<藤原氏>北家 魚名流

F301:藤原房前  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原魚名 F801:藤原魚名

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藤原魚名 藤原鷹取

 天平勝宝9年(757年)5月に、仲麻呂が紫微内相に任ぜられ権力を握った直後に従五位上に叙せられると、淳仁・称徳朝に亘って順調に昇進する。天平神護元年(765年)11月に従三位に叙せられ公卿に列し、神護景雲2年(768年)には参議に任ぜられている。またこの間、宮内卿,大蔵卿と京官や、備中守,上総守と地方官を歴任している。
 神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御すると、魚名は藤原永手,藤原宿奈麻呂(のち良継),藤原百川らとともに、天智天皇の孫・白壁王(のち光仁天皇)を皇嗣に擁立、道鏡を排除する。同年10月の光仁天皇即位に伴い正三位に叙せられ、翌宝亀2年(771年)には左大臣・永手が薨じたことや、称徳朝からの実力者であった右大・吉備真備の致仕を受けて、参議から一挙に大納言に昇進する等、光仁天皇を擁立した功臣として急速に頭角を現す。宝亀9年(778年)内大臣・良継が薨じたことを受けて内臣に任ぜられるが、魚名は光仁天皇の信頼が非常に篤く、まもなく内臣の官名は「忠臣」に改められている。
 天応元年(781年)4月に光仁天皇が崩御し桓武天皇が即位、6月に右大臣・大中臣清麻呂が引退すると、魚名は左大臣に昇進する。しかし、翌延暦元年(782年)6月に突然左大臣を罷免された上、大宰府へ左遷された。これは氷上川継の乱に連座したものと考えられており、息子たちも同時に左遷〔鷹取(石見介)・末茂(土佐介)・真鷲(父とともに大宰府へ下向〕されている。魚名は大宰府に向かう途中、摂津国豊嶋郡で発病し、摂津にあった別荘に留まり治療を行うことを許される。翌延暦2年(783年)5月には京に召還されたが、同年7月25日に薨じた。享年63。
 魚名の死後間もなく、桓武天皇は左大臣の官職を贈り、左大臣免官に関する詔勅や官符等を焼却させ、その名誉を回復させた。大阪府豊中市に鎮座する服部天神宮の前身の一つが魚名の墓と言われ、境内には今も「川辺左大臣藤原魚名公の墓」が残る。同社には、魚名の死から約100年後に同じく大宰府へ左遷された菅原道真の伝説が伝わっている。

 宝亀2年(771年)、正六位上から従五位下に昇叙される。中務少輔・左京亮を経て、宝亀6年(775年)、遣唐副使に任ぜられるが、大使の佐伯今毛人が病と称し渡海せず、大伴益立とともに副使を更迭される。なお、宝亀9年(778年)にはこの遣唐使の帰国に伴い来日した唐使の慰問を行っている。のち、宝亀9年(778年)従五位上、宝亀10年(779年)正五位上、宝亀11年(780年)従四位下と光仁朝末より急速に昇進しするとともに、左少弁・左中弁と弁官を歴任した。
 天応元年(781年)4月、桓武天皇の即位に伴い従四位上に、11月には正四位下と引き続き桓武朝でも昇進を続け、造宮卿,左京大夫,左兵衛督,侍従,中宮大夫などを務める。しかし、天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱に連座して、父・魚名や兄弟とともに左遷されて石見介となる。翌延暦2年(783年)に入京を許され、延暦3年(784年)4月に再び左京大夫に任ぜられるが、同年5月10日卒去。

藤原真雄 藤原松影

 延暦22年(803年)に従五位下に叙せられ、翌延暦23年(804年)近江権介に任官。延暦25年(806年)平城天皇が即位すると近衛少将に任ぜられ、のちに主殿頭,左馬頭を歴任、天皇の側近として近侍した。常に刀剣を帯びて天皇の車駕を守護していたとされる。
 大同3年(808年)には正五位下次いで従四位下と続けて昇叙される。大同5年(810年)薬子の変の際に、平城京から伊勢国に脱出しようとした平城上皇の輿を藤原葛野麻呂とともに押し留めて身命を賭して諫言をした。変の後に捕らえられて伊予守に左遷されることとなったが、嵯峨天皇が真雄の忠義の心を知って感銘し、従四位下から正四位下に昇進させた上で、格上である備前守に任命した。だが、任地で間もなく病に倒れて死去した。享年45。
 力が人並み外れて強く、武芸に非常に優れていた。性格は清廉で、他人の短所をあげつらうことがなかった。

