F879:藤原連茂 | 藤原魚名 ― 藤原末茂 ― 藤原連茂 ― 藤原顕季 | F880:藤原顕季 |
リンク | F881・F882・F883 |
六条顕季 | 六条顕輔 |
---|---|
藤原北家魚名流で、魚名の子・末茂の後裔である正四位下美濃守・藤原隆経の子として生まれる。末茂の子孫では光孝天皇の母・藤原沢子の甥として中納言に昇った有穂が唯一の公卿であり、顕季の家は代々受領を務める中級貴族に属する家であった。 |
康和2年(1100年)1月に白河上皇の院判官代に任ぜられて以降、院の近臣として昇進した。加賀守や中務権大輔を経て、元永元年(1118年)12月正四位下に昇る。大治2年(1127年)1月、讒言により白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、白河院崩御の翌年(1130年)、関白・藤原忠通の娘・聖子が崇徳天皇の中宮に冊立されると、中宮亮となり官界に復帰。保延3年(1137年)10月従三位に叙せられて公卿に列し、同5年(1139年)1月には左京大夫に任じられ、久安4年(1148年)7月正三位に至った。久寿2年(1155年)5月7日に薨去。享年66。 |
藤原清輔 | 顕昭 |
天養元年(1144年)、崇徳上皇より父・顕輔が勅撰集『詞花和歌集』の撰集を命ぜられ、清輔もその補助を務めたが、顕輔と対立し、ほとんど清輔の意見は採用されなかったという。その後も父に疎まれ昇進面で支援を得られなかったためか、40歳代後半まで位階は従五位下に留まった。 |
亮公,亮阿闍梨とも呼ばれる。父母については不明であるが、左京大夫・藤原顕輔の養子となったため、藤原姓を賜っていた。1191年(建久2年)までに阿闍梨、晩年に法橋に叙せられた。 |
藤原季経 | |
久安2年(1146年)従五位下に叙爵。のち山城守,中務権少輔,中宮亮,宮内卿を歴任し、文治5年(1189年)従三位に叙せられ公卿に列す。建久9年(1198年)正三位。 |