<藤原氏>北家 秀郷流

F801:藤原魚名  藤原魚名 ― 藤原秀郷 F901:藤原秀郷

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藤原秀郷 藤原千晴

 出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒したという説もある(あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。
 俵藤太という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であるが、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。
 秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない。さらに、その2年後の延長7年(929年)には、乱行の廉で下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山に城を築いた。
 天慶2年(939年)、平将門が兵を挙げて関東8ヶ国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)である平貞盛,藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮大明神で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている。
 平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察され、この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守,鎮守府将軍も兼任するようになった。将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は資料にほとんど名前が見られなくなり、没年さえも不詳である。生没年は不詳だが、将門討伐のときにはかなりの高齢だったといわれている。
 近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。
 秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城山の神を猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。また、類似した説話が下野国宇都宮にもあり、俵藤太が悪鬼・百目鬼を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。
 伊勢神宮には、秀郷が百足退治に際して龍神から送られた、という伝来のある太刀が奉納されており、「蜈蚣切」(蜈蚣切丸とも)の名で宝刀として所蔵されている。

 父・秀郷が平将門の乱で功績をあげたことにより朝廷で登用され京で活動する。康保4年(967年)、村上天皇の崩御の際、伊勢固関史を務める。東国で平義盛と争ったこともある。この間、相模介などを務めるが、安和2年(969年)に起きた藤原北家嫡流による他氏排斥事件である安和の変で対立する清和源氏の一族・源満季に追捕されて失脚、隠岐に流罪となった。以後の消息は不明。
藤原経清

 陸奥権守従七位下に叙せられ亘理権大夫と称したと言われている。尊卑分脈には「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか煩累していない。ただ、子息の清衡も権大夫であったことでもあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたと見られている。その名が登場する史料は、長年『陸奥話記』のみとされており、藤原姓も私称ではないかとされてきたが、近年、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と見えることが指摘されている。この史料によると、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められており従五位に昇任し、散位ではあったようである。1040年(長久元年)より数ヶ年国府の推挙により、修理太夫として在京し、陸奥守・藤原登任の下向に同行したとの説がある。
 はじめ陸奥守・藤原登任に従う。1051年(永承6年)に鬼切部の戦いで国府と対立していた奥六郡を支配する俘囚長の安倍頼時(頼良)の娘(有加一乃末陪)を妻に迎える。登任の後任に源氏の源頼義が任じられ、頼時が朝廷に帰服すると頼義に従う。頼義は安倍頼時を挑発し、1056年(天喜4年)に安倍氏が蜂起し前九年の役に至ると、同じく安倍頼時の娘を迎えていた義弟の平永衡が謀反の疑い(甲冑をことさら派手にして舅に自軍の位置を知らせたとの讒言による嫌疑)で殺される。わが身にも同様の危機が迫っていると判断した経清は安倍氏の陣営に属す。ために征討は停滞し、住民も国府の命令(赤符)に服さず、経清の徴税の札(白符)に従ったこともあり、朝廷は頼義に代えて高階経重を派遣したが、成すすべなく京都に戻り再度頼義に征討を命じた。ここで頼義は、安倍氏と同じ俘囚の長であった出羽仙北の清原氏に多くの財宝を送り援兵を求めた。全軍を七陣に分けたが、その内第五陣だけが国府軍であり他は清原一族の出羽軍であった。前九年の役は清原氏の協力で厨川の戦いを最後に終結する。源頼義の苦戦は経清の計略による部分が多かったと推測され、そのためもあり経清は捕縛された後、「将軍深悪之故以鈍刀漸斬其首」とあり、頼義の恨みが殊のほか深く面前に引出され、苦痛を長引かせるため錆び刀により鋸引きにして斬首された。
 経清亡き後、妻は前九年で敵対した清原武貞と再婚。遺児も武貞の養子となり、清原清衡と名乗る。清衡は後三年の役の後に清原の領地を治め姓も実父の藤原姓に戻し奥州藤原氏の祖となる。