| F940:山内首藤俊通 | 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐藤公清 ― 首藤助清 ― 山内首藤俊通 ― 吉田則弘 | F947:吉田則弘 | ● |

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| 吉田孝頼 | 吉田貞重 |
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| 1518年(永正15年)に長宗我部国親が土佐岡豊城に復帰すると、孝頼は国親の妹を妻として迎え、智謀に優れていたため、参謀として国親に仕えた。仕えた後は謀略を以って長宗我部氏の躍進に一役買う。1526年(大永6年)、長宗我部国親は娘を香宗我部秀義に嫁がせる約束であったが、それを本山茂辰に嫁がせた。国親の違約に秀義は激怒し、国親討伐の兵を挙げた。しかし、孝頼は出家して詫びたため、香宗我部氏は本山氏にその軍を向けたという。これは、香宗我部氏と本山氏を争わせ、弱体化を謀る謀略であったといわれている。また、長宗我部氏の軍制の基本である「一領具足」を考案したのも孝頼といわれている。その後も長宗我部氏の知恵袋として活躍し、1563年(永禄6年)に病死した。 |
1569年(永禄12年)、安芸国虎を追討すべく出陣したが、敵との交戦の際に、槍で目を突かれて重傷を負う。しかし、その敵を突き伏せてその首を取った。その後も長宗我部元親の四国制覇に貢献した。『土佐物語』によると、1588年(天正16年)に長宗我部元親が岡豊城より大高坂山城(後の高知城)に拠点を移した際、その立地を高く評価した。だが、この地は水害が多く、まだ治水が不十分な当時では使い物にならない城だった。そのため、長宗我部元親は浦戸城に拠点を移した。 |
| 吉田重親 | 吉田重俊 |
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祖父や父同様、長宗我部氏の重臣であった。関ヶ原の戦いの後に長宗我部盛親が改易されると浪人となった。1614年(慶長19年)から始まる大坂の役では、再起した盛親に従い大坂城に入る。翌年の大坂夏の陣における八尾・若江の戦いで、増田盛次らとともに先鋒として出撃するも、兵数や装備の不足により劣勢を強いられ、討死した。 |
通称は大備後。長宗我部国親・元親の2代に渡って仕えた。智勇に優れ、国親の大津城攻撃では長宗我部軍の先手として活躍する。1558年(永禄元年)に上夜須城主に任ぜられる。1569(永禄12年)年から始まる安芸国虎討伐戦においては、一族の吉田孝俊と共に奇計によって安芸軍を敗走させ、籠城した安芸軍を計略を以って内部崩壊に導いた。 |
| 吉田康俊 | 吉田政重 |
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長宗我部元親の重臣・吉田孝俊の子として誕生。母は鶏冠木大膳大夫の娘。 |
1568年(永禄11年)に吉田俊政の子として生まれる。身の丈六尺二寸の偉丈夫で、武勇に優れていた。1582年(天正10年)の中富川の戦いを初陣に、各地を転戦して武功を挙げた。しかし、長宗我部氏は天下人の豊臣秀吉に屈し、その傘下に入ることとなる。1592(文禄元年)年から始まる文禄・慶長の役では、敵将の朴好仁を捕らえるという大功を挙げ、陣地を荒らしていた虎退治をしている。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、主君・長宗我部盛親は不戦敗を喫し、所領を没収される。このため政重も所領を失うこととなる。 |
| 吉田正秋(東洋) | 吉田正春 |
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1816年(文化13年)、土佐藩上士・吉田正清(馬廻格・200石)の4男として高知城下帯屋町に生まれる。1823年(文政6年)、庶兄の早世によって嗣子となる。1837年(天保8年)、口論のすえに家僕を無礼討ちしたことから蟄居する。1841年(天保12年)、父・正清の死去により家督を相続する。 1842年(天保13年)9月に船奉行として出仕し、同年11月には郡奉行に転じて民政に携わる。藩主・山内豊熈の進める藩政改革に参与し、飢饉に備えた藩営備蓄の「済農倉」設立を進言する。1845年(弘化2年)に病により無役となったが、人事や法令改正、海防等の意見書である『時事五箇条』を提出する。1847年(弘化4年)には船奉行として再出仕する。 |
1862年5月6日(文久2年4月8日)、11歳の時に父・東洋が高知城下帯屋町で、土佐勤王党によって暗殺される。1864年(元治元年)、13歳で母が病死し、以後は従兄の後藤象二郎の扶助によってに育てられ、土佐藩校の致道館で学ぶ。象二郎も幼少期に父・正晴を失い、義理の叔父にあたる東洋に預けられて育ったので、彼にとっては恩返しの意味も込められ、東洋暗殺の首犯(武市瑞山)検挙と、遺児正春を大切に育てることを誓っていた。 |