<藤原氏>北家 秀郷流

F910:内藤重清  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 内藤行俊 ― 内藤重清 ― 内藤忠郷 F916:内藤忠郷

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内藤忠政 内藤忠重
 徳川家康に武将として仕え、各地を転戦して武功があった。永禄6年(1566年)使者として伊勢へ赴く途上、三河一向一揆の蜂起に同調した海賊衆に妨害されたものの、自ら鉄砲で首魁を撃ち殺して退け、任務を遂行した。天正18年(1590年)からは江戸城詰めとなり、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは石川家成とともに江戸城西の丸の留守居役となった。家康が駿府城に移るとこれに従い、駿府に所領と屋敷を与えられた。慶長11年(1606年)駿府で没。実子はいずれも別家し、養子の清成が跡を襲った。

 天正14年(1586年)、内藤忠政の長男として生まれる。徳川家康に仕えて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年)からの大坂の陣で戦功を挙げ、徳川家光の教育係にもなった。所領は常陸国内に1万5000石を与えられていたが、これらの功績を評価されて寛永10年(1633年)に志摩鳥羽2万石に加増移封された。
 藩政においては鳥羽城の大改築や舟の整備などを行ったが、これが原因で深刻な財政難が起こった。承応2年(1653年)4月23日に死去、享年68。跡を長男の忠政(忠種)が継いだ。

内藤忠勝

 寛文11年(1671年)、兄の忠次が跡を継ぐことを固辞して廃嫡されたため、代わって嫡子となる。寛文13年(1673年)の父の死去により跡を継ぎ、弟の忠知に2000石を分与した。
 延宝8年(1680年)、第4代将軍・徳川家綱の77日法要に際し、芝増上寺参詣口門の警備を命ぜられた。普段から忠勝と仲の悪かった永井尚長は出口勝手門の警備を命ぜられていたが、尚長は忠勝より上席にあるため忠勝を侮り、老中から受けた翌日の指示を記した奉書すら忠勝に見せず立ち去ろうとした。忠勝は奉書を見せるように求めたが、尚長は無視したため、忠勝はこれを恨んで脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、尚長が前のめりに転んだところを刺殺した(芝増上寺の刃傷事件)。このため6月27日に忠勝は切腹を命じられ、御家断絶とされた。享年26。
 甥(姉・波知の子)の播磨赤穂藩主・浅野長矩は、21年後に同様の事件を起こして同じ末路をたどることになるが、これは内藤家の遺伝がそのまま長矩に受け継がれたのではないかとされている。忠勝も長矩も癇癪持ちで、しかも内藤家は精神病の家系だった。忠勝の兄の忠次が家督を辞退したのは精神障害だったためとも推測されており、忠勝にもその障害があったのではないかとされている。