<藤原氏>北家 魚名流 ― 利仁流

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遠山景行 遠山利景

 天文21年(1552年)、土岐明智家で当主の明智定明が弟の明智定衡に殺されるという内紛があり、その混乱に乗じて、御嵩城主の小栗信濃守が、土岐明智氏の居城である高山城を攻略しようとした。その際、景行は甲斐国の武田氏の支援を受けて小里光忠らとともにが反撃し、御嵩城を攻め落とした。以降、景行は、小里光忠 とともに武田信玄に属し、東美濃の主要な支配者となった。
 後に明知遠山家を含めた遠山家は、美濃に勢力を拡張する織田信長に接近することになる。その時期は定かでないが、永禄8年(1565年)に信長が東美濃に侵攻した際、景行,小里光忠は一切登場しないことから、すでにその頃には織田氏との関係が築かれていたと考えられている。また、同年11月、武田勝頼が織田信長の養女(苗木城主・遠山直廉と信長の妹の間の娘)と婚姻していることを考慮すると、遠山景行は、織田氏と武田氏の間を取り持ち、両者を味方につけて美濃斎藤氏に対抗していた可能性が高い。時期は明確でないが、信長の美濃攻略以前に岩村城主・遠山景任に、織田信長の叔母が嫁いでいたことは良く知られている。景行は、織田信長の正室の伯父となり、織田家と結びつく必然性がある。その縁もあったためか、織田氏と武田氏が対立してからは、全面的に織田氏につくことになる。
 元亀3年(1572年)、足利義昭に忠義を誓い、本願寺と結んだ武田信玄は、信長打倒のために西上を開始する。東美濃においては、その11月、秋山信友が遠山景任病死後の岩村城をはじめ、明知,苗木,飯狭,串原などの遠山氏領を攻略した。そのような状況のなか、同年12月28日、景行(入道宗叔)はほかの遠山諸氏や小里氏、さらには徳川勢の援軍を得て、秋山信友率いる武田軍と上村の地で合戦に及んだ(上村合戦)。この合戦で、遠山勢は敗れ、小里光次などとともに討ち死にした。享年64。墓は恵那市杉野の安住寺にある。そこには、永禄4年(1561年)に亡くなった妻の墓もある。また、子の利景が建立した龍護寺にも墓がある。 

 天文9年(1540年)、明智に生まれる。正室の慈正院は、三河足助城主の鈴木滋直の娘で、その母は松平清康の妹で家康の育ての母である松平久子。
 幼い頃より飯高山万勝寺に入門していたが、元亀3年(1572年)の上村合戦で武田軍に敗れ、父が自害、兄も討死したことから還俗し、幼主・一行(景玄の嫡男)を補佐した。
 天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際には一行とともに甲府に在番。甲斐を出て江尻城にいた本多重次を訪ね、一族が徳川方に味方することを誓う。
 同年、森長可に敗れ、明知城を追われた。その後、小牧・超久手の戦いの際に井伊直政から兵の援助を受けて手薄な長可の所領に侵攻し、明知城を奪還した。続いて長可の家臣の各務元正の守る岩村城も攻めるが失敗し、逆に遠山半左衛門などが討ち取られたため、それ以上の侵攻は頓挫した。戦後の羽柴秀吉と織田信雄との和睦によって明知城を再び追われることになったため、足助城の鈴木氏を頼った。
 関ヶ原の戦いにおいては、西軍に属した田丸具安の岩村城を攻め、その功によって旧領に復した。
 徳川家康からは丁重に扱われ、奏者役などを務めた。慶長17年(1612年)に死去、享年73。菩提寺は自ら創建した龍護寺。子孫は江戸末期まで、転封することなく旗本としてほぼ旧領(6500石)を維持。

