<藤原氏>北家 魚名流 ― 末茂流

F880:藤原顕季  藤原魚名 ― 藤原末茂 ― 藤原連茂 ― 藤原顕季 ― 藤原長実 F882:藤原長実

リンク
藤原長実 藤原俊盛

 父・顕季同様、白河法皇に近侍する院近臣として立身。法皇の晩年における最も身近な側近であった。因幡・尾張・伊予・播磨など諸国の受領や大宰大弐などを経て、大治5年(1130年)に権中納言に至る。また、死後、娘の得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵愛を得て近衛天皇の母となったことから、正一位左大臣を追贈された。
 政治手腕についての周囲の評価は低く、権中納言就任にあたっては藤原伊通が抗議の意味で致仕するという事件が発生、また長承2年(1133年)に長実が死去した際には、中御門宗忠の日記『中右記』の中で「無才の人、納言に昇るはいまだかつてあらず」と酷評されている。
 父・顕季や弟・顕輔らと同様に和歌に対する造詣は深く、自邸八条亭でたびたび歌会を開催するとともに、鳥羽殿北面歌合,右近衛中将雅定歌合に出詠するなど、数多くの自作を遺した。『金葉和歌集』(15首)以降の勅撰和歌集に19首が入集している。

 祖父・藤原長実は白河法皇の有力な院近臣の一人であったが、鳥羽上皇は長実一族の排除に乗り出した。同年、長実の長男であった父・顕盛は修理大夫を解任されたのもその一環であったとみられている。続く長承2年(1133年)には長実が病死、翌長承3年(1134年)には俊盛が従五位下に叙爵を受けるが、この年に父・顕盛が35歳で病死してしまう。その頃、鳥羽上皇は長実の娘・得子(後の美福門院)を寵愛し始めるが、排除の流れが変わらなかった。
 やがて、俊盛は叔母・得子の庇護を受けるようになる。保延2年(1136年)、得子は知行国として備後国を与えられ、直後に丹後国に変更されるが、この両国の受領として国守に任じられたのが俊盛であった。得子は鳥羽上皇に敵視された自らの兄弟らを排して、若年でこうした経緯と関わりのない甥の俊盛を上皇と自分の側近として育てることになる。以降、俊盛は天養元年(1144年)越前国、仁平2年(1152年)丹後国、保元2年(1157年)讃岐国と美福門院の知行国の国守を歴任しながら、美福門院の側近として奉仕し、この間の久安3年(1147年)従四位下、久安5年(1149年)従四位上、久安6年(1150年)正四位下と順調に昇進している。
 永暦元年(1160年)に美福門院が没すると、俊盛は後白河上皇の側近に転じ、上皇の信頼を得て年預別当に任ぜられて院の雑事を担当した。その功績によって長寛2年(1164年)従三位に叙せられて公卿に列す。仁安元年(1166年)、太皇太后宮権大夫に任ぜられて、太皇太后・藤原多子に仕え、仁安2年(1167年)正三位に至った。
 その後、治承元年(1177年)に出家したことが確認できるが、晩年の動向・死去した年月日は不明である。子息の季能も俊盛の路線を継承し、後白河院や美福門院の娘である八条院の近臣として活動した。

藤原季能 藤原長輔

 藤原顕季を祖とする六条藤家の出身。保元3年(1158年)従五位下に叙せられると、後白河法皇の院近臣として活動する一方で、父・俊盛の従妹である八条院にも親子で仕え、越前国・丹後国・遠江国・周防国・讃岐国・越後国の国司といった地方官を歴任する。
 治承3年(1179年)に越前守に任じられるが、それ以前の越前は平重盛の長年の知行国であり重盛の従弟・通盛など平家の一族が越前守を務めていた。しかし、重盛がこの年の7月29日に薨去した後に重盛の子・維盛に相続されていた知行国は院に没収され、越前守に院近臣の季能を据えたこの人事に平清盛が激怒し法皇を鳥羽殿に幽閉、その近臣一派を大量に解任した。その際には越前守の職を解かれている(治承三年の政変)。しかし、翌治承4年(1180年)5月14日に、清盛の意向をもって法皇の身柄を八条坊門南烏丸西の自邸に迎えており、平家側からも一定の信頼を得ていたことが伺われる。この背景には季能の室が平基盛(清盛の次男)の娘であったことが関係しており、対立を深める法皇と平家の両者の狭間において一種の潤滑油としての役割も負っていた。
 治承・寿永の乱を経て平家が没落した後も、法皇の傍に親しく仕えて一定の地位を確保した。寿永2年(1183年)従三位に叙せられ公卿に列す。文治元年(1185年)に源頼朝の介入によって宮廷内の実権が藤原兼実らの親鎌倉派に移った後も、高階泰経,藤原隆房,藤原実教らと共に法皇側近派を組織して暗にこれに対抗したとされる。
 建久4年(1193年)正三位。承元4年(1210年)出家。藤原俊成を師として歌人としても活動しており、一女は俊成の次男・藤原定家に嫁いでいる。

 永久3年(1115年)12歳で従五位下・甲斐守に叙任。元永3年(1120年)左兵衛佐・丹後守、保安3年(1122年)従五位上、天治3年(1126年)従四位上。長承3年(1134年)正四位下の昇叙されるが、異母妹・得子が鳥羽上皇の寵愛を受けたことに怒った崇徳天皇によって昇殿を止められる。保延6年(1140年)昇殿を許される。同7年(1141年)右馬頭に任ぜられるが、同年、崇徳天皇から近衛天皇(得子の子)への譲位に伴い昇殿を止められる。
 久安4年(1148年)右京大夫、仁平3年(1153年)再び昇殿を許される、同年備後介、同4年(1154年)内蔵頭、同年従三位。
 久寿3年(1156年)、飲水病(糖尿病)により薨去。

