F801:藤原魚名 | 藤原魚名 ― 藤原末茂 | F878:藤原末茂 |
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藤原末茂 | 藤原総継 |
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宝亀8年(777年)3月に父の大納言・藤原魚名の曹司(官衙の庁舎)に光仁天皇が行幸した際、従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵され、同年10月図書頭に任ぜられる。のち、美濃介,肥後守などの地方官や左衛士員外佐,中衛少将といった武官を歴任する。 |
弘仁2年(811年)、正六位上から従五位下に昇叙され、中務少輔次いで相模介に任ぜられる。のち、紀伊守を務めるが任期中に卒去。 |
藤原沢子 | 藤原直道 |
仁明天皇即位前からの妃で、夫が即位すると天長10年(833年)に女御になった。仁明天皇の寵愛は深く、天長5年(828年)に宗康親王、天長7年(830年)に時康親王(後の光孝天皇)、天長8年(831年)に人康親王を出産した。また、新子内親王をもうけている。承和6年(839年)4月、宮中でにわかに病となり、危篤となり車で里第に運ばれるも、そのまま6月30日に薨去。同年、従三位を追贈された。元慶8年(884年)に所生の時康親王が光孝天皇として即位すると、同年に皇太后を追贈された。 |
承和10年(843年)、文室宮田麻呂に謀反の疑いがかかり左衛門府に拘禁された際、左兵衛大尉であった直道は左中弁・良岑木蓮らとともに宮田麻呂の平安京と難波の邸宅に派遣され、謀反に使う武具の捜索を行った。 |
藤原有穂 | 藤原俊廕 |
清和朝では六位蔵人として天皇に近侍する一方、春宮少進として皇太子・貞明親王にも仕えた。貞観19年(877年)、貞明親王の即位(陽成天皇)に伴い従五位下に叙せられる。陽成朝でも五位蔵人を務める傍らで、侍従次いで右衛門権佐を兼ね引き続き天皇の身近に仕えるものの、40歳代半ばにして依然として位階は従五位下に留まるなど、昇進ははかばかしくなかった。 |
寛平7年(895年)大蔵大丞に任ぜられる。寛平9年(897年)宇多天皇の六位蔵人となり、天皇の譲位後も引き続き新帝となった醍醐天皇の六位蔵人を務めた。同年、左近衛将監に任ぜられ、延喜2年(902年)従五位下に叙爵。越中介に任ぜられた。 |
藤原秀道 | |
承和15年(848年)従五位下に叙爵し、安房守次いで大炊頭に任ぜられる。文徳朝末に越後介,信濃介,左兵衛佐を歴任する。 |