 はじめ内舎人を務め、天長4年(827年)式部大丞に任ぜられる。当時、春宮・正良親王(のち仁明天皇)の周りに仕える官人は名家から選りすぐって任じていたが、松影の名声が非常に有名であったことから春宮少進に転じた。のち式部大丞に還任するが、朝廷での会合の際に、嵯峨上皇の皇子・源常が淳和天皇の勅許を得て帯剣したまま参加しようとしたが、そのような勅が出ていることを知らなかったために、松影は詰問し帯剣を許さなかった。常は恥じて赤面して退朝したが、淳和天皇がこれを知って激怒し、松影は弾正少忠に左遷された。
 承和元年(834年)遣唐判官兼山城権介に任ぜられるが、母が老いていることを理由に再三固辞し、結局許されている。以降、丹波介を挟んで二度に亘って式部大丞を務め、承和11年(844年)従五位下に叙爵。のち、式部少輔,左少弁,治部少輔を歴任した。嘉祥3年(850年)仁明天皇の崩御の際には、御前次第司次官を務めている。嘉祥4年(851年)山城守。
 斉衡2年(855年)1月22日病気により卒去。享年57。
 基準を厳格に守って物事を公正に行う性格で、鬚や眉はまるで描いたように立派であったという。式部大丞を都合四度に亘って務めて故事に精通しており、また進退・容儀の優れた様子は天性のもので、式部省の官人の模範とされた。

藤原藤成 藤原豊沢
 弘仁2年(811年)播磨介に任ぜられ、弘仁4年(813年)移配させた夷俘に対する教化や、夷俘からの要請に対応するための専当官を兼ねる。のち、播磨守,伊勢守と嵯峨朝においては主に地方官を務めた。この間の、弘仁6年(815年)正五位下、弘仁8年(817年)従四位下と昇進した。弘仁13年(822年)5月4日卒去。享年47。吃音で流暢に話せなかった。内外の諸官を歴任したが、可もなく不可もなくといった様子であった。

 彼は政権中央での権力獲得を目指さなかった。父の藤成が任期後に去った後も下野に残り、史生を務めていた母方の鳥取氏との関係を緊密にするなどして、地方豪族としての権力を築いたと見る説がある。
 しかし、父とされる藤成の系譜上の位置づけは魚名の子とする説のほか、藤原房前の子とする説、藤原良相の子とする説があって系譜が安定していない。また、魚名から藤原秀郷までわずか5代で200年が経過しており、虚妄なることは明白とする指摘もある。この説では下野国の鳥取氏が藤原氏に仕え、その系譜を冒したものであるとされる。また、藤成は下野国での活動が史料で確認できず、その子とされる藤原豊沢以降の歴代も六国史などの史料に確認できない。

藤原村雄 藤原真鷲

 父である豊沢から職務を受け継ぎ下野大掾に任ぜられ、その流れは子孫の太田氏や小山氏に至るまで続いた。仁和3年(887年)従五位下、延喜11年(911年)従四位下へと昇進。
 承平2年(932年)7月15日、卒去。
 村雄は下級役人である史生の鳥取氏ではなく、自らと同じ国司の掾である鹿島氏から妻を迎えている。彼は下野国司として多くの地方豪族や農民を配下に収め、広大な土地を開墾し、父の代より高い権力を保持していたと考えられている。

  天応2年(782年)氷上川継の乱に連座して父・藤原魚名が左大臣を罷免されて大宰帥として九州に下向させられることになった際、真鷲もこれに従うように命じられた。結局、魚名は病気を理由に九州に下向せず摂津国に留まり、翌延暦2年(783年)には息子の鷹取,末茂と相前後して再び入京を許されていることから、真鷲もこれまでに入京を許されたと考えられる。

 延暦4年(785年)大学頭に任ぜられ、翌延暦5年(786年)伯耆守として地方官に転じる。任期末の延暦9年(790年)に任国で飢饉が発生したことから、物資の支給が行われている。同年右少弁に任ぜられて京官に復すが、翌延暦10年(791年)には大宰少弐として再び地方官に転じている。また、同年蝦夷征討のために、東山道に派遣されて兵士の検閲および武具の検査を行っている。