藤原実清 藤原得子(美福門院)

 仁平元年(1151年)叙爵され、仁平3年(1153年)に越前守に任じられて以来、各国守や左兵衛権佐を歴任する。また、応保元年(1161年)からは八条院別当を務めた。安元3年(1177年)内蔵頭を経て、同治承元年には従三位に上り公卿に列する。治承5年(1181年)大宰大弐となり、寿永2年(1182年)正三位となったものの、同年の源義仲による院近臣らの大量解官の際に実清もその対象となった。
 寿永3年(1184年)元の職に復帰したものの、病を得て辞官出家し、翌元暦2年(1185年)死去した。妻の愷子(丹波局)は実清と同じく八条院に仕えた後、後鳥羽天皇の乳母を務めている。

 永久5年(1117年)に生まれ、父の鍾愛を一身に受けて育った。父の死後は二条万里小路亭で暮らしていたが、長承3年(1134年)に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになり、保延元年(1135年)12月4日に叡子内親王を出産する。保延2年(1136年)4月、従三位に叙された。保延3年(1137年)、暲子内親王(八条院)を産んだ後、保延5年(1139年)5月18日、待望の皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産した。同年8月17日、鳥羽上皇は体仁親王を崇徳天皇の皇太子とする。体仁親王の立太子とともに得子は女御となり、正妃の璋子(待賢門院)を凌ぐ権勢を持つようになる。保延6年(1140年)には崇徳帝の第一皇子・重仁親王を養子に迎えた。
 永治元年(1141年)12月7日、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳帝の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。近衛帝即位の同年、得子は国母であることから皇后に立てられる。皇后宮大夫には源雅定、権大夫には藤原成通が就任した。得子の周囲には従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成や、縁戚関係にある村上源氏、中御門流の公卿が集結して政治勢力を形成することになる。直後の永治2年(1142年)正月19日、皇后得子呪詛事件が発覚したことで待賢門院は出家に追い込まれ、得子の地位は磐石なものとなった。久安5年(1149年)8月3日、美福門院の院号を宣下された。
 久安4年(1148年)、得子は従兄弟の藤原伊通の娘・呈子を養女に迎えた。藤原頼長の養女・多子が近衛天皇に入内することを鳥羽法皇が承諾した直後であり、当初から多子に対抗して入内させる意図があったと見られる。久安6年(1150年)正月、近衛天皇が元服すると多子が入内して女御となるが、2月になると呈子も関白・藤原忠通の養女として入内することになり、藤原忠通は法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上した。忠通は弟・頼長を養子にしていたが、実子・基実が生まれたことで摂関の地位を自らの子孫に継承させることを望み、得子と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる。3月14日に多子が皇后になると、4月21日に呈子も入内して、6月22日に立后、中宮となった。
 得子は待賢門院と同じ閑院流の出身である多子よりも、自らの養女である呈子に親近感を示して早期出産を期待していた。仁平2年(1152年)10月の懐妊着帯は得子の沙汰で行われ、12月に呈子が御産所に退出すると等身御仏5体を造立して安産を祈願している。しかし予定日の翌年3月を過ぎても呈子は出産せず、僧侶が連日の祈祷を行うも効果はなく、9月に懐妊は誤りであったことが判明して祈祷は止められた。12月に呈子は御産所から内裏に還啓する。周囲の期待に促された想像妊娠だったと思われる。皇子出産の期待を裏切られた得子は忠通と組んで、意に適う皇位継承者を求めて動き出すことになる。
 久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が崩御する。得子には養子として、崇徳上皇の第一皇子・重仁親王と雅仁親王(崇徳上皇の同母弟)の息童である孫王(守仁、後の二条天皇)がいた。このうち後者は既に仁和寺の覚性法親王の元で出家することが決まっていたために、重仁親王が即位するものと思われた。しかし、後継天皇を決める王者議定により、孫王が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。背景には崇徳上皇の院政によって自身が掣肘されることを危惧する得子、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、また崇徳院の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される。8月4日に仁和寺から戻った孫王は、9月23日に親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子、12月9日に元服、翌年3月5日には得子の娘・姝子内親王を妃に迎えるなど、得子の全面的な支援を受けた。 時を同じくして世間には近衛天皇の死は呪詛によるものという噂が流れ、得子と藤原忠通は呪詛したのは藤原忠実・頼長父子であると鳥羽法皇に讒言したため、頼長は内覧を停止されて事実上の失脚状態となった。
 こうして皇位継承から排除され不満が募る崇徳上皇と、得子によって失脚させられた藤原忠実・頼長が結びつき、鳥羽法皇が崩御した直後の保元元年(1156年)7月8日、保元の乱が勃発する。得子はすでに落飾していたが、この乱においては卓抜な戦略的手腕を見せ、重仁親王の乳母子ゆえに鳥羽法皇の遺命では名が挙げられなかった平清盛兄弟をも招致し、後白河天皇方の最終的な勝利へ導いた。
 乱後は信西が国政を担ったが、得子はかねてからの念願であった自らの養子・守仁親王の即位を信西に要求し、保元3年(1158年)8月、「仏と仏との評定」、すなわち信西と得子の協議により、守仁親王の即位を実現させた(二条天皇)。しかし二条天皇の即位は信西一門,二条親政派,後白河院政派の形成・対立を呼び起こし、平治の乱が勃発する原因となった。
 得子は平治の乱の収束を見届けた後、永暦元年(1160年)11月23日、44歳にして白河の金剛勝院御所において崩御。遺令により遺骨は高野山に納められた。この時、女人禁制である高野山ではその妥当性が問題になった。