<藤原氏>北家 秀郷流

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山内首藤俊通 山内道美

 相模国出身で藤原秀郷の後裔を称する。曾祖父の首藤資通は、幼少時は奥州に12年居住し、前九年の役,後三年の役で源義家に従った。俊通は首藤義通の子で、幼少時は奥州に12年居住したのち、相模鎌倉郡山内庄を領した際に山内姓を名乗り、山内首藤氏と呼ばれるようになった。源義朝に従って保元の乱,平治の乱に参戦したが、平治元年(1159年)12月28日、京都の四条河原で平家方に討たれた。
 俊通の妻の山内尼は源頼朝の乳母となり、その子・山内首藤経俊は頼朝の乳兄弟となった。俊秀は平治の乱で父の山内首藤俊通が討死した後、近江国園城寺の僧・慶秀に入門する。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵に従うが、平家軍の追撃をうけて宇治橋で応戦するが敗走、同年5月頃、光明山で討死した。 

 道美は法名ともいわれる。1281(弘安4)年に飯田荘上郷内の亀久保・西俣に入った山内道茂の時代から、応永年間(1394~1428年)初期には山内通弘・通秀の代に南へ進出し、天方本城を築いたとされる。城主が山内対馬守道美のとき、天方本城を弟の山城守に譲り、さらに南の飯田郷に進出する。1401(応永8)年に飯田城(のちに飯田古城)を築き、禅僧・如仲天誾を招いて崇信寺を創建して寺領を寄進した。これにより道美は飯田山内氏の祖となった。応永32年(1425年)12月16日死去。
山内通泰

 山内対馬守道美(1425年没),2代・山内対馬守久通(没年不詳)に続く3代目とされるが、没年1569(永禄12)年からみて3代目ではないと考えられる。また、同族の天方氏にも通泰がみられるが、法名が異なり別人か。
 1545(天文14)年頃には飯田城を築き、飯田古城から移ったとされる。今川義元が桶狭間に倒れると、遠江国にて三河の徳川家康と甲斐の武田信玄によって争奪戦が繰り広げられるようになる。1568(永禄11)年には三河の徳川家康が遠江に侵攻すると、遠江の国人衆が続々と家康に降るなか、山内通泰は家康に降ることなく敵対していたため、家康は榊原康政,大須賀康高らに飯田城を攻めさせ、1569(永禄12)年8月12日に山内通泰は激戦の末に討死した。飯田城跡南東に仙人塚がある。
 なお、通泰の一子・伊織は徳川の従士・梅村彦兵衛に伴われて三州加茂郡広瀬村へ落ち延び、同郡上野山村に土着して伝右衛門と称したという。