清和源氏

G114:下間宗重  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 源 仲政 ― 源 頼政 ― 下間宗重 ― 池田重利 G115:池田重利

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池田重利 池田重政

 元は本願寺の坊官であり、下間 頼広と名乗っていた。下間系池田家初代となる。本願寺の坊官・下間頼龍の長男。母は池田恒興の養女(織田信長の姪で織田信時の娘)。
 初め、父親と共に東本願寺を開いた教如に仕えていた。だが、教如とは相性が悪く、父親が死んだ慶長14年(1609年)に母方の叔父である池田輝政の元へ出奔してしまった。下間頼広はかつて一向一揆を率いていた本願寺の坊官に相応しく学識だけではなく武芸にも通じていたことから、叔父から仕官を勧められて3,000石をもって輝政の嫡子・利隆の補佐を命じられた。4年後、利隆が輝政の後を継ぐと池田姓を与えられて「池田重利」と改名し、翌年には池田氏重臣として徳川家康に拝謁している。
 大坂の陣では尼崎城を守って戦功があり、戦後に家康から1万石を与えられて大名となった。寛永3年(1626年)には播磨国揖東郡新宮に陣屋を設置し、新宮藩を創設した。
 寛永8年(1631年)に46歳で死去し、その後は長男の重政が継いだ。

 父の死去により後を継ぐ。藩政の確立に尽力し、特に慶安3年(1650年)に家臣に命じて作らせた「播磨国絵図」は、当時の播磨国内を知る上で重要な文化財となっている。慶安4年(1651年)6月20日、江戸で死去。享年49。後を次男の薫彰が継いだ。

 

池田邦照 池田重教
 寛文3年(1663年)に父が若死にしたため、跡を継いで藩主となる。しかし生来より病弱で、寛文10年(1670年)1月28日に13歳で死去。子は無く、弟の重教に家督を継がせるはずだったが許されず、新宮藩は無嗣改易となった。ただし、池田光政と池田光仲の尽力で、重教は3,000石の寄合として存続を許された。  万治3年(1660年)、池田薫彰の次男として生まれる。寛文10年(1670年)、兄・邦照が13歳で若死したため、新宮藩は改易となったが、池田光政と池田光仲の幕府への嘆願によって、同年、旧領のうちにおいて3,000石を賜わり寄合に列する。元禄8年(1695年)、36歳で死去。跡を養子の由道(池田由孝の実子)が継いだ。
池田頼方

 安政の大獄における江戸南町奉行で、後に勘定奉行も兼帯。寺社奉行・松平宗秀,北町奉行・石谷穆清,大目付・久貝正典,目付・神保長興らと共に志士の裁断を担当した現場の指揮官。
 文化11年(1814年)に14歳で家督相続。天保3年(1832年)8月17日、寄合のまま火事場見廻を兼帯。翌天保4年(1833年)9月19日、寄合肝煎に異動。天保7年(1836年)9月20日、西丸(世子・徳川家慶。家慶が将軍就任後は世子・徳川家祥)目付に異動。
 その後、浦賀奉行,奈良奉行,普請奉行,勘定奉行(公事方),道中奉行をつとめる。嘉永3年(1850年)には勘定奉行役宅へ護送された上州侠客・国定忠治を尋問、死刑(磔)を申し渡す。翌嘉永4年(1851年)、老中・阿部正弘の命により、寺社奉行・脇坂安宅,江戸南町奉行・遠山景元と共に、恩赦に関する公式な制度の確立のため赦律制定作業に携わる。
 嘉永5年(1852年)3月30日、遠山景元の辞任で江戸南町奉行に異動。在任中の安政2年(1855年)3月6日に江戸城で御金蔵破りが発生、4000両を盗んだ犯人探索に当たったが見つからず、2年後の安政4年(1857年)に加賀で捕まった犯人を磔にした。同年5月22日、序列が留守居次席となり、12月28日に大目付へ異動、海防掛を兼帯。翌安政5年(1858年)2月2日に鉄炮改兼帯。7月6日、幕府上使として、前水戸藩主・徳川斉昭に対して不時登城の咎により謹慎の沙汰を申し渡す。10月9日、江戸南町奉行に再異動。序列は再び留守居次席。
 安政6年(1859年)2月3日、勘定奉行公事方を再任の形で兼帯。この人事は大老・井伊直弼の意向があり、飯泉喜内の逮捕をきっかけに安政の大獄を始めた直弼は、志士の捕縛打ち切りを主張した寺社奉行・板倉勝静と勘定奉行・佐々木顕発を罷免、後任の勘定奉行となった頼方は五手掛(構成員:寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・目付)の一員として吟味を進めた(寺社奉行は松平宗秀)]。吉田松陰の取り調べに当たり、10月16日の評定所での口書(供述調書)で読み上げが行われた際、異議を唱えた松陰と口論になった。10月27日に言い渡された松陰の判決に際し、流罪を相当として直弼に書面を提出するが、直弼の裁可によって覆され、死罪と書き改められる。
 万延元年(1860年)3月3日に直弼が暗殺された(桜田門外の変)後、幕府は評定を五手掛で行い、町奉行では頼方が評定所の構成員となる。同年12月5日、アメリカ通訳官・ヒュースケンが惨殺された事件で犯人捜索を命じられる。翌文久元年(1861年)5月26日、病気により辞職して寄合に異動。
 文久2年(1862年)10月24日、寄合肝煎に再任したが、11月23日には飯泉喜内の吟味に問題があったとして寄合肝煎差控となり寄合となる。それでも翌文久3年(1863年)10月8日には寄合肝煎に再々任、元治元年(1864年)7月2日に書院番頭(二番組)へ異動、4日後の6日に江戸北町奉行に異動となり、町奉行としても再々任となった。翌元治2年(1865年)2月21日には序列も3度目の留守居次席となる。
 慶応2年(1866年)6月29日、御役御免になり勤仕並寄合に異動。以後の消息は不明。明治9年(1876年)2月17日に76歳で亡くなったことが確認されている。
 江戸町奉行を3度歴任。他者に例はない。また、稀有な事例として江戸町奉行で勘定奉行を兼帯する時期もあった