遠山方景 遠山一行

 江戸時代初期の江戸幕府の旗本(交代寄合)。美濃国恵那郡の明知城に生まれる。元亀元年(1570年)12月28日の上村合戦で武田軍の秋山虎繁に敗れた祖父の景行は自刃し、叔父の景玄も戦死した。天正2年(1574年)2月7日に武田勝頼の家臣・山県昌景の侵攻の際に、もう一人の叔父の遠山友治も討死にし、明知城は落城した。
 本来の明知遠山氏の後継者である叔父の景玄の遺児で嫡流の遠山一行(与助)は未だ幼少であったために、家臣一同が相談して父を還俗させて明知遠山氏を継がせた。遠山利景と名乗り、通称を勘右衛門と称した。
 その後、妻との間に方景が生まれたが、父の利景は、景玄の遺児の遠山一行を養嗣子とし、また上村合戦で武田氏と戦って当主が討死した串原遠山氏の遠山景男の遺児の遠山経景も養子としたため、兄弟ということになった。
 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いの後、織田信忠は、武田方が籠る岩村城を攻囲したが、その戦いにおいて父の利景は小里城を落とし、明知城を奪還した。天正10年(1582年)の甲州征伐の際には、父の利景は徳川家康の麾下に属して、方景と一行を伴って参加。そのまま河尻秀隆らと甲府の守りついたが、本能寺の変を知って帰還した。河尻秀隆の甲府入りの際には利景,一行,方景が従っており、その後は共に甲府の守備に就いていることから、利景らは秀隆の与力にあたると推測される。この時、父の利景は駿河国に赴き、江尻城にいた本多重次を訪ねて、今後は一族は徳川方に従うことを誓ったが、直後に羽柴秀吉より美濃金山城主・森長可に従い人質を出すように命ずる書状が届いたため、一行の娘を金山城に人質として送った。
 しかし、天正11年(1583年)、父の利景と伴に密かに明知城を出て、三河足助城に移ると家康の麾下に入った。これを知った森長可は激怒して人質としていた一行の娘の阿子と老女2人を磔刑にして屍を美濃と三河の境にある野原村の矢作川の河原に三河側から見えるように晒した。その後、明知城は森長可の手に落ちた。
 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると、明知城は森長可の家臣の石黒藤蔵,関左門の2人が守っていたが、4月17日、父の利景は策を講じてこれを襲い、城を奪還すると共に首級15を挙げた。そのうち3つを小牧の家康本陣に送り、西尾吉次と本多正信が首実検をし、論功行賞で明知の所領安堵が認められた。さらに加勢を受けて手薄な森長可領を攻撃したが、森長可の家臣・各務元正の守る岩村城への攻撃は失敗し、逆に遠山半左衛門などが討ち取られたため、それ以上の侵攻は頓挫した。他方、真田昌幸を押し込めるための小諸城の守りに派遣された依田康国の配下には一行もいた。
 同年11月に秀吉と織田信雄との和睦を機に終戦すると、秀吉の命令で明知城は戦死した森長可の弟の森忠政の所領に加えられることになり、利景と方景は再び追われて足助城の鈴木氏を頼った。
 天正13年(1585年)、徳川家康が下条康長(牛千代)に対し、天文年間に下条氏が武田信玄から与えられて領地としていた恵那郡上村を遠山勘左衛門(おそらく正しくは勘右衛門=利景)に引き渡すように書状を送り命じた。天正16年(1588年)の冬、家康の使いとして信濃~甲斐~駿河を行き来していた一行は、信濃と甲斐の国境の平沢峠で大雪に遭い亡くなったため、明知遠山氏の嫡流である景玄系は断絶したが、このことにより方景が明知遠山氏を嗣ぐこととなった。
 天正18年(1590年)、北条氏直の小田原征伐に、父の利景は徳川軍の一員として方景と、串原遠山氏から養子の経景とともに従軍した。この戦は方景にとって初陣であった。後北条氏が滅亡し家康が関東に転封されると、父の利景は上総国で知行地を賜った。また江戸の下谷に2,700坪の屋敷を賜った。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、利景,遠山友政,小里光親らは、西軍についた田丸直昌から領地を取り戻すために徳川方について東軍に参加することとし、木曽路を美濃に向けて進軍した(東濃の戦い)。利景と方景は、8月下旬、小里光親と共に明知城を包囲し、9月2日に田丸氏の守将は明知城を放棄して敗走したため追撃して首級13を挙げ、明知城を奪還した。さらに共同で岩村城の田丸主水を包囲し、妻木頼忠が土岐砦と高山砦を陥した。15日に関ヶ原本戦が決着した後、田丸勢は投降し、友政が岩村城を接収し、夜が明けて諸将が撤収後は利景と家臣が岩村城を守備し、土岐砦は方景が守り、明知城には経景を入れて守せらせた。父の利景は、その功で戦後に旧領回復を成し遂げて江戸幕府成立後の慶長8年(1603年)、美濃国恵那郡と土岐郡において6,530石の知行地を朱印状で認められ交代寄合となり、伏見にて従五位下・民部少輔に任じられ、9月27日に家康が大坂城に入城した際には御奏者奉行を務めた。
 ある日、方景は鷹狩の途中で偶然立寄った小庵に祖父の遠山景行の位牌が安置されて密かに供養されていることを知って感激した。慶長15年(1610年)、小庵を改めて寺院を開基することとし、明知遠山氏の菩提寺である龍護寺を開山した三河三玄寺の五世の椽室宗採に依頼して雲祥寺を開山した。方景より、寺領として山林9町歩,田畑1町歩が寄進され、住職には遠山姓と家紋の使用が許された。
 江戸幕府成立後に父の利景は交代寄合となった後は、串原遠山氏より養子とした経景に領地の中から吉良見村,猿爪村の五百石を分け与え、旗本明知遠山氏の家老とした。経景の11代目の子孫の正景の代に「永田」と改姓し、代々幕末まで明知遠山氏を支えた。
 慶長18年(1613年)、妻が亡くなり雲祥寺に葬った。慶長19年(1614年)、父の利景が亡くなり龍護寺に葬られた。享年75。方景が交代寄合の明知遠山氏の二代目の家督を継いだ。同年、大坂冬の陣に供奉し、徳川家康の天王寺の茶臼山本陣の右に備えた。
 元和元年(1615年)、大坂夏の陣は嫡男の長景にとって初陣となった。河内国枚方の押を守備し、御帷子2つを拝領した。家老の遠山景常(嘉兵衛)、景常の子の遠山七衛門(五郎八)らも伴に参加した。出陣の際に久保原村の金日院にて厄除けと道中安全を祈願した。久保原村の与八は、松明100本を献上した。
 同年に江戸幕府の命により明知城を廃城として、明知城西麓の大手門近くに明知陣屋を築いた。寛永2年(1625年)、知行所の石高6,531石6斗余につき江戸幕府より朱印状を賜った。その後、明知と江戸を隔年で参勤交代を行った。
 寛永3年(1626年)、方景は明知にて病気療養をしたが、その期間は嫡男の長景が江戸で勤仕を代行した。寛永15年(1638年)、方景は明知ににて卒去。享年64。菩提寺の龍護寺の墓地に葬られた。

