<藤原氏>北家 秀郷流

F916:内藤忠郷  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 内藤行俊 ― 内藤重清 ― 内藤忠郷 ― 内藤清成 F917:内藤清成

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内藤清成 内藤清次

 弘治元年(1555年)、三河国岡崎にて竹田宗仲の子として生まれる。内藤忠政の養子となり、19歳で家督を継いだ。浜松にて徳川家康に召し出され、小姓を務めて信任を得る。天正8年(1580年)、徳川秀忠(当時2歳)の傅役を任された。天正18年(1590年)正月には、秀忠の供をして上洛した。
 同年、家康が豊臣秀吉の命で関東に移封された時、清成は鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を務め、国府路(甲州街道)と鎌倉街道の交差付近に陣を敷き、遠見櫓を築いたという。同年9月、家康より四谷から代々木村にかけて20万余坪もの広い屋敷地を賜る。この拝領地は後に新しい宿場(内藤新宿)開設のため相当分が返上されたが、明治維新まで内藤家の江戸藩邸として使用された(現在の新宿御苑周辺)。江戸入り後の清成は関東八州庶務奉行,関東総奉行,江戸町奉行、老中などを歴任、行政面にて大きな功績をあげ、秀忠の傅役時代からの同僚である青山忠成と共に、幕府初期の治世を支えた。また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従い上田合戦に従軍している(江戸で留守居を務めていたとする資料もある)。
 所領・官位の面では、天正20年(1592年)に相模国東郡に5000石を与えられたのを始め、文禄4年(1595年)には従五位下修理亮に叙任し、豊臣姓を下賜された。慶長6年(1601年)、常陸国,上総国,下総国内で1万6000石を加増されて2万1000石となり、大名に列している。
 慶長11年(1606年)1月、大御所家康の怒りを買い、秀忠によって青山忠成と共に関東総奉行の職を停止され籠居を命じられる。家康が江戸近郊の狩場へ鷹狩に出かけたところ、禁猟であるはずの狩場内に狩猟罠が仕掛けられており、これを許可したのが両名であったためとされる。本多正信らのとりなしにより切腹は免れ、11月には勘気が解かれたものの、以後は政治面から遠ざかることとなった。この事件は秀忠の征夷大将軍就任の翌年に起きたため、背景に家康と秀忠の実権争いがあるとする説や本多正信による陰謀とする説などが存在するが、真相は不明である。慶長13年(1608年)江戸にて54歳で病没した。

 天正5年(1577年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の長男として誕生する。慶長9年(1604年)の徳川家光の山王神社初詣をはじめ、翌年の秀忠上洛に同行するなど、清成在世中から信任を受ける。慶長12年(1607年)には家光の傅役を命じられた。大坂夏の陣では書院番頭を務め、のちに奏者番、元和2年(1616年)には老職(後の老中に相当)に就任する。父の清成同様、政治面で重用され、草創期の幕府を支えた。
 所領・官位としては、はじめ常陸国に5000石を与えられ、慶長5年(1600年)には従五位下若狭守に叙任。慶長13年(1608年)、父の死により遺領2万1000石を継ぎ、合計2万6000石を領した。元和3年(1617年)、老中就任の翌年に41歳で死去した。男子がなかったため、家督は次弟の清政が継いだ。

内藤清政 内藤正勝

 慶長8年(1603年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の次男として誕生する。元和3年(1617年)、老中であった兄の清次が死去したため、その跡を継ぎ相模国,常陸国,上総国,下総国内で2万6,000石を領した。この時、従五位下修理亮に叙任した。元和8年(1622年)、安房国平・長狭両郡に領地を移され、4,000石の加増を受けて3万石となる(安房勝山藩)。
 しかし、清政は翌元和9年に21歳の若さで死去した。嗣子がなく、弟の正勝も幼少だったことから、内藤家は一時的に改易された。3年後、正勝は清政の遺領から2万石を拝領し、大名に復帰するが、その正勝も若死にし、安房勝山藩は廃藩となった。正勝の子で清政の甥の重頼は旗本から出世して大名となり、のちに重頼の子・清枚が信濃国高遠に移封され、明治維新まで存続することとなる。 

 慶長13年(1608年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の3男として誕生する。清成の死去と同年の生まれであった。清成の死後、内藤家の家督は長男・清次が、清次の死後は次男・清政が継ぐ。清政の代に安房国勝山に移封され、3万石の大名となっていた。
 元和8年(1622年)、正勝は上総国内で2000石の所領を与えられた。翌元和9年(1623年)に兄の清政が21歳で早世し、後継者が問題となる。清政に子がなく、弟・正勝は幼少であることを理由に家督相続が認められず、内藤家は改易された。3年後の寛永3年(1626年)、安房国内で兄の遺領のうち2万石を与えられ、安房勝山藩主として復帰する。このとき上総の所領2000石は幕府に返上している。しかし兄同様、寛永6年(1629年)8月3日に22歳の若さで死去した。葬儀は江戸の太宗寺で営まれ、後にこの寺が内藤家の菩提寺となった。
 正勝の死後、長男・重頼が3歳と幼少のため、母方の叔父・板倉重宗より幕府に1万5000石を返還する旨の願いが出される。勝山藩は減封・廃藩となり、内藤家は5000石を領するのみの旗本となった。重頼は後に大名に復帰して3万3000石を領し、大坂城代や京都所司代を歴任する。正勝の孫・清枚の時に信濃国高遠に転封され、高遠藩内藤家は明治維新まで続いた。 

