G114:下間宗重 | 源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 源 仲政 ― 源 頼政 ― 下間宗重 ― 池田重利 | G115:池田重利 | ● |
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池田重利 | 池田重政 |
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元は本願寺の坊官であり、下間 頼広と名乗っていた。下間系池田家初代となる。本願寺の坊官・下間頼龍の長男。母は池田恒興の養女(織田信長の姪で織田信時の娘)。 |
父の死去により後を継ぐ。藩政の確立に尽力し、特に慶安3年(1650年)に家臣に命じて作らせた「播磨国絵図」は、当時の播磨国内を知る上で重要な文化財となっている。慶安4年(1651年)6月20日、江戸で死去。享年49。後を次男の薫彰が継いだ。
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池田邦照 | 池田重教 |
寛文3年(1663年)に父が若死にしたため、跡を継いで藩主となる。しかし生来より病弱で、寛文10年(1670年)1月28日に13歳で死去。子は無く、弟の重教に家督を継がせるはずだったが許されず、新宮藩は無嗣改易となった。ただし、池田光政と池田光仲の尽力で、重教は3,000石の寄合として存続を許された。 | 万治3年(1660年)、池田薫彰の次男として生まれる。寛文10年(1670年)、兄・邦照が13歳で若死したため、新宮藩は改易となったが、池田光政と池田光仲の幕府への嘆願によって、同年、旧領のうちにおいて3,000石を賜わり寄合に列する。元禄8年(1695年)、36歳で死去。跡を養子の由道(池田由孝の実子)が継いだ。 |
池田頼方 | |
安政の大獄における江戸南町奉行で、後に勘定奉行も兼帯。寺社奉行・松平宗秀,北町奉行・石谷穆清,大目付・久貝正典,目付・神保長興らと共に志士の裁断を担当した現場の指揮官。 |