 美濃国恵那郡明知に生まれる。元亀元年(1570年)12月28日、秋山虎繁が率いる武田軍の東美濃・三河侵攻を防ぐために勃発した上村合戦において大将として参戦した祖父の遠山景行は敗れて自刃し、父の遠山景玄も討死したため、叔父の遠山友治と共に明知城を守った。
 天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は信玄の遺志を果たすため、山県昌景ら甲斐・信濃・飛騨・越中・上野の5ヶ国3万人の兵を率いて織田信長を圧迫するため美濃恵那郡に侵攻し、寺社を悉く破壊した後に岩村城に入った。明知城の北に陣を敷いて、美濃・尾張・三河・遠江攻略の拠点となる明知城を、1万5千の大軍で攻めて占領しようとした。明知遠山氏は、先の上村合戦の折に屈強な兵は悉く討死し、老弱な兵のみであったため、信長は明知城に兵200騎を送り、明知城主の一行と叔父の遠山友治らは総勢500人でこれを防ぎながら、信長に救援を求めた。信長は明知城を失う重大さを思い、奈良多聞山城から呼び寄せた嫡男の織田信忠と明智光秀とともに、3万の兵にて明知城より北東にある鶴岡山に布陣し、包囲された明知遠山氏と連絡して武田勢を挟撃しようとした。
 武田勢は織田方の遠山氏の苗木城,明照城,大井城,串原城,今見砦,阿木城,妻木城等の城砦を陥れた。そのため信長は、東濃の神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。 天正2年(1574年)、武田勝頼の家臣・山県昌景の侵攻により明知城の戦いが勃発しようとした。
 武田勢は明知城を包囲した。遠山友治は死守しつつ織田信長に救援を頼んだ。信長は嫡男の織田信忠とともに自ら出陣し援けようとした。信長は美濃の諸将(池田恒興,河尻秀隆,森長可,蜂屋頼隆,塚本)など3万人を率いたとされるが、山県昌景が兵6千人を率いて鶴岡山の山麓を廻り、信長軍の進路を遮ると、信長は兵を退いて布陣した。遠山十八城のうち明知城は17番目に落城した。落城した際に叔父の遠山友治も討死している。この後、武田軍は機に乗じて川中島衆を派遣して飯羽間城を攻め落とした。 その後、上杉謙信の軍勢が動いたことを知った武田勝頼は東美濃から撤兵した。
 一行が、未だ若かったことから家臣一同が相談して、飯高山満昌寺の僧となっていた一行の叔父の遠山利景を還俗させて明知遠山氏を継がせ、一行は景行の猶子となった。
 天正3年(1575年)5月21日、武田勝頼は長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗し、山県昌景,馬場信春ら多くの重臣を失った。このため、織田・徳川による武田反攻が始まることとなった。信長は嫡男・信忠に軍を預けて岩村城に侵攻させた。これに対して武田勝頼は援軍に向おうとし、勝頼の動きを聞いた信長も11月14日に京から岐阜へ向かった。
 上村合戦で武田(秋山軍)との戦いで生き残った明知遠山氏と串原遠山氏の一族・郎党達は織田・徳川方に付く者と武田方に付く者の二手に分かれた。これより半年前から、織田・徳川方に付いた一行は上村に、遠山左衛門は中津川に、土岐三兵は竹折に、小里内作は大川に駐留して、各方面から岩村城への補給路を断った。織田信忠は岩村城を攻囲し勝利した。その戦いにおいて一行と利景は小里城を落とし、明知城を奪還した。
 天正10年(1582年)の甲州征伐の際には、徳川家康の麾下に属して参加、そのまま河尻秀隆らと甲府の守りついていたが、本能寺の変を知って帰還した。この時、駿河国に赴き、江尻城にいた本多重次を訪ねて、今後は一族は徳川方に従うことを誓ったが、直後に羽柴秀吉より美濃金山城主森長可に従い人質を出すように命ずる書状があり、一行の娘の阿子を金山城に人質として送った。
 天正11年(1583年)、城主の遠山一行と叔父の遠山利景は密かに明知城を出て、利景の妻の実家である三河足助城の鈴木氏を頼り家康の麾下に入った。これを知った森長可は激怒して、人質としていた一行の娘の阿子と、老女2名を磔刑にした。明知城も長可の手に落ちた。家康は、一行の娘の阿子が森長可によって処刑されたことを聞き、遠山利景に対して何度も憐みの言葉をかけたと伝わる。
 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると、明知城は森長可の家臣の石黒藤蔵,関左門の2人が守っていたが、4月17日、利景は策を講じてこれを襲い、城を奪還すると共に首級15を挙げた。そのうち3つを小牧の家康本陣に送り、西尾吉次と本多正信が首実検をし、論功行賞で明知の所領安堵が認められた。なお、一行は真田昌幸を押し込めるための小諸城の守りに派遣された大久保忠世に後見された依田康国に従った。
 秀吉と織田信雄が和睦を機に終戦すると、秀吉の命令で明知城は戦死した長可の弟・忠政の所領に加えられることになり、利景は再び追われて足助城の鈴木氏を頼った。
 天正16年(1588年)の冬、一行は、家康の使いとして信濃〜甲斐〜駿河を行き来していたが、信濃と甲斐の国境にある平沢峠で大雪により遭難して亡くなった。そのため明知遠山氏の嫡流である景玄系は断絶したが、その後は叔父の景行と、従弟の遠山方景が明知遠山氏を率いて、関ヶ原の戦いの前哨戦である東濃の戦いで戦功を挙げ、江戸幕府成立後に明知遠山氏は、6,531石の交代寄合(参勤交代する旗本)となった。

