政)に召し出されて随い、峻德院(蜂須賀至鎮)旗下で戦ったという。その帰陣の供をして、元和元年(1615年)9月、阿波国名西郡南嶋村に知行400石を賜った。
 正室には兼松摠右衛門某の娘を迎え、2男1女をもうけた。前野助左衛門自性の娘も兵大夫の室とされている。後に家督を嫡男の前野定辰に継承した。
 寛永元年(1624年)、蜂須賀家政が宮後村八幡社を再建、御本殿を寄進した。この社の社人は三輪若狭といって蜂須賀氏の縁者であり、宮後村といえば家政の生まれ育った場所であったため、本殿の壮厳さやその普請はとても大規模なものであったという。その落成に応じて、在所に由縁のある稲田植次,前野伝左衛門と共に、御名代衆として落成の無事を祝う言葉を伝えるため生駒屋敷に向かった。辰定らが代参する旨は、参勤明けの途路にあった蜂須賀家一行が東海道熱田の渡し口で船を待っている時に生駒屋敷の生駒利豊に急度伝えられたことであった。そのため、この事を聞いたかつての前野家一党である野田清助門(前野義康の子)、吉田雄翟,吉田正直(前野長康の甥)らが急いで在地の地下衆を総動員し、三人衆を出迎えた。名代三人衆は社に昇殿した後、三輪若狭宅にて湯茶を飲み、夜は生駒屋敷に泊まった。翌日は熱田まで帰る予定であったが、前野一党縁故の者が前野村で待っており、この機会を逃しては再度会うこともないので自宅に立ち寄って欲しいと吉田雄翟が懇願した。三人衆はこれを了承し、宮後村に隣接する前野村の屋敷を訪れた。ここにはかつての前野一族が吉田,野田,岩田などと名を変えて住んでいたが、辰定ら知己の者は激減していた。それでもその数少ない生き残りの者たちは本家筋にあたる辰定らとの再会を喜び、吉田雄翟は辰定から生駒騒動について聞いたことを書き記して残した。
 寛永20年(1644年)3月3日、南嶋村から淡路国三原郡内に移り、剃物を賜って由良浦屋敷に隠居した。万治2年(1659年)10月14日、病死した。 

 尾張国の土豪・前野家の前野宗康(前野舜秀)の3男(『寛政重修諸家譜』には長男)に生まれる。前野加賀守勝長を名乗る。小豆坂の戦いや桶狭間の戦いで活躍した後に佐々成政の家臣となった。元亀元年(1570年)6月22日、姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」の際には小谷より退却の時に殿軍を務めた成政軍の中で奮戦した。主君・成政とともに越中に攻め入った際、井波城主となり1万5000石を領した。その後、成政の命で越中魚津城・松倉城を攻め落とす(魚津城合戦)。
 この頃、叔父とされる坪内忠勝の養子となり坪内勝長を名乗る。天正12年(1584年)、成政と前田利家が争った時、朝日山城の戦いや末森城攻めなどで軍功を挙げる(朝日山城の戦い・末森城の戦い)。家老職に任じられるが、病気のため越中新川郡にて没。戦死とも伝わる。
 また、織田信長の鉄砲隊の中心である成政の鉄砲隊の奉行を務め、鉄砲三段射撃を考案した人物の一人となった。勝長の長男である前野吉康は佐々成政の妹を妻としたとされる。
 『肥後国前野佐々氏系図』の記述によると、この勝長は『水戸黄門漫遊記』に出てくる佐々木助三郎の先祖である。前野義康の子・常円が建てた観音寺に勝長の供養塔が建てられた。

佐々吉康
佐々宗淳

 佐々成政家老の前野勝長の子として生まれる。佐々成政の姉を妻とし、名を佐々宗直と改めた。初めは村瀬喜平次と名乗って前野長康に従い、馬廻衆や荷駄隊の一人として出陣することもあった。母が佐々政元の娘であり、佐々成政の姉婿にもなって佐々氏一門となった。
 吉康は佐々成政とともに肥後国に赴いたが、成政が切腹処分となると蜂須賀家家老の稲田植元のもとに身を寄せたという。のちに長康の婿養子である忠康とともに石田三成にも仕えた。合渡川の戦いの際に舞兵庫(前野忠康)は戦死したという噂を敵に流し、関ヶ原の戦いで前野忠康軍の攻撃を受けた東軍の兵士を混乱させた。
 時期は不詳ながら、佐々宗直と名乗って前野氏系佐々氏の祖となった。この前野佐々氏の人物で有名なのが佐々宗淳である。佐々宗淳は、『水戸黄門』に登場する介さんのモデルであり、吉康の曾孫である。 

 戦国武将・佐々成政の実姉の曾孫にあたる。父の直尚は、はじめ熊本の加藤氏、寛永に讃岐に移って生駒高俊に仕えた。しかし、生駒騒動が起きると直尚の一家も讃岐を立ち退くこととなり、その途上、瀬戸内の一小島で生まれた。そのため、幼名は島介といった。その後、父は大和の宇陀松山藩の織田高長に仕え、少年期は宇陀で過ごした。
 承応3年(1654年)15歳のときに京の臨済宗妙心寺の僧となり、「祖淳」と号した。妙心寺において『本朝高僧伝』等を著した仏教史家の卍元師蛮に師事し、後に隠元隆琦にも学び、多武峰や高野山,比叡山に赴くなどその他の宗派も積極的に修行した。しかし、「父母兄弟が殺されても復讐してはならない」とする梵網経の一節を読んで仏教に疑問を持ち、密かに論語を読み儒学に傾倒するようになった。
 延宝元年(1673年)、34歳のとき還俗。江戸に出て翌延宝2年9月、水戸藩に仕官し進物番兼史館編修となる。光圀はその大胆さと見識を愛して側近として用いた。光圀のもとで『大日本史』の編纂に携わった彰考館史臣の中心人物の一人であり、とりわけ史料収集に多く派遣された。これは京や奈良に関わり深い経歴にもよるものでもあるが、各地を歴訪して古典・文書を探索し、その真偽を鑑定する学力を有しているとされたためである。特に延宝8年(1680年)の「高野山文書」、天和元年(1681年)の「東大寺文書」の調査は、古文書研究の上でも後世に大きく貢献することとなった。また那須国造碑の修復と調査、楠公碑の建立の現地監督を行なった。
 元禄元年(1688年)、史館総裁に任ぜられる。元禄9年(1696年)、史館総裁を辞任。その後は西山荘の光圀に近侍し、近くの不老沢に居を構えた。元禄11年(1698年)、不老沢の宅にて死去。享年59(満58歳没)。同族の子孫に佐々友房,佐々弘雄,佐々淳行がいる。