<藤原氏>北家 魚名流 ― 末茂流

F880:藤原顕季  藤原魚名 ― 藤原末茂 ― 藤原連茂 ― 藤原顕季 ― 藤原重家 F881:藤原重家

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藤原重家 藤原経家

 父・顕輔は自らと年齢の近い長男・清輔とは微妙な関係にあり、その分、重家らに愛情深かったという。周防国・筑前国などの国司を歴任するが、二条天皇側近と見なされたことから、応保2年(1162年)に後白河法皇の意向で解官される。その後、復権し、仁安3年(1168年)に昇殿を許され、嘉応2年(1170年)正月には従三位に昇進し公卿に列す。承安元年(1171年)に大宰大弐。安元2年(1176年)6月17日に出家して退隠。法名は蓮寂または蓮家。
 和歌・漢詩・管弦に秀でた才人として名声が高く、特に和歌の方面では、兄・清輔より人麿影供を相伝され六条藤家を継ぐ。数々の歌合に出詠し、九条兼実家百首では判者を務めた。『千載和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に29首が入集。家集に『大宰大弐重家集』がある。

 久寿元年12月(1155年2月)に叙爵。永暦元年(1160年)右衛門佐を務め、応保2年(1162年)従五位上に叙される。阿波権介を経て、二条天皇の崩御後も永万2年(1166年)従四位下・中務権大輔に叙任されるなど昇進を見せた。承安4年(1174年)正四位下に昇り、近江介,右衛門佐を歴任。寿永元年12月(1183年1月)に宮内卿、元暦2年(1185年)には内蔵頭を務め、文治5年(1189年)に従三位に叙され公卿に列した。建久9年(1198年)には正三位に進んだ。
 承元2年(1208年)閏4月15日、七条北東洞院の西辺りから火災が発生。大風が吹き、経家の邸も火に巻き込まれ焼失した。同年9月に出家。承元3年(1209年)9月19日に赤痢病のため61歳で薨去。
 歌人としても活躍し別雷社歌合や六百番歌合などに出詠。勅撰和歌集にも歌が残る。

藤原顕家 藤原知家

 永万元年(1165年)六位蔵人に補され、同年従五位下に叙爵する。永万2年(1166年)に尾張権守に任ず。嘉応3年(1171年)民部権少輔、承安2年(1172年)少納言となり、承安4年(1174年)従五位上に叙される。三河守・右近衛少将を歴任した後、安元3年(1177年)正五位下次いで従四位下に進む。
 しかし、治承3年(1179年)11月17日、平清盛によって治承三年の政変が勃発すると顕家は官職を解かれた。その後、寿永元年(1182年)従四位上・右近衛少将に叙任されて還任し、寿永2年12月(1184年2月)に正四位下に昇叙。元暦2年(1185年)には能登守を兼任した。元暦4年(1187年)左京大夫に遷る。
 建仁元年12月(1202年1月)従三位に叙され公卿に列す。承元2年(1208年)に正三位に叙されるが、建保3年(1215年)8月に63歳で出家するまで13年間官職に就くことはなかった。その後の消息は不明。
 『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に7首が入集している。

 建久4年(1193年)従五位下に叙爵し、翌年、美作守に任ぜられる。中務少輔,左兵衛佐,中宮亮などを歴任ののち、承久元年(1219年)従三位に叙せられて公卿に列し、寛喜元年(1229年)には正三位に至る。嘉禎4年(1238年)病により出家し、蓮性と称した。
 歌人としては、はじめ藤原定家に師事し、『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』で勅撰集入集を果たすが、やがて葉室光俊らと共に御子左派への対抗勢力を形成。『蓮性陳状』によってその立場を主張した。

藤原有家
 仁安2年(1167年)に叙爵、治承2年(1178年)に少納言となる。建久年間以降、歌人として広く知られるようになり、建仁元年(1201年)に和歌所の寄人となり、同2年(1202年)には和歌の賞で大蔵卿となる。承元2年(1208年)には従三位に叙せられた。また、藤原定家とともに『新古今和歌集』の撰者となった。建保3年(1215年)に出家して寂印と名乗るが、翌年に死去。