遠山景晋 遠山景善

 明和4年(1767年)12月、遠山家と養子縁組、天明6年(1786年)閏10月に遠山家を養子相続する。寛政元年(1789年)5月、榊原忠寛の娘と婚姻。寛政6年(1794年)、第2回昌平坂学問所の学問吟味に甲科筆頭で及第、同年、養父の実子(義弟)・景善を養子に迎えた。
 文化元年(1804年)のロシア船来航の際には、幕府の代表としてニコライ・レザノフと会談を行い、レザノフ事件のきっかけを作った。後に長崎奉行となり、江戸に戻った後は勘定奉行などを勤めた。文政年間の能吏として知られ、中川忠英,石川忠房と共に三傑と呼ばれた。  
 最も名を馳せているのは町奉行・遠山景元の父親としてである。もともと景晋の養子入りした遠山家は、明知遠山氏庶流の出で、あまり昇進とは縁のない家であったが、景晋は実家永井家がたどって来た出世ルートに乗り、後の景元が活躍する基礎を築いた。景晋は蝦夷地でロシア人との交渉の記録を松前奉行・村垣定行とともに『西蝦夷日記』にまとめた。「国書総目録」には、他にも景晋の著作が14冊も挙げられている。
 天保8年(1837年)に死去。墓所は遠山家の菩提寺である本妙寺。学問を通じた交流があり、墓碑銘を撰した林述斎は、その碑文で景晋の功績を讃えた最後に、「急流勇退」の人物だと高く評価している。 

