<藤原氏>北家 魚名流 ― 利仁流

F837:藤原重光  藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 藤原重光 ― 遠山景朝 F838:遠山景朝


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遠山景朝 遠山頼景

 父親の加藤景廉は源頼朝の信任が厚く鎌倉幕府成立後に御家人となり、各地に荘園を与えられた。その荘園の中で美濃国恵那郡の遠山荘を長男の景朝が相続して地頭となり、遠山氏を称し岩村城を本拠地として統治した。当初は加藤太郎と称したが、その後、遠山左衛門尉景朝と称した。
 建仁3年(1203年)9月の比企能員の変において、北条時政の命で比企能員を謀殺した仁田忠常を父親の景廉と伴に倒して功を立てたと『吾妻鏡』に記されている。承久元年(1219年)、鎌倉幕府の4代将軍として京都から鎌倉に向かう九条頼経の供をする。承久3年(1221年)6月の承久の乱で鎌倉幕府が朝廷に勝利した後、北条泰時の命により、朝廷側の公家・一条信能を岩村に連行し斬首。
 恵那市岩村町の武並神社には遠山景朝が祭神として祀られている。

 遠山氏の宗家は岩村城主の岩村遠山氏であるが、途中で断絶したため、明知遠山氏の遠山頼景が遠山荘の地頭となっていた。頼景が岩村遠山氏を継いで岩村城主となった。
 永正5年(1508年)に遠山頼景が岩村城内八幡宮に奉納したの棟札に、『奉造立八幡宮 大壇那藤原頼景 願主敬白 永正五戊辰年十一月廿八日御代官』とある。
 永正5年(1508年)旧暦8月、今川氏親名代の伊勢宗瑞(北条早雲)率いる今川軍が大樹寺を本陣として三河岩津城を攻めた。その際に、遠山景前が松平長親に加勢したという記録があるが、当時、景前は生まれておらず、遠山頼景のことであろうと推測される。

遠山景任

 織田信長と縁戚関係を結び、信長の叔母を娶るとともに、信長の子(御坊丸のちの織田勝長)を養子に迎え継嗣とした。
 元亀3年(1572年)、上洛を目指す武田信玄が部将の秋山信友に軍を預けて東美濃へと攻め込んできたとき、景任は遠山景行,遠山友忠などを伴って徳川氏にも援軍を要請して対峙。上村で激突したが敗れ、岩村城へと退いた(上村合戦)。
 その後、籠城して秋山勢と抗戦しようとしたが、元亀3年(1572年)12月3日に城中にて病死してしまった(あるいは上村合戦で受けた傷がもとで、36歳で死去したとも)。また同じ頃、信長の援軍(織田信広,河尻秀隆ら)が派遣されたが、援軍は信友の伏兵に敗れて撤退してしまう。そのため、城主の死と援軍の敗走が重なった城兵の士気は一気に下がり、景任の妻は信友の妻となることで降伏してしまった。彼の死により、美濃遠山氏惣領家たる岩村遠山氏の血統は断絶した。