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藤原重家 | 藤原経家 |
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父・顕輔は自らと年齢の近い長男・清輔とは微妙な関係にあり、その分、重家らに愛情深かったという。周防国・筑前国などの国司を歴任するが、二条天皇側近と見なされたことから、応保2年(1162年)に後白河法皇の意向で解官される。その後、復権し、仁安3年(1168年)に昇殿を許され、嘉応2年(1170年)正月には従三位に昇進し公卿に列す。承安元年(1171年)に大宰大弐。安元2年(1176年)6月17日に出家して退隠。法名は蓮寂または蓮家。 |
久寿元年12月(1155年2月)に叙爵。永暦元年(1160年)右衛門佐を務め、応保2年(1162年)従五位上に叙される。阿波権介を経て、二条天皇の崩御後も永万2年(1166年)従四位下・中務権大輔に叙任されるなど昇進を見せた。承安4年(1174年)正四位下に昇り、近江介,右衛門佐を歴任。寿永元年12月(1183年1月)に宮内卿、元暦2年(1185年)には内蔵頭を務め、文治5年(1189年)に従三位に叙され公卿に列した。建久9年(1198年)には正三位に進んだ。 |
藤原顕家 | 藤原知家 |
永万元年(1165年)六位蔵人に補され、同年従五位下に叙爵する。永万2年(1166年)に尾張権守に任ず。嘉応3年(1171年)民部権少輔、承安2年(1172年)少納言となり、承安4年(1174年)従五位上に叙される。三河守・右近衛少将を歴任した後、安元3年(1177年)正五位下次いで従四位下に進む。 |
建久4年(1193年)従五位下に叙爵し、翌年、美作守に任ぜられる。中務少輔,左兵衛佐,中宮亮などを歴任ののち、承久元年(1219年)従三位に叙せられて公卿に列し、寛喜元年(1229年)には正三位に至る。嘉禎4年(1238年)病により出家し、蓮性と称した。 |
藤原有家 | |
仁安2年(1167年)に叙爵、治承2年(1178年)に少納言となる。建久年間以降、歌人として広く知られるようになり、建仁元年(1201年)に和歌所の寄人となり、同2年(1202年)には和歌の賞で大蔵卿となる。承元2年(1208年)には従三位に叙せられた。また、藤原定家とともに『新古今和歌集』の撰者となった。建保3年(1215年)に出家して寂印と名乗るが、翌年に死去。 |