 父が景晋を養子に迎えた明和4年(1767年)から3年後に生まれたが、既に義兄・景晋が世継ぎと定められていたため、寛政6年(1794年)3月6日に義兄が昌平坂学問所の学問吟味試験を最優秀で取ったことを機に養子に届け出され、7月11日に受理された。景晋の実子・景元はそれから2ヶ月後の9月17日に出生と江戸幕府に届け出された(実際の出生月日である寛政5年8月23日(1793年9月27日)を詐称)。
 寛政8年(1796年)に九十郎と改名、享和3年(1803年)に義弟・景元を養子に迎えるが、この関係で系図上は景元が景晋の孫ということになってしまった。後に景元が家出して放蕩生活を送ったのは、この複雑な家庭事情が理由だとされる。文化10年(1813年)、小納戸吟味を受け、文政2年(1819年)4月15日に西丸書院番に編入されたが、文政7年12月25日、景晋に先立って死去。享年55。墓所は東京都豊島区巣鴨の本妙寺。
 景善には景寿という実子がいたが、旗本・堀田彦三郎家に養子に出された。景善の死から1年後、景元は景晋の跡継ぎとして幕府に出仕、勘定奉行,北町奉行,大目付,南町奉行を歴任する。


遠山景元 遠山景纂

 『遠山の金さん』および『江戸を斬る』の主人公のモデルとして知られる。現在の東京都港区新橋4丁目にいたこともあったが、晩年は現在の墨田区菊川3丁目に住んでいた。その住居はかつて長谷川平蔵が住んでいた住居であった。
 知行500石の明知遠山氏の分家の6代目にあたる。父・景晋は永井家から遠山家の景好に養子入りしたが、後に養父・景好に景善が生まれたため、景晋は景善を養子にしていた。景元出生時には未だ景善の養子手続きをしていなかったため、景元の出生届は、その手続が終わった誕生翌年の9月に提出された。
 文化6年(1809年)、父の通称であった金四郎に改める。青年期はこうした複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送る。金四郎は文化11年(1814年)には堀田一定の娘で、当時百人組頭であった堀田一知の妹けいと結婚するが、当時は堀田伊勢守家は知行4200石、遠山家は知行500石とは不釣り合いであったが、実父・景晋は長崎奉行であり、堀田家は景元の将来性を見込んだのだろうとされる。
 文政7年(1824年)末に景善が亡くなったため、翌文政8年(1825年)に江戸幕府に出仕、江戸城西丸の小納戸に勤務して役料300俵を支給され、次期将軍の徳川家慶の世話を務めた。文政12年(1829年)4月、景晋の隠居に伴い家督を相続したのち、西丸小納戸頭取,小普請奉行や作事奉行,公事方勘定奉行を歴任し、天保11年(1840年)には北町奉行に就く。
 天保12年(1841年)に始まった天保の改革にあたっては、12月に町人達を奉行所に呼び出して分不相応の贅沢と奢侈の禁止を命令していて、風俗取締りの町触を出したり、寄席の削減を一応実行しているなど方針の一部に賛成していたものの、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対、南町奉行の矢部定謙と共に老中・水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立する。9月、景元は水野に伺書(武士にも適用すべき)を提出しているが採用されず、景元に贅沢取締りの法令を町中に出させた。同年に目付・鳥居による策謀で南町奉行の矢部は罷免・改易となり伊勢桑名藩で死亡、鳥居自身が南町奉行になり、景元は1人で水野・鳥居と対立することになった。
 景元は寄席の削減や芝居小屋廃止についても水野・鳥居と対立、この景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味で、『遠山の金さん』ものを上演した。鳥居や水野との対立が「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図を作り上げていった。他にも株仲間の解散令を町中に流さず将軍へのお目見え禁止処分を受けたり、床見世(現在の露店に相当する)の取り払いを企てた水野を牽制したり、人返しの法にも反対して実質的に内容を緩和させるなど、ことごとく改革に抵抗する姿勢を保った。