内藤重頼 内藤清枚

 寛永5年(1628年)、安房勝山藩第2代藩主・内藤正勝の長男として誕生する。寛永6年(1629年)に正勝が死去すると、重頼は幼少のため、遺領2万石のうち5000石のみを相続した。減封にともない内藤家は大名から旗本となり、安房勝山藩は廃藩となった。
 万治3年(1660年)の定火消を皮切りに、書院番頭,大番頭,御側衆を歴任した。寛文2年(1662年)には従五位下若狭守に叙任した。延宝4年(1676年)、所領を安房国長狭郡から下野国内に移封される。
 延宝8年(1680年)、徳川綱吉の長男・徳松の傅役に就任し、上総国,常陸国,下野国内で3000石を加増され、合わせて8000石を領した。徳松死後の貞享元年(1684年)、若年寄となり常陸国内で5000石を加増、合計1万3000石となり内藤家は大名に復帰する。翌貞享2年には大坂城代に転じ、摂津国・河内国内で2万石を与えられ3万3000石となる(富田林藩)。貞享4年(1687年)には京都所司代を命ぜられ、従四位下侍従に叙任した。
 元禄3年(1690年)11月27日、63歳で死去した。男子がなかったため、正勝の妹の子で天和元年(1681年)に養子としていた甥の清枚(旗本・水野守政の次男)に跡を継がせた。清枚は元禄4年(1691年)に信濃高遠藩へ移封され、以後高遠藩内藤氏は明治維新まで約180年間存続した。
 重頼は寛文8年(1668年)、父・正勝の葬儀を行った僧・太宗に寺地を寄進し、江戸に太宗寺を創建している。重頼自身は京都の金戒光明寺に埋葬されたが、その後も太宗寺は高遠藩内藤氏の菩提寺となった。

 正保2年(1645年)8月6日、旗本・水野守政の次男として生まれる。元服して水野守興と名乗り、旗本として寛文12年(1672年)5月26日、書院番に列し幕臣として仕えていた。母が富田林藩主・内藤重頼の妹だったため、天和元年(1681年)4月6日に重頼の養子となり、内藤清長と改名する。元禄3年(1690年)、重頼の死去により遺領3万3000石を継いだ。元禄4年(1691年)2月9日、信濃国伊那郡・筑摩郡に移封され、高遠藩内藤家の初代藩主となる。藩庁は高遠城に置いた。
 元禄4年(1691年)12月1日、自身の国入りに先立ち、清枚の名で藩士に対し「条目」17ヶ条を発布した。加えて同日付で重臣の連名による「覚」11ヶ条を制定し、家中法度を整えた。なお、初めての国入りは翌年9月21日であった。
 高遠への移封に際して幕府の行った検地では、実高が3万9000石であるとされ、そのうち6000石が幕府領とされた。そのため財政が苦しく、新田開発に尽力することとなる。この新田開発で実高をかなり上げたが、その反面で元禄7年(1694年)と宝永4年(1707年)に大坂加番、元禄8年(1695年)12月から元禄10年(1697年)8月まで奏者番に任じられるなど、要職を歴任したことから出費が増大し、藩財政を苦しめたという。
 元禄9年(1696年)、駒ヶ岳を横断する権兵衛街道を開設する。宝永元年(1704年)、名を清長から清枚に改めた。
 正徳4年(1714年)4月16日に死去した。享年70。養子として長頼と清行がいたが、長頼は不行跡により養子関係を白紙に戻し、清行も早世したため、実子の頼卿が跡を継いだ。

内藤頼寧 内藤頼直

 兄・頼容が廃嫡されたため嫡子となり、文政3年(1820年)に父の隠居により家督を相続した。文政9年6月17日、奏者番に就任する。天保11年(1840年)3月24日、若年寄に就任する。博学多彩で、書画や謡曲・能楽・茶道に通じていた。
 藩政では、産物会所設置による産業奨励,学問の奨励,新田開発計画,藩直営の桑園経営などに手腕を発揮して藩政改革を進める。しかし百姓一揆が発生するなど、藩政は不安定であった。幕末期に政情が不安定になると、頼寧は幕府に日米関係に関する上申書を提出した。また松平慶永や島津斉彬,藤堂氏など多数の大名との交際もあった。日本の軍備の遅れを痛感し、江川英龍らの助けを得て藩の軍備を西洋式に改めて領内で訓練もした。他にも文人や武人を多く招聘して藩の文武の発展に寄与した。
自らは魚釣りが趣味で、深川の下屋敷の池に海水を注入して多くの魚類を育てて楽しみ、彼と親交の深い諸大名も自らの屋敷に魚を放って来訪を待った。だが頼寧より権力のある大名は彼が来る前に魚に餌をやり来訪しても魚がかからないようにしていたというエピソードも伝わる。
 天保12年7月12日、若年寄を辞任する。安政6年(1859年)7月11日、隠居し、7男・頼直に家督を譲る。文久2年(1862年)に没した。頼寧は、魚力行司の木村庄兵衛が借金に苦しんだ時それを肩代わりしたり、藤堂家との関係はかなり深く、葬送時には藤堂家の藩士がその行列を警護したといわれ、多くの才能や学識を持った名君と伝わる。 

 天保11年(1840年)、第7代藩主・内藤頼寧の7男として生まれる。兄・頼愛が早世したため世子となり、安政6年(1859年)に父の隠居により家督を相続すると、翌万延元年(1860年)、藩校進徳館を開闢した。
 文久元年(1861年)の和宮下向の際にはその負担を務めた。文久2年(1862年)の生麦事件では幕命により万一に備えて藩軍を動かした。天狗党の乱では藩の要人が無難なく収めた。また幕府の長州征伐にも参加している。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では官軍につき、戦功で賞典金2000両を下賜されている。藩軍は北越・会津戦争に出動して西園寺公望を助けるなど活躍した。明治2年(1869年)、版籍奉還で高遠藩知事となり、明治3年(1870年)に藩制を新たに定めている。
 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官となった。明治12年(1879年)に没した。