<藤原氏>北家 魚名流 ― 末茂流

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藤原家保 藤原家成

 各国の受領を歴任し、長承3年(1134年)従三位参議に至る。白河院政期において比類なき信任を受け、白河院司受領,院庁別当を歴任。
 家保の一家は、兄である長実の系統を凌いで善勝寺流の嫡流の地位を占めるに至った。鳥羽院政期にも引き続き重用され、没後に跡を継いだ嫡男の家成は、鳥羽院政の中心を担う存在となった。その子孫は羽林家の四条家として現代に至るまで続いている。
 受領時代に培った経済力を生かし、証金剛院など多くの堂塔の造営にも貢献した。邸宅は三条東洞院にあったと伝わる。 

 鳥羽院政期において、鳥羽上皇の第一の寵臣として活躍する。中央においては、従妹にあたる美福門院とともに国政の中枢部に深く関わり、また諸国においては数多くの荘園を形成して、経済的にも目ざましい躍進を遂げた。長承元年9月24日(1132年11月3日)、上皇が宇治に御幸して平等院の経蔵を見物した際、藤原忠実は他人を絶対に入れない方針を破り、家成を特別に経蔵の中に入れた。長承3年(1134年)、家成はこの経蔵を参考にして鳥羽殿に勝光明院と宝蔵を造営する。
 藤原忠実は家成と協調的な態度を取っていたが、子の頼長は家成を「天下無双の幸人なり」と評して、その勢威に警戒感を示した。
 仁平元年(1151年)、従者同士の諍いを口実にした頼長に邸宅を襲撃され、散々に破壊されるという災難を蒙っている。この頼長の性急かつ短絡的行動は鳥羽法皇の激怒を買い、頼長の失脚とそれにつながる保元の乱勃発の伏線となった。
 久寿元年(1154年)、飲水病(糖尿病)の悪化により死去した。生前、山荘兼寺院を建立し、死後はそこに葬られた。また子孫は羽林家の一つ四条家・山科家として繁栄した。
 平忠盛・清盛父子との親交が深く、若年期の清盛は家成の邸宅に頻繁に出入りしていたと伝えられる。清盛の長男・重盛が正室に家成の娘を迎えたのを筆頭に、両家の間には何重にも姻戚関係が結ばれるに至っている。忠盛の正室(清盛の継母)池禅尼は従姉にあたる。

藤原経子 藤原家長

 平安時代末期の女官。父は中納言・藤原家成。左大臣・大炊御門経宗の猶子。
 平重盛の正室となり、清経,有盛,師盛,忠房を産む。仁安元年(1166年)、叙爵。同年10月、憲仁親王の立太子にあたり、乳母に選ばれた。仁安3年(1168年)、高倉天皇即位により、従五位上・典侍となる。嘉応元年(1169年)11月の八十嶋祭では、勅使役を勤めた。夫・重盛の官位から、大納言典侍,大納言三位と呼ばれた。
 承安元年(1171年)以降の記録は見られないが、重盛没後も存命であり、その後は出家したものと推測される。 

 元永元年(1118年)、白河院判官代と鳥羽天皇の蔵人に任ぜられる。美濃・土佐・備中・能登などの国司を歴任。また、藤原忠実・頼長父子に近侍し、その外出の際にはしばしば前駆を勤めている。その関係からか保元元年(1156年)の保元の乱においては崇徳上皇方に参じたと言われ、『保元物語』においては、乱の後に出家・降伏した公家の中にその名が見える。ただし、その際の処罰を含め、その後の具体的な動静については不明である。
 実家の善勝寺流(六条家流)は庖丁道を伝える家柄であり、家長も鳥羽院の御前の酒宴において包丁人を勤め、魚をさばいた際の逸話が『古事談』に見える。 

藤原保成

 崇徳天皇の乳母子であった関係からその傍に仕え、新院判官代と呼ばれる。大治2年(1127年)に蔵人、久安2年(1146年)には正五位下に叙され、その後は従四位下(あるいは正四位下)まで進む。 
 そうした関係から、保元元年(1156年)の保元の乱に際しては、崇徳上皇方に参加。敗戦後、配所に赴く上皇が仁和寺を出立する際に保成の車を使用したことが、『保元物語』に見える。ただし保成自身については、戦後の処罰を含め、その後の動静は不明である。