 しかし、天保14年(1843年)2月24日、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され、大目付になる。栄転であり地位は上がったが、当時は諸大名への伝達役に過ぎなかったため実質的に閑職だった。在任中の12月29日に分限帳改を兼ね、翌天保15年(弘化元年、1844年)2月22日に朝鮮使節来聘御用取扱を担当した。同年11月に寺社奉行・青山幸哉の家臣・岩井半兵衛に依頼した甲冑「紺糸威胴丸」が完成している。
 天保14年閏9月13日に水野が改革の失敗により罷免、鳥居は反対派に寝返って地位を保ったが、翌弘化元年(1844年)6月21日に水野が復帰、水野の報復で鳥居が失脚し、水野の弟・跡部良弼が後任の南町奉行となった。弘化2年(1845年)3月に跡部も水野の老中罷免の煽りを受ける形で小姓組番頭に異動、景元が南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは極めて異例のことである。
 南町奉行在任中は株仲間の再興に尽力し(株仲間再興令)、床見世の存続を幕府に願い出て実現させた。景元就任で寄席も制限を撤廃され復活した。在任中の嘉永3年(1850年)10月30日、青山百人町に隠棲していた高野長英を配下の同心や捕方らが殴打の末に捕縛したが、長英はその日に絶命した。水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用され、嘉永4年(1851年)の赦律編纂にも関わっている。
 嘉永5年(1852年)に隠居して家督を嫡男の景纂に譲ると、剃髪して帰雲と号し、3年後に63歳で死去。墓所は東京都豊島区巣鴨の本妙寺。
『遠山の金さん』で有名な彫り物「桜吹雪」は、景元が青年期の放蕩時代に入れていたといわれる。しかしこれも諸説あり、「右腕のみ」や「左腕に花模様」、「桜の花びら1枚だけ」、「全身くまなく」、また「生首が手紙を咥えたもの」と様々に伝えられる。また、彫り物自体を疑問視する説もある。
 景元は長年痔を患っており、馬での登城が困難になり、景元の身分では駕籠での登城は許されていなかったが、文政9年(1826年)9月、痔疾を理由に5ヶ月間の駕籠による登城許可を幕府西ノ丸目付に申請した起請文が江戸東京博物館に残っている。
 また、名奉行として名裁きをした記録はほとんどない。そもそも三権分立が確立していない時代、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅している。言わば、東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を兼務したような存在であり、現在でいうところの裁判官役を行うのは、町奉行の役割の一部でしかない。ただし、当時から裁判上手だったという評判はあり、景元は将軍・徳川家慶から裁判ぶりを激賞され、奉行の模範とまで讃えられた。景元が、たびたび水野や鳥居と対立しながらも、矢部のように罷免されなかったのは、この将軍からの「お墨付き」のおかげと考えられる。

 天保5年(1834年)11月28日に西丸小納戸に務め、当時、世子だった徳川家慶に仕えた。天保7年(1836年)に本丸小納戸に移り、翌8年(1837年)に西丸小納戸に戻り、天保12年(1841年)3月23日に再び本丸小納戸に入り、弘化4年(1847年)8月10日に徒頭に転任した。嘉永4年(1851年)6月8日、西丸目付に昇進、翌5年(1852年)の父の隠居で家督を相続した。
 嘉永7年(1854年)1月22日、本丸目付に転任、安政2年(1855年)2月29日に亡くなった父の葬儀を務め一時休職、葬儀を終えた後に復帰したが、8月27日、13代将軍・徳川家定の馬揃えに参加した時に病気となり、同日に39歳で死去。家臣達と同僚の目付衆との相談で、幕府には9月10日に死去したと届け出され、12月3日に子の景彰が幕府から相続を認められ出仕した。
 遠山家の家臣が記録した日記には岩瀬忠震,永井尚志らの名前が記録されていて、2人の仕事内容と贈り物のやり取りがあったことが書かれていて、彼らと交流があったことが確認されている。また、景纂自身も徒頭在任期に『歩兵校尉日記』を書いていた。墓は東京都豊島区の本妙寺。

