<藤原氏>北家 秀郷流

F940:山内首藤俊通  藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐藤公清 ― 首藤助清 ― 山内首藤俊通 ― 天方通秀 F948:天方通秀

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天方通秀 天方通季
 1281(弘安4)年に飯田荘上郷内の亀久保・西俣に入った山内道茂に始まる。藤原北家秀郷流首藤氏流である。応永年間(1394~1428年)初期、山内通弘・通秀の代に南へ進出し、天方本城に居城し天方と称した。 

 1494(明応3)年、今川氏親は伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)を大将とする大軍を侵攻させ、中遠三郡(佐野郡,山名郡,周智郡)を席捲したため、天方城主の天方通季は今川氏に降った。
 1501(文亀元)年、遠江守護の斯波氏は信濃の小笠原氏と連合して、今川方の久野城と天方本城を攻めた。通季は一旦は斯波の大軍襲来の前に城を捨てて今川方に身を寄せたが、その後、今川方の武将の本間宗季らとともに城を奪還した。戦後、堅固な城の必要性を痛感した通季は、城の南側の三倉川対岸に要害堅固な白山城を築いた。 

天方通興 天方通綱
 当初、今川氏に属したが、今川義元が桶狭間で信長に討たれ、氏真の代に今川氏が衰退すると、通興は石川伯耆守数正について家康に謁え、以後徳川氏に仕えた。天正2年(1574年)、家康が遠江国乾城を攻めた時、大久保忠世に属して、案内役を勤めた。これより、通興は大久保忠世に属して、家康の戦に参加し、数々の戦功を挙げている。 

 通興嫡子の通之が早世したため、次男の通綱が家督を継いだ。通綱は織田信長の嫌疑を受けて、切腹の命を受けた家康の嫡子・信康の検視役を命じられ、同役の服部半蔵とともに遠江二俣城に赴くことになった。信康自刃に際し介錯を頼まれた半蔵がその任に堪えきれず、代わって通綱が信康の介錯をした。通綱はのちに信康介錯のことをはばかって出奔し、天方家の存続をはかるため、青山忠成の5男で外孫の通直を養子にした。
 慶長元年(1596年)死去。享年79。通綱は、鞍・鎧づくりに優れ、その作品は彦根井伊家に伝わっている。通綱の子孫は福井藩士として続いた。

天方通直

 通興のあとは、娘婿の青山忠成の子・通直が継いだ。通直は幼少の時より家康に奉仕し、慶長8年(1603年)の家康上洛にも随行し、慶長18年(1613年)には、2250石を知行した。慶長19年(1614年)の大坂の陣にも秀忠に従って参陣した。
 寛永2年(1625年)、上総国武射,下総国葛飾・香取,相模国高座四郡のうちで2250石の朱印状を賜った。同3年(1626年)には従五位下備前守に叙任、同7年(1630年)11月に死去した。旗本家天方氏はのちに青山氏に改姓している。
 家紋は、首藤氏ゆかりの「一文字」紋が本来の定紋であったが、青山氏との関係から「細輪に葉菊」紋の方が後世では定紋となっていった。