<藤原氏>北家 魚名流 ― 末茂流

F879:藤原連茂  藤原魚名 ― 藤原末茂 ― 藤原連茂 ― 藤原顕季 F880:藤原顕季


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六条顕季 六条顕輔

 藤原北家魚名流で、魚名の子・末茂の後裔である正四位下美濃守・藤原隆経の子として生まれる。末茂の子孫では光孝天皇の母・藤原沢子の甥として中納言に昇った有穂が唯一の公卿であり、顕季の家は代々受領を務める中級貴族に属する家であった。
 母親が白河天皇の乳母であったため、乳兄弟として白河天皇の信任が厚く、若い頃より讃岐国,丹波国,尾張国と上国の国司を歴任。永保3年(1083年)には29歳にして早くも正四位下に昇進する。その後も大国である播磨守や大宰大弐に任官する等により財力を蓄え、その邸宅六条殿は白河院の院庁となるほど豪勢なものであった。また、家格を上げるために、白河上皇の生母・藤原茂子の兄である藤原実季の養子にもなった。
 院の近臣として権勢を誇り、長治元年(1104年)には従三位に昇進、末茂の子孫としては前述の有穂以来の公卿となった。しかしながら、議政官への昇進は叶わず、極官は正三位・修理大夫であった。なお、顕季が白河法皇に対して参議への任官希望を伝えたものの、漢詩が作れないことを理由に沙汰止みになったとされる。
 顕季の3人の息子(長実・家保・顕輔)及びその子孫も院の近臣として活躍。顕季から始まる家系は善勝寺流と呼ばれ、四条家を始めとして、7家の堂上家(羽林家)を輩出した。 

 康和2年(1100年)1月に白河上皇の院判官代に任ぜられて以降、院の近臣として昇進した。加賀守や中務権大輔を経て、元永元年(1118年)12月正四位下に昇る。大治2年(1127年)1月、讒言により白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、白河院崩御の翌年(1130年)、関白・藤原忠通の娘・聖子が崇徳天皇の中宮に冊立されると、中宮亮となり官界に復帰。保延3年(1137年)10月従三位に叙せられて公卿に列し、同5年(1139年)1月には左京大夫に任じられ、久安4年(1148年)7月正三位に至った。久寿2年(1155年)5月7日に薨去。享年66。
 周辺に優れた歌人が多く、永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合,六条宰相家歌合や久安6年(1150年)の「久安百首」など、多数の歌会・歌合で活躍し、父から六条藤家の象徴である人麻呂影供を受け継いだ。天養元年(1144年)6月に崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受けて、仁平元年(1151年)に『詞花和歌集』を完成させ、奏覧に供した。
 『金葉和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に84首が入集しており、家集には『左京大夫顕輔卿集(顕輔集)』がある。

藤原清輔 顕昭

 天養元年(1144年)、崇徳上皇より父・顕輔が勅撰集『詞花和歌集』の撰集を命ぜられ、清輔もその補助を務めたが、顕輔と対立し、ほとんど清輔の意見は採用されなかったという。その後も父に疎まれ昇進面で支援を得られなかったためか、40歳代後半まで位階は従五位下に留まった。
 二条天皇に重用され『続詞花和歌集』を撰したが、奏覧前に天皇が崩御し勅撰和歌集にならなかった。久寿2年(1155年)、父から人麻呂影供を伝授され、六条藤家を継ぐ。御子左家の藤原俊成に対抗した。
 保元元年(1156年)従四位下。のち太皇太后宮大進に任ぜられ、藤原多子に仕えた。共に仕えた同僚の平経盛とは弟・重家と共に親密な交流を持った。
 多くの著作を残し六条藤家歌学を確立しただけでなく、平安時代の歌学の大成者とされる。公的な場で歌を詠むには古い歌集をみるべきだといって『万葉集』を繰り返し読んだという。歌人として認められてからは多くの歌合の判者をつとめ、歌壇を牽引する存在となった。『千載和歌集』(19首)以下の勅撰和歌集に89首が入集。家集に『清輔朝臣集』が、歌学書に『袋草紙』『奥義抄』『和歌一字抄』などがある。

 亮公,亮阿闍梨とも呼ばれる。父母については不明であるが、左京大夫・藤原顕輔の養子となったため、藤原姓を賜っていた。1191年(建久2年)までに阿闍梨、晩年に法橋に叙せられた。
 少年期に比叡山で修学したが離山、後に仁和寺に入寺し、『袖中抄』など多くの歌学書を著している。それらの大部分は仁和寺宮・守覚法親王に献呈したものである。
 顕輔・清輔没後は六条藤家の中心的存在として歌壇で活躍。歌合への出詠は20数度に及ぶ。「六百番陳状」は「六百番歌合」の判者・藤原俊成への反駁文である。「千五百番歌合」などの判者も務めている。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に43首入集。『今撰和歌集』は顕昭の私撰集とされる。
 実作上では『万葉集』尊重、風情重視の立場をとり、藤原定家らと対立したが、むしろ六条藤家歌学の大成者としての功績が大きい。

藤原季経

 久安2年(1146年)従五位下に叙爵。のち山城守,中務権少輔,中宮亮,宮内卿を歴任し、文治5年(1189年)従三位に叙せられ公卿に列す。建久9年(1198年)正三位。
 同母兄である重家と共に、父・顕輔の寵愛を受けたとされる。「千五百番歌合」等の判者となり、藤原定家と対立したことで知られている。建仁元年(1201年)12月15日、出家。法名は蓮経。
 勅撰歌人として、『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に21首が入集。家集に『季経入道集』がある。