遠山直景 遠山綱景

 遠山氏が江戸城代であったと明記した確実な史料は『快元僧都記』の天文8年(1539年)の条に「遠山江戸ノ城代」とあるのが唯一の例である。そして、遠山氏の江戸入城に関して『小田原記』には、「江戸の城には遠山四郎右衛門を籠められて」とある。この四郎右衛門は直景のことである。しかし当初は、江戸城の本丸には富永氏が置かれ、遠山氏は二の丸にあった。このことから富永氏が江戸城代であったとする説もあるが、連歌師・宗牧が江戸城へ赴いたときの記事には、遠山氏を江戸城を代表する人物として重視していることから、やはり、遠山氏が江戸城代であったと思われる。
 江戸城代となった直景は、古河公方・足利高基に起請文を掲げて、後北条氏が古河公方に対して味方であることを神掛けて誓っている。直景は後北条氏を代表して古河公方に起請文を出す立場にあり、後北条家一門と同列の家格を認められていたのである。同年11月に氏綱は、越後の守護代・長尾為景に書状を出し、関東管領・上杉憲房および甲斐の武田信虎と和睦したことを通達したが、その書状を越後に届けたのは直景であった。その後、上杉方の長尾憲長や藤田業繁らが後北条方に和睦を求めてきたときも直景が秩父次郎とともに使者となった。


 主君の北条氏綱から偏諱(綱の一字)を賜い、綱景と名乗る。天文2年(1533年)に父・直景が死去すると、家督と江戸城代の地位を引き継ぎ、下総方面の軍事行動を担った。
 天文7年(1538年)に北条家が葛西城を攻略すると、葛西地域に1,000貫文近い所領が与えられた。天文10年(1541年)に氏康が当主となった頃には有力家老となっており、天文19年(1550年)または20年(1551年)に大道寺盛昌が死去すると、綱景が筆頭家老的な立場になった。
 天文13年(1544年)に連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催したことが記録に残っている。当時の関東は田舎であり、文化の中心地である京とはかけ離れた土地であったが、そのようなところで連歌の会を開いたことは、綱景の教養の高さや連歌師を呼べるだけの北条家中における地位を端的に表している。
 天文15年(1546年)3月には扇谷上杉家の宿老である岩付城主・太田全鑑の北条家従属に貢献した。また、この従属をうけて全鑑の娘が綱景の嫡子・藤九郎に嫁し、綱景は岩付太田家への指南を務めた。また、武田家への取次を務め、天文20年(1551年)には西堂丸と黄梅院の婚約のために武田家へ派遣されている。天文23年(1554年)12月には黄梅院の請取を松田盛秀,桑原盛正と共に担当した。弘治2年(1556年)4月に結城政勝への援軍として太田資正と共に派遣され、小田家との合戦に勝利した(常陸海老島・大島台合戦)。
 永禄7年(1564年)、娘婿でもあり、同じく江戸衆寄親でもあった太田康資が里見家の進軍を受け、北条家から離反。康資離反に反応した北条家の葛西領進軍によって発生した第二次国府台合戦において、綱景は子の隼人佐と富永康景とともに先陣を務めたが、里見家の攻撃を受け、隼人佐と康景とともに戦死した。
 綱景と嫡男であった次男・隼人佐(長男・藤九郎はそれ以前に死去)が戦死したため、家督は出家していた4男(後の遠山政景)が還俗して継ぎ、江戸城代と江戸衆寄親を務めた。なお、政景の家系は小田原征伐により没落するが、舎人経忠に嫁いだ娘は夫の死後、嫡男の勇丸を連れて大道寺政繁と再婚し4人の男子を生んだ。勇丸は養子となり、大道寺直英を名乗った。また、政繁の4男の大道寺直次が一時、遠山長右衛門と名乗ったが、江戸幕府の旗本千石に任じられた際に大道寺に復姓した。

遠山政景 遠山直景

 相模国大山寺八大坊の僧侶となっていたが、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で父と兄・隼人佐が戦死したため還俗し、主君の北条氏政から偏諱を賜って政景と名乗り、遠山氏の家督および父の江戸城代と江戸衆寄親という立場を継承した。
 また、古河公方・足利義氏との交渉担当も継承している。永禄10年(1567年)に義氏が政景に相馬治胤の対応について江戸城からの援兵を300〜500依頼するという書状が残っており、同程度の兵を単独で動かせる立場にあったと推測される。
 元亀2年(1571年)に氏康が死去すると、北条氏秀が江戸城代に起用されると、政景は葛西城代となり、役割が縮小された。天正8年(1580年)に死去。家督は息子の遠山直景が跡を継いだ。次男に猿渡盛道がいるとされる。

 父の政景が天正8年(1580年)に没すると家督を継ぐが、その7年後の天正15年(1587年)に死去したと伝わる。ただし、豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸城に拠っていたという説もあり、定かではない(一般的には江戸城は川村秀重が守備していたとされる。秀重は政景の弟、つまり直景の叔父)。
 直景が当主をしていた時期は、北条家の里見氏方面での争いは一種の安定期を迎えている。里見氏の当主・里見義頼は北条氏と和睦をしていた(房相一和)。そのため、主にこの方面の柱石であった直景には、軍功などはほぼ残っていない。
 遠山氏は江戸城代を代々勤めていたが、父の代に北条家一門の北条氏秀(上杉景虎とは別人説が出ている北条綱成の次男とされる人物)が江戸城代として入城するが、ほどなく逝去。氏秀の子である乙松が城代を継ぐが、これも早世する。その後は北条氏政が江戸を治めていた。
 直景が家を継いでいたのは、この氏秀逝去の前後の時期にあたる。江戸城代として正式な配置にあったかは不明。江戸城の支城であった葛西城の城主をしていた。直景が発行した伝馬手形が残り、江戸から葛西を経て房総方面にかけての地域を管轄していたことから、この一帯の支配を任されていたことが確認できる。また、氏政が担当していた千葉氏との外交の補佐をしていたとする説がある。
 『遠山文書』天正10年(1582年)には彼の伝馬手形において「葛西新宿」とあり、これが東京都葛飾区にある「新宿」の初見である。 

遠山康光 遠山康英

 遠山綱景の弟とするのが通説であるが、名乗りや活動時期から兄とされる綱景と20歳近くの年齢差が想定されることや『小田原衆所領役帳』で遠山一族は綱景が筆頭を務めている江戸衆に属するのに、康光だけが小田原衆に属して相模国中郡に所領を与えられていることから、遠山一族ではなく娘婿など婚姻関係によって遠山の家名を与えられた可能性も指摘されている。
 北条氏康より「康」の偏諱を与えられ、近臣に取り立てられた。甲相駿三国同盟が破綻すると、すでに家督を譲っていたにもかかわらず氏康の主導により上杉氏との交渉が始まり、康光はその外交取次として活躍、越相同盟が成立したが、同盟がうまく機能することはなかった。
 元亀2年(1571年)10月に氏康が病死すると、もともと武田氏との敵対に反対であった北条氏政は同盟を破棄した。取次であった康光は責任を取らされて失脚し、人質として送られていた北条三郎の元へ退転した。北条三郎は名を上杉景虎と改め、上杉謙信の後継者候補となる。康光は側近として景虎を支え、御館の乱が勃発した際には後北条氏の援軍を呼び寄せ戦おうとするが、冬が近づいてきたこともあり、北条勢は撤退した。景虎らは後北条氏を頼って小田原城に逃れようとしたが、鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭い、景虎は自害、康光も後を追い自害して果てた。

 別名は直昌とも。また系譜上に登場する遠山直次も康英であるとされている。
 北条氏の家臣・遠山康光の嫡男として誕生したといわれる。北条氏康の奏者として名を連ね、永禄3年(1560年)頃より、相模国三浦郡の代官を務めて伯父の綱景とともに対里見氏の最前線を守る。太田氏資の死後は岩付城に入って同城の城番を務めた。その後、武田信玄が駿河国に侵攻すると、康英も北条軍の一員として駿河に出陣した。上杉謙信との越相同盟締結時には父とともに北条氏の代表として交渉に参画している。元亀元年(1570年)には父とともに武田氏に攻められた伊豆国韮山城に籠城している。その後、父・康光は上杉景虎について越後国に入るが、康英は北条氏政の側近としてそのまま関東に残って上杉氏との連絡役を務めたとされている。
 その最期については諸説あり、御館の乱の際に父とともに景虎の側におり、そのまま乱に巻き込まれて自害したとする説があるが、小田原征伐まで北条氏に仕えて小田原城落城後に中村一氏に召抱えられた「遠山左衛門」という人物を康英と同一人物